「この人のこと、ちょっと気になるかも」と思ったのは、
営業部の定例会議が終わった後だった。
彼がふと漏らした、「でも、ちゃんと見てる人は見てますよ」
――その一言が、妙に心に残った。
気づけば私は、週に一度の会議を、プレゼンより彼の表情で記憶するように
なっていた。
でも、私が彼に好意を伝えることはなかった。いや、できなかった。
なぜなら「もし万が一、迷惑だったら」その瞬間、
私は“セクハラをする側”になってしまうかもしれないからだ。
恋をする自由と、誤解されない慎重さの間で揺れる「今」
現代の恋は、告白すらハイリスク。
男女問わず、ひとたび「好意を抱いています」と口にすれば、
それが歓迎されなければ、時に「セクハラ」や「パワハラ」のラベルを貼られる。
職場恋愛が減っているという調査結果もある。
かつては自然な出会いの場だった職場が、今では“恋してはいけない聖域”のような扱いを受け始めている。
でも、私たちはAIじゃない。
感情で動く生き物で、無意識に誰かに惹かれ、ふとした瞬間にときめいてしまう。
たとえそれが、社内ルールに引っかかろうとも、常識にそぐわなかろうとも、心はそう簡単に理屈に従ってはくれない。
恋することさえ「コンプラ」に縛られる、息苦しい世界
かつての恋は自由だった。
“好き”という感情がただ純粋で、たとえ片想いで終わっても、
それが人生のスパイスになった。
でも、今はどう?
「言わないことが優しさ」
「空気を読んで諦める」
「どうせ無理だから最初から何も言わない」
まるで“恋しないこと”が美徳のように語られる世の中で、
誰もが無難を選び、恋の火種さえ自ら消そうとしている。
本当は伝えたいことがある。
けれど「その気がないなら軽率だった」と言われたくない。
だから黙る。
だから、感情が干からびていく。
リスクを恐れて、私たちは“人間らしさ”を手放していないか?
私の知人に、社内恋愛から結婚した夫婦がいる。
彼らは「自分の気持ちを伝えなければ、未来は変わらなかった」と話す。
その言葉を聞いて、私は思った。
いまの時代に恋をすることは、“正直さ”と“慎重さ”の
どちらかを捨てなければ成立しない、まるで二択ゲームみたいだと。
それって、本当に幸せな社会なんだろうか?
もちろん、セクハラやパワハラが厳しく取り締まられるのは必要だ。
けれど、それが「人を好きになること」まで否定してしまったとしたら、私たちはいったいどこに向かっているのだろう。
そして、私はまた何も言わずに彼の横を通り過ぎた。
香水の匂いひとつで思い出すような恋にすら、名前をつけることができない。
“安全”という名の牢獄のなかで、私たちは恋をしないことで自分を守っている。
でもそれは、本当に自分を守れているのだろうか。
――あなたは今、恋をしていますか?
それとも、恋をしないことで、自分を守っていますか?