5月は、光と影のコントラストが最も美しい季節。街路樹の若葉はまぶしいほどに輝き、カフェのテラス席には、まるで映画のワンシーンのように人々がグラスを傾けている。そんなある午後、私はいつものカフェの窓辺に座り、熱いコーヒーを啜りながら、ぼんやりと外を眺めていた。

道行く人々は皆、何かから逃れるように、あるいは何かに追われるように、足早に過ぎ去っていく。スマートフォンの画面に目を落とし、誰かと通話しながら、あるいはイヤホンで耳を塞ぎながら。彼らの顔には、疲れと焦燥が滲んでいた。そして、私の中に、ある問いが静かに湧き上がってきたの。

私たちは、いつからこんなにも、"自分自身"を置き去りにしてしまったのかしら?

かつて、私たちはもっと自由だったはず。もっと無邪気に、もっと好奇心旺盛に、心のままに時間を過ごしていたはず。でも、いつの間にか、私たちは「生産性」という名の呪文に囚われ、分刻みのスケジュールに人生を切り売りするようになった。朝から晩までPCと向き合い、SNSの通知に一喜一憂し、気づけば今日が何月何日かすら曖昧になっている。

まるで高速道路をノンストップで走り続ける車のように、ただ前だけを見て、アクセルを踏み続ける。でも、目的地は本当にそこにあるの?私たちは、本当に望む場所へ向かっているのかしら?

消耗する魂と失われる創造性

知っているわ、あなたも感じているはず。このままでは「ヤバい」って。

終わりの見えないタスク、鳴りやまない通知、増え続ける責任。気づけば、あなたは自分の感情さえも「効率」のフィルターを通してしか見られなくなっている。小さな喜びを感じる余裕もなく、ただただ疲労が蓄積していく毎日。これが、あなたが本当に望んだ未来だったかしら?

心理学で言う「燃え尽き症候群(バーンアウト)」は、もはや他人事じゃない。それは、あなたの魂が発するSOS信号よ。情熱を失い、無気力になり、やがては心身の健康を損なう。ひどい場合には、うつ病や適応障害といった深刻な状況に陥ることもあるわ。

さらに恐ろしいのは、この状態があなたの創造性を蝕むこと。創造性って、時間や心の余裕から生まれるものなの。新しいアイデアも、問題解決の糸口も、ふとした瞬間の「気づき」から生まれる。でも、常に時間に追われ、精神的に追い詰められている状態では、そんな「余白」は生まれない。結果的に、あなたの仕事の質は低下し、キャリアの成長も停滞してしまうわ。

私たちは、この「忙しい」という麻薬に、あまりにも深く依存しすぎている。

カフェの窓の外、ふと目をやると、一組の老夫婦がゆっくりと手をつないで歩いていた。彼らは、何を急ぐでもなく、ただ互いの存在を慈しむように、ゆっくりと時間を味わっているように見えた。その光景が、私の胸にチクリと刺さったの。私たちは、いつからこんなにも、人生を味わうことを忘れてしまったのだろう、と。

 5月の午後を「人生の余白」に変える魔法

でも、絶望する必要はないわ。あなたは、まだ間に合う。この「ヤバい」状況から抜け出し、再び自分軸を取り戻すための方法は、確実に存在するの。

ニューヨークの街角で私が実践している、そして多くの成功者たちが無意識のうちに行っている、シンプルな習慣。それは、「意図的に、何もしない時間を作る」こと。

たったこれだけ?と思うかもしれない。でも、この「何もしない」が、実は最もパワフルな「自己投資」なの。

例えば、私が今こうしてカフェの窓辺で過ごす時間のように。

  • 意識的な「思考停止」の時間を持つ:カフェの窓辺でぼんやり外を眺める10分。通勤電車の中でスマートフォンの代わりに、窓の外を流れる景色を眺める5分。これは瞑想にも似ているわ。脳を休ませ、情報を整理する時間を与えるの。
  • 「好奇心の追跡」を習慣にする:SNSやニュースを見る代わりに、たまたま目に入ったカフェのポスターに惹かれて入ってみる。図書館で普段読まないジャンルの本を手に取ってみる。そうした「無駄」に見える行動から、新しい発見やインスピレーションが生まれるのよ。
  • 「五感」を研ぎ澄ますトレーニング:コーヒーの香りを深く吸い込む。窓から差し込む5月の陽光を目を閉じて感じる。雨上がりの空気の匂いを嗅ぐ。徳永英明のあの曲を、ただただ目を閉じて聴く。私たちは普段、情報過多で五感を鈍らせている。意識的に五感を使うことで、感性が呼び覚まされ、日々の小さな変化に気づけるようになるわ。
  • 「ひとり時間の聖域」を作る:毎日、誰にも邪魔されない「自分の時間」を最低15分、確保する。それは朝一番のコーヒータイムでもいいし、寝る前の数分でもいい。その時間だけは、仕事も、人間関係も、すべてをシャットアウトして、ただ「自分」と向き合う。日記をつけたり、好きな音楽を聴いたり、何もしなかったり。

これらの小さな習慣は、あなたの心のコップに少しずつ「余裕」という水を注いでくれる。そして、その「余裕」が、やがてあなたの生産性を高め、創造性を刺激し、何よりもあなた自身の幸福感を取り戻すことに繋がるの。

あなたの人生を取り戻す最初のステップ

さて、ここまで読んでくれたあなた。きっと、もう気づいているはずよ。

「ヤバい」とわかっているのに、なぜあなたは行動しないの?それは、きっと「忙しさ」が、行動しない言い訳になっているから。でも、その忙しさは、本当にあなたを幸せにしているかしら?

だから、今、この瞬間から、具体的な一歩を踏み出すことを提案するわ。

  1. 今日のスケジュールに「空白の時間」を意図的に設ける。 たった10分でいい。会議と会議の合間、ランチタイムの後、あるいは帰宅してからの「ただ座るだけの時間」。スマートフォンはしまって、ただ窓の外を眺めたり、目を閉じて深呼吸したりするだけ。この時間は、誰にも邪魔されないあなたの「聖域」よ。

  2. 「五感」を意識して、今の瞬間を味わう。 今飲んでいるコーヒーの温度、香り。耳に届く街の音。あなたが着ている服の肌触り。意識的に五感に集中することで、思考優位だった脳がリラックスし、心が落ち着くのを感じるはずよ。

  3. 週に一度、「デジタルデトックス・タイム」を設ける。 土日のどちらか、あるいは平日の夜、数時間だけでも良いから、意識的にスマートフォンやPCから離れる時間を作る。本を読んだり、散歩に出かけたり、誰かとゆっくり会話したり。デジタル漬けの日常から離れることで、頭がクリアになり、新しい視点が生まれるわ。

これは、難しいことじゃない。大げさなことをする必要もない。あなたの日常の小さな習慣を変えることから、すべては始まるの。

人生は、ただ「こなす」ものではない。それは、味わい、感じ、そして創造していくものだわ。

あなたが、5月の午後の光の中で、ふと立ち止まり、自分自身と向き合う時間を持つことで、きっと何か大切なものを取り戻せるはず。そして、その「何か」が、あなたの人生をより豊かで意味のあるものに変えていく。

だから、今、このコラムを読み終えたあなたに、問いかけたいわ。

次にあなたが入るカフェで、あなたはスマホの画面を眺め続ける?それとも、その窓の外に広がる、あなただけの「人生の余白」を見つけ出すかしら?

あなた自身の人生を、誰に委ねるの?

ニューヨークの街を歩いていると、人々の声が雑踏に溶け込んでいる。その中には、「誰も私たちの声を聞いてくれない」という嘆きも混じっている。けれど、日本の街も同じだ。変化を求めて声を上げる市民がいる一方で、その声が政治に届かない現実がある。

ふとニュースを見ていると、同じような光景が繰り返されていることに気づく。会議室の中でネクタイを締めた政治家たちが、机を囲んで何かを議論している。けれど、その議論は、まるでエアポケットに吸い込まれているように感じるのだ。少子化対策も、働き方改革も、デジタル化の推進も、すべてが「やっている感」だけが漂っている。

「このままじゃ、本当にこの国、どうなっちゃうんだろう?」

数年前、ある地方都市を取材したとき、私を案内してくれた市議会議員がこう言った。

「政治はね、変化を嫌うんです。だから結局、現状維持に甘んじるしかない。だって、変えようとすると反発が大きすぎて、動けなくなるんですよ。」

その言葉が胸に刺さった。確かに、現場の声を吸い上げようと努力している人もいる。でも、実際に動き出すには、あまりにも多くの壁があるという現実。それでも、変わらないと未来はない。

若手政治家との対比:ビジョンと行動力

一方で、SNSを駆使して市民と直接対話し、自らのビジョンを明確に語る若手議員たちがいる。彼らは「変えたい」と本気で思っているからこそ、地域課題を掘り下げ、SNSで現状を発信し続ける。リスクを恐れず、批判を受けても、それでも前に進もうとする姿勢が垣間見える。

私がフォローしている若手市議がこう言っていた。

「変えないと衰退するのは見えている。でも、国政レベルでの変化が難しいからこそ、地方からムーブメントを起こすしかないんです。」

その姿勢は、まるでローカルヒーローのようだ。国会議員たちが既得権益や派閥に囚われ、現状維持を優先している中、彼らの姿は清々しく映る。

AIで事足りる政治?

もし、政治家が「やっている感」を出すだけで、ビジョンを描かず、現状維持に固執し続けるのなら、いっそAIに任せたほうが合理的かもしれない。AIならデータ分析に基づき、感情に左右されずに最適解を導き出せる。議事録を淡々と読み込み、過去の政策の成果を数値化し、最も効果的な改善策を提案できるだろう。

でも、私たちが政治家に求めているのは、冷徹なアルゴリズムではない。変化を恐れず、未来を見据えたビジョンを描き、そこに人間らしい情熱と共感を持って取り組む姿だ。

視点の転換:社会的・哲学的な広がり

政治にビジョンがないのはなぜか。私は、変化を恐れる文化が一因だと思う。変えることは失敗するリスクを伴う。特に、日本社会では失敗が許されにくい。だからこそ、変化を避け、安全策を取る政治家が増えるのだろう。

しかし、若手議員たちはそのリスクを承知の上で挑んでいる。彼らの発信は、理想論ではなく現場主義。実際に足を運び、声を拾い、その声を政策に反映させようとする努力を惜しまない。だからこそ、共感を呼び、次世代のリーダーとして支持されるのだ。

気づきと危機感:行動を促すメッセージ

「仕方ない」と嘆くだけでは、何も変わらない。私たちができることは、現状に甘んじず、未来を創る意識を持つこと。政治に任せきりではなく、SNSや市民活動を通じて意見を発信し続けることが重要だ。

例えば、地方自治体の予算配分に対するパブリックコメントや、オンラインフォーラムでの意見募集に積極的に参加すること。小さな声でも、それが積み重なれば、大きなうねりになる。

希望の提示:どう動き出すか

じゃあ、どうすればいいのか?まず、情報収集を怠らないこと。SNSやニュースを流し見するだけでは、本質は見えてこない。公式サイトや議事録に直接アクセスし、自分の頭で考える習慣をつける。

次に、行動に移すことだ。地方自治体や議員に直接メールを送って意見を伝えるのも一つ。SNSでの発信も大切だが、実際に政策を動かす人へ直接声を届ける手段を増やすべきだ。

最後に

私たちは、この国の未来を本気で考えているだろうか?「仕方ない」と諦める前に、政治にビジョンを求める声を上げる勇気が必要なのではないか。


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こんにちは、エオです。今日は、現代のパートナーシップの根幹を揺るがすテーマ、夫婦別姓について考えてみたいと思います。

🗽 名前が変わるとき、何が変わる?

私たちは、結婚という人生の大きな節目に立つとき、“名前”というアイデンティティをどう扱うかという問題に直面します。日本ではまだまだ「結婚したら同姓」という考え方が根強い。しかし、ふと疑問が湧き上がるのです。名前が変わるとき、私たちは何を失い、何を得るのか。

🌍 日本はなぜ夫婦同姓にこだわるのか?

日本で夫婦同姓が求められる背景には、明治時代に導入された“家制度”が深く根付いていることが大きな理由として挙げられます。この制度では「家」が社会の最小単位とされ、同じ名字を名乗ることで“家族”としての一体感を強調してきました。

戦後の民法改正でも、夫婦同姓が維持されたのは、家族の統一感を保つためとされてきました。特に「家を守る」という意識が強かった時代には、名字を揃えることで親族や近隣とのつながりを象徴し、社会的信用を築く意味もありました。

しかし現代において、この価値観が本当に現実に即しているのかは疑問です。多様な家族の形が存在する今、名字が違うことで家族が“バラバラ”になるわけではないのです。

💔 名前が変わることで失うもの

「名前なんて変わっても気にしない」と言う人もいれば、「名前が変わるなんて、これまでの人生を否定された気分」と言う人もいます。特に働く人たちにとっては、名前の変更はキャリアに直結する問題です。

名前が変われば、名刺を作り直し、メールアドレスも更新し、社内外に“自分が変わった”と伝え続けなければならない。何十年も培ってきた信用やブランドが、一瞬で別人のものになる。この不安感、わかりますか?

⚠️ “名前”を変えなかった私の選択

夫婦別姓を選んだ人たちにインタビューを重ねるうちに、ある共通点が見えてきました。それは“名前”が単なる記号ではなく、“自分”そのものであるという認識です。特にキャリアを持つ人々にとって、名前の変更はそれまで積み重ねてきた実績や信頼を崩しかねない大きなリスクとなります。

ある女性は「名前を変えると、まるで別人として扱われる感覚がある」と話しました。一方、ある男性は「妻の名字を選んだことで、周囲から男らしさを問われた」との経験を語ります。性別を問わず、名前を変えない選択が“こだわり”ではなく、“自分”を守るための選択であることが浮かび上がってきたのです。

👶 子どもの名字はどうする?

夫婦別姓が叶ったとしても、最大の課題は“子どもの名字”です。子どもがどちらか一方の名字を持つことで、「どちらかが“家族”ではないように見られる」というリスクが指摘されています。

例えば、母親が旧姓を名乗り、子どもが父親の姓を持つ場合、学校や病院で「本当に親子ですか?」と疑われるケースがあるのです。また、名字が違うことで子どもが同級生から「なんで名前が違うの?」と聞かれ、戸惑うことも。

🪦 片方が他界したら墓はどうなる?

夫婦別姓が普及しても、もう一つ避けられない問題が“お墓”です。日本では家制度が色濃く残っているため、同じ墓に入るには基本的に同姓である必要がある場合が多いのです。

夫婦別姓を選択したカップルの中には、どちらかが亡くなった際に「一緒の墓に入れない」という問題に直面するケースもあります。寺院によっては「同じ名字でなければ同じ墓に入れない」という規約があり、結果として生前の意思に反して別々の墓に入ることになりかねません。

🌱 解決策を模索する

新たな墓の在り方として、宗教や習慣に縛られない「合同墓」「共同墓」といった選択肢が注目されています。また、墓じまいを選択し、散骨や樹木葬という自然に還る形も支持を集めています。

家族の形が多様化する中で、死後の在り方もまた柔軟に考えなければなりません。夫婦別姓が叶う社会が実現したとしても、その後の“生き方”と“死に方”をセットで議論していく必要があるでしょう。

🗯️ あなたならどう考える?

夫婦別姓を実現することで新しい家族像が生まれる一方、子どもの名字や死後の問題という新たな課題も浮かび上がってきました。それでも、選択肢があることで多様な家族像を描けるのではないでしょうか。

あなたは、どんな名前で家族を築き、そしてその後どうやって共に眠りたいですか?

 

母の日が近づくと、街は一気に「ありがとう」のムードに包まれる。花屋の店先にはカーネーションがあふれ、デパートのギフトコーナーには「感謝を込めて」の文字が躍る。でも、私はふと立ち止まってしまう。「母の日」って、本当に「感謝」だけでいいの?

感謝を伝える日、もちろんそれは素敵だ。でも、母という存在が「感謝」だけで語り尽くせるものだろうか。

母親との関係は、単純ではない。むしろ、感謝という言葉では片付かないほど、複雑で絡み合っている。ときに重たく、煩わしく、でもその奥に温かさや救いがあったりする。

私自身、母の日が近づくと、何を贈ろうかと考えながらも、その裏で「ちゃんと感謝できているのか」と自己反省をしてしまう。そして気づくのだ、感謝が義務のようになっている自分に。

それって、母の日の本質だろうか?

「ありがとう」を言わなきゃいけない、そう思って贈り物を選ぶうちに、「母の日」が「形式」になってしまうのが怖い。もっと言えば、「感謝」だけが母との関係を表現する唯一の言葉になってしまうのが怖い。

母親との関係はもっと多面的で、不完全で、人間的であるべきじゃないか。感謝だけじゃなく、不満や戸惑い、理解しきれない思い出だって含めて、それが母とのリアルな関係じゃないかと思うのだ。

だから私はこう思う。母の日には「感謝」だけじゃなく、「ごめんね」とか「まだわからないことがある」とか、そんな正直な気持ちも含めて伝えてみたい。ありきたりの「ありがとう」だけでなく、私と母の関係そのものを祝う日にしてみたい。

母の日、贈るのは「感謝」だけでなく、少しの「正直さ」と「未完成の気持ち」でもいいんじゃないだろうか。

■ 笑うって、そんなに大事?

夜のカフェで、友人とコーヒーを飲みながら、ふと気づいた。私たちはいつから、こんなに笑わなくなったんだろう?

「仕事が忙しすぎて、笑う余裕なんてないよ」 「最近、心の底から笑ったことなんてないかも」

——それが今の私たちの日常だ。

かつてはバカみたいに笑っていたのに。小さなことが楽しくて、友達とただ話しているだけで笑いが止まらなかった。笑うって、きっと生きる上で基本的な行為だったはずなのに、気づけばその優先順位がどんどん下がっていく。

でも、あの時、彼女の一言が胸に突き刺さった。

「笑ってる間に、世界は少しずつ良くなってるって思わない?」

その一言が、私の心に火をつけた。笑うことが、ただの娯楽ではなく、人生を変えるアクションになるなんて。


■ 自分が変われば、世界も変わる?

昔、笑うことは自己満足だと思っていた。どちらかと言えば「頑張っている姿」が美しいと信じていた。

毎日、何かに追われて、笑うことを忘れ、完璧さを求めていた。でも、それがどれほど自分を疲弊させているか、全く気づかなかった。

ある日、上司に言われた。

「君、最近暗いよね」

その言葉が、まるで警告のように響いた。頑張っているつもりだった。でも、その姿勢が私を苦しめているなんて思いもしなかった。

だから、意識的に「笑うこと」を増やしてみた。

通勤電車で流れる広告にクスッと笑ったり、同僚の冗談に少し大げさに笑ってみたり。最初はぎこちなかったけれど、少しずつ気づき始めた。

——笑っていると、周りの反応が変わる。

笑顔には、奇妙なほど人を引きつける力がある。私が笑うと、同僚が話しかけてくる頻度が増えた。上司の口調が少し優しくなった。

気づけば、職場の空気まで柔らかくなっていた。


■ 笑顔の連鎖が生む“変化”

ある調査によると、笑顔は周囲のストレスを軽減させ、チームワークを高める効果があるという。人は、笑っている相手には自然と心を開きやすくなる。

私たちは、日々仕事に追われて、効率や成果を求めるあまり、大事なことを見落としている。

それが、**「笑顔の力」**だ。

例えば、忙しさに追われてミスが増えた同僚に「大丈夫?」と真顔で声をかけるより、「大変そうだね!手伝おうか?」と笑顔で言うだけで、相手の肩の力がスッと抜ける。

笑顔は、ただの表情じゃない。自分自身や周りを救う武器なのだ。


■ 動き出すために、まず笑ってみる

「笑う余裕なんてない」と思っている人にこそ、試してほしい。意識的に笑ってみると、不思議と心が軽くなる。

・朝、鏡の前で自分に微笑んでみる ・嫌な仕事ほど、ちょっと笑って取り組んでみる ・緊張する場面こそ、少し口角を上げる

最初はぎこちないかもしれない。でも、その“ぎこちなさ”が、今の自分を表している。少しずつでいい。無理に笑わなくていい。

ただ、意識して笑ってみる。その瞬間、あなたの中で何かが変わる。


■ 最後に——あなたに問う

「笑っている間に、世界は少しずつ良くなっている」

あなたは、最後に心から笑ったのはいつですか?

もし、その答えが思い出せないなら、今日から少しずつ取り戻してみよう。

——笑顔が、あなたの世界を変えるかもしれないから。

1. 孤独の形を変えていく年齢

土曜の夜。Uber Eatsを片手に動画配信を流しながら、私はソファに沈み込んでいた。

その日は特別でもなんでもない、よくある週末。だけど、スマホの通知が静まり返っていることに、ふと気づいた瞬間、冷たい感覚が背筋をなぞった。

「誰かと繋がりたい」と思うには、あまりにも静かすぎる。

20代のころ、予定帳は埋まっていた。誘えば誰かしらは飲みに付き合ってくれたし、“友達”という存在が無条件でそばにあった気がする。けれど30代を迎えてから、その景色は少しずつ変わり始めた。

キャリアが安定してきた人、結婚して家庭を持った人、夢を追って地方へ移った人。

何か特別な喧嘩をしたわけでもないのに、“自然と疎遠”という言葉が関係の結末になっていく。たまにインスタで「元気そうだな」と思うけれど、それだけ。

人と会うのに、理由がいるようになった。

私はいつから、「群れないけど、ひとりじゃない」関係を手放してしまったんだろう。


2. SNSが繋ぐのは“表面”だけ

「いいね」の数で誰かとつながった気になるのは、まやかしだ。

バズってる人と、本当に信頼できる人はまったく別だし、オフラインの関係を育てるには、実際に“時間”と“思いやり”が必要だと痛感する。

だけど、それが難しい。

仕事が忙しい、プライベートは疲れてる、自分のことで精一杯。

みんなそう言うし、私もそうだった。

そして気づいたときには、つながっていたはずの糸が、するすると手元から滑り落ちていた。

人とつながることは、面倒で、時に勇気が要る。

だけどそれを怠ると、静かな孤独に、私たちは簡単に飲み込まれていく。


3. “仲良くなる”より、“近くにいる”こと

私は数ヶ月前、久しぶりに地元の友人に会った。お互いにあまり連絡をとっていなかったけれど、彼女がぽつりと送ってくれた「最近どう?」の一言がきっかけだった。

会ってすぐに盛り上がるでもなく、何かすごく感動的な会話があったわけでもない。

でも、安心した。

「今ここにいる」それだけで、十分だった。

大人になると、“わかり合える人”じゃなく、“離れても思い出してくれる人”が、宝物のような存在になる。

つまり、「群れないけど、ひとりじゃない」とは、

「わざわざ会わなくても、心がそばにある」状態のことなのかもしれない。


4. 「つながり疲れ」から抜け出すヒント

一方で、“つながりすぎる”ことに疲れている人も多い。

やたらとDMが来たり、飲み会が連続したり、価値観が合わない人とも無理して付き合ったり。そういう“過剰な人間関係”に消耗して、いっそ孤独を選びたくなるときもある。

けれど、極端な選択は、どちらも心をすり減らす。

私たちが今、探すべきは、「ゆるくつながる方法」だ。

例えば:

  • 定期的に会う“約束のいらない”友達を1人持つ

  • 興味でつながるオンラインサロンや習い事に入る

  • 月に一度、カフェで“誰かに話す”時間を持つ

それは必ずしも“深い関係”ではないかもしれないけれど、 “孤独ではない”と感じるには、充分な温度を持っている。


5. 群れない自由と、孤独の代償

「自由でいること」は、素敵だ。

ひとりで行動できるし、誰にも縛られない。でもそれと引き換えに、誰にも守られないリスクを抱えていることも、忘れてはいけない。

人生のどこかで、突然に傷ついたり、どうしようもなく弱るときがくる。

そのとき、自分を知ってくれている誰かがそばにいないと、人は簡単に壊れる。

だからこそ、関係は“作っておく”のではなく、“育てておく”必要があるのだ。


6. 「群れないけど、ひとりじゃない」関係を育てるために

人とつながるために、大きな勇気はいらない。

ただ、**ほんの少しの「気にかけること」**が大事になる。

・誕生日に一言メッセージを送る ・体調が悪そうなSNS投稿を見たら、「大丈夫?」と声をかける ・誰かの成功を、素直に喜ぶ

それだけでも、関係の糸はつながる。

そして、そういう関係こそが、最終的には人生のセーフティネットになっていく。


7. こうしないと、ヤバいよ

何もしないまま関係を放置し、孤独に慣れ、つながることを面倒だと思い始めたら、

それは人間性の死に近づいているサインかもしれない。

人は、誰かと分かち合ってこそ生きられる生き物だ。

完全に自立することはできても、完全に孤独ではいられない。

今、関係の種をまいておかないと、 数年後、ふとしたときに“誰にも頼れない地獄”に陥ることになる。


8. じゃあ、今なにをすればいいの?

まずは、思い出した人に連絡してみること。

「元気?」だけでもいい。

「今度お茶しない?」でもいい。

忙しくて返信が来なかったら、それはそれ。

でも、あなたが誰かを思い出して動いたという事実が、 あなた自身の孤独に光を灯す。

人の輪は、突然大きくなるんじゃない。

ひとつのやさしさが、次のやさしさを連れてくるだけだ。


9. 最後に、あなたへの問い

あなたには、**「今すぐ会わなくても、心がそばにある人」**がいますか?

そしてその人は、**あなたの心にも、同じように存在できていると思いますか?

それとも、ただ“誰かとつながりたい”という焦燥だけが、週末の夜にあなたを訪ねてきている?

「群れないけど、ひとりじゃない」——そんな関係は、思ったよりも脆くて、でもちゃんと育てられる。

あなたはその一歩を、今夜、踏み出しますか?

夜明け前。タクシーの窓から見える景色は、まだ少し夜を引きずっていて、誰の顔も映さない。私は無言のままスマホを見つめていた。画面には、たった一言だけ。「それって正しいこと?」

送信者は、私がかつて“信じられる人”だと思っていた相手だった。けれどこの一言が、私の中のなにかを確かに凍らせた。いや、凍らせたのではなく、剥がしたのだと思う。長いあいだ自分を守っていた薄皮みたいな“正しさ”を。

それは、誰かに褒められるために身にまとってきたものだった。失敗しないように、波風を立てないように、目立たずに、でもちゃんと“まとも”に見えるように。そうやって何層にも塗り重ねてきた「無難な生き方」のコーティング。その一言は、その薄皮の奥に隠れていた“本当の私”の声を、不意に呼び起こした。

私が選ぼうとしていたのは、“正しさ”ではなかった。“生き方”だった。誰かにとっての正解ではなく、私自身が誇れる道だった。


■ 正しいだけの人生は、誰のもの?

「正しいことをしていれば、きっと誰かが見てくれる」 「間違えなければ、傷つかずに済む」

——そうやって私たちは育てられてきた。

学校では、正解を出すことが評価される。就活では、空気を読むことが“マナー”になる。SNSでは、間違えた人間を一瞬で見つけ出して、切り捨てる。

“正しくあること”は、どこかで“生き残ること”と同義になった。

でも、本当にそうだろうか?

誰にも嫌われずに、空気を読みながら、ミスをしないように動く。 それって、生きてるって言えるんだろうか?

“正しい人”としては生き残れても、 “本当の自分”としては、消えていくばかりだ。


■ 間違える覚悟がある人間だけが、生き方を持てる

「真理なんてクソ喰らえ。私は“正しさ”より、“生き方”を選ぶ。」

これはある漫画の主人公が残した言葉だ。彼は何度も何度も、自分の選択に失敗しながらも、誰かを守るために戦い続けた。

私たちはいつから、“間違えること”をあんなにも恐れるようになったんだろう。

転職も、離婚も、引っ越しも、転機であるはずなのに、社会はそれを“失敗”と呼ぶ。なぜだろう。

間違いを恐れて、無難な選択を繰り返す人間は、たしかに“傷つかずに済む”。でも、その代わりに大事なものを見失う。

——自分が、どう生きたいのか。


■ 「間違えたくない」より「誇れるかどうか」で生きてみる

正しい恋愛、正しいキャリア、正しい生き方。

すべて“正しいかどうか”で判断していた頃の私は、すり減っていた。気づかないふりをしていたけれど、いつも誰かに評価されることばかり考えて、自分の人生を他人の採点表に委ねていた。

でもある日、限界が来た。

そしてふと思ったのだ。

「間違えてもいい。私が、誇れる選択をしよう」

自分が信じられる生き方なら、たとえ世間にとっては間違いでも、きっと価値がある。

正しさは、“誰かの正解”かもしれない。 でも、誇りは、“私だけの真実”だ。


■ 「こうしないとヤバいよ」って話をしよう。

このまま“正しさ”に縛られて生きていたら、いつかきっと壊れてしまう。

燃え尽き症候群。アイデンティティの喪失。 完璧主義が引き起こす不安障害や鬱。SNS疲れ。

それらの多くは、実は「正しくあろうとしすぎること」から来ている。

「間違えないように」「嫌われないように」 そんな“他人の目”の中で生きていたら、 “自分の目”では、何も見えなくなってしまう。

だから、こう言いたい。

「もう、“正しいかどうか”で選ぶのはやめよう」


■ じゃあどうすればいい?——動き出すための小さな方法

それでも、急にすべてを変えるのは怖い。 だからまずは、今日からできることを始めよう。

・「これって、私が望んだこと?」と自分に問いかけてみる ・誰かの期待じゃなく、自分の感情を優先してみる ・“間違えるかもしれない選択”を、あえてひとつしてみる

たとえば、言いたいことを言ってみる。 たとえば、辞めたいことを辞めてみる。 たとえば、好きなことを大声で言ってみる。

間違えたっていい。迷ったっていい。 それでも進もうとする限り、それは“生き方”になる。


■ 最後に、

“正しいこと”だけを選んで生きていくのは、楽なようで、実は一番つらい。

だって、それは誰かの人生をなぞっているだけだから。

私たちは、自分だけの選択でしか、自分だけの人生を作れない。

だから——

「あなたが今日、“正しさ”をひとつ捨てるとしたら、それは?」

――“戦争のない国”で生きる私たちが見ないふりしてること

「争いのない日々」は、果たして“平和”と呼べるのか

毎朝、私はコーヒーを淹れる。
お気に入りのマグカップに注ぎ、スマホで天気を確認し、何となくニュースをスクロールする。

時々、炎に包まれた都市の画像が流れてくる。
瓦礫の中で泣く子ども、銃を持つ少年兵、涙をこらえる母親の顔。

でも指は止まらない。ただ流すように次のコンテンツへ。
まるで「それ」が、遠い異国の出来事だと、最初からわかっていたかのように。

そして私は、次の瞬間には、今日の仕事のことを考えている。

それって、平和って言えるのだろうか?


平和の正体って、実はすごくあいまいだ。

私たちは「戦争がない」=「平和」だと、どこかで思い込んでいる。

けれど、その平和は誰かの犠牲の上に成立しているかもしれない

もしかしたら私たちは、
“戦わずに得た平和”ではなく、“戦わずに与えられた平和”を生きているだけなのかもしれない。

日本は戦後ずっと「平和国家」として歩んできた。
けれどそれは、「他国が戦っているから、自分たちは戦わずに済んでいる」構造を見ないようにしていることでもある。

つまり――

“誰かが戦っているからこそ、私たちは戦わずに済んでいる”。

それって本当に「平和」って呼べるの?


沈黙で守る平和は、もしかして“恐怖”の別名かもしれない。

学校で、誰かがいじめられていた。
クラスメイトは気づいていた。でも見て見ぬふりをした。
先生は注意するけど、本気では止めない。
本人は声を上げられない。

表面上は何も起きていない。けれど、それは「平和」じゃなかった。

“何も起きていないことにする”ことで維持された沈黙。
それが、大人になった私たちの社会にも、そのまま輸入されてはいないだろうか?

会社で、政治で、国際関係で、
「声を上げないことで守られている平穏」は、果たして平和なのか?

それともただの、“見せかけ”なのか。


戦争があるからこそ、平和を“感じられる”のだとしたら

ある人が言っていた。
「戦争があるから、平和の尊さがわかる」と。

確かにその通りだ。
戦争を知っている世代は、静かな日常の価値をよくわかっている。

けれどそれって、裏を返せば――

“痛みを知って初めて、温かさに気づける”という話でしかない。

じゃあ、もし戦争がなかったら?
平和のありがたみは感じられないの?

じゃあ、争いがない社会は、退屈で、価値のないものなの?

そう問われたとき、私たちはどう答えればいいのだろう。


平和とは、“誰も犠牲にならない状態”ではなかったのか

ここで、立ち止まって定義し直してみたい。

本当の平和とは、
「誰かが黙って耐えている状態」ではない。

「声を上げたら排除される社会」でもない。

「戦わずに済んだ人が勝ち誇る構造」でもない。

それは、誰もが**「対話できる状態」
誰もが
「恐れなくて済む状態」**。

そして、誰かが犠牲になったら、
ちゃんと気づき、痛みを分かち合える状態

でも今の私たちは――

  • 「戦争がないから平和」

  • 「自分の生活は守られているから平和」

  • 「声を上げても無駄だから黙るしかない」

そんな構図を、知らず知らずのうちに受け入れてしまっていないか。


私たちは“与えられた平和”に甘えているのかもしれない。

私は今日も、安全な街で暮らしている。
ミサイルの音も、銃声も聞こえない。

でも、誰かが命をかけて訴えている声を、
私たちは無意識にスルーしている。

それって、すごく危ういバランスの上に成り立っている、
**「見せかけの平和」**じゃないかと思う。

戦争がないことに、感謝するのは大切。

だけど――

“なぜ今、戦争があるのか”を考えないことは、
傍観者でいることだ。


平和って、誰かの不幸の上に立っていいものじゃない。

本当の平和は、何かの裏返しではなく、
“それ自体が目的”でなければならない。

戦争の反対語としての平和ではなく、
声を上げられること、違いを認め合えること、
誰もが未来を語れること――

その全部があって、初めて「平和」って呼べるのだと思う。


そして今日も、私は問い続ける。

「平和って、誰のためにあるんだろう?」

私のため?
未来の子どもたちのため?
それとも、誰かの痛みを見ないで済む、大人のため?

少なくとも、私は「自分だけが守られていること」に満足するような人間にはなりたくない。

誰かが泣いているなら、それに気づける人でいたい。

そして、そういう人がひとり、またひとりと増えていくことが、
“本当の平和”を育てていくのかもしれない。

あなたにとって「平和」とは、
ただ何も起きないことですか?
それとも、誰かの声を聞こうとすることですか?

 

「私、何か間違ってるのかな」

そんな夜が、定期的にやってくる。

完璧じゃない日々。
胸の奥で、説明できないモヤモヤが膨らんでいく。
私はちゃんとやっているはずなのに。
笑って、働いて、頑張って──
それなのに、何かが引っかかっている。

こういう時、私たちはよく「もっと頑張ろう」と思う。
今が足りないから、モヤモヤするんだって。
でも、
もしかしたらそれは違うかもしれない。

もしかしたら──
モヤモヤするのは、未来が私を呼んでいるサインかもしれない。


モヤモヤした夜に、私はベランダで泣いた

あの夜、私はベランダに出て、ひとり煙草を吸った。
肌寒い夜風が頬をかすめる。
見上げた空は、月すら出ていなかった。

会社で表彰されたばかりだった。
みんなに褒められ、親にも「よくやったね」と言われた。
でも、なぜか心はからっぽだった。
おめでとう、と言われるたびに、胸が詰まった。
──こんなはずじゃなかった。

私は、
私が本当にやりたかったことを、
ちゃんと覚えていただろうか。

「このままでいいの?」
心の奥に、誰かが問いかけていた。
小さな声で、でも確かに。

私は煙を吐き出しながら、心の中で答えた。
「わからない」
「でも、このままじゃ嫌だ」

その夜、私は泣いた。
静かに、声もなく。


なぜ人はモヤモヤするのか?

モヤモヤは、脳の「危機検知システム」からのアラートだと言われている。
未来に向かって進もうとするとき、脳は「今のままでいいのか?」と自動的にチェックを始める。
違和感を覚えたり、微かな不安を感じたりするのは、
私たちの中に「進化しろ」というサインが灯った証拠なのだ。

心理学者たちも言う。
「違和感は、成長の入口だ」と。

つまり、モヤモヤは敵じゃない。
あなたを苦しめるものじゃない。
それは、
あなたの未来が、今のあなたを呼んでいる合図なのだ。


「モヤモヤを無視すること」がもたらすリスク

でも、多くの人はこのモヤモヤを「気のせい」にする。
生活を壊したくない。
人間関係を壊したくない。
今ある「安定」を手放したくない。

その結果、どうなるか。

5年後、10年後──
何も変わらない日々に飽き飽きしている自分に出会う。

忙しいけれど、心は空っぽ。
「なんであの時、動かなかったんだろう」と、
後悔する日がやってくる。

モヤモヤを無視することは、
今この瞬間に、自分の未来を「諦めます」とサインすることと同じだ。

怖いのは、変化じゃない。
怖いのは、変わらないことなのだ。


モヤモヤは「進化のサイン」だととらえる方法

だから、怖がらないでいい。
モヤモヤしたら、こう思ってみてほしい。

──ああ、私は進化しようとしてるんだな、と。

人は、壊れる前に違和感を感じるようにできている。
だからこそ、そのモヤモヤを「次のステージへのチケット」として扱ってほしい。

・モヤモヤをリストに書き出す
・「本当は何がしたいのか」問いかける
・いきなり大きく変えなくていい、小さな一歩を踏み出す

たとえば、
「本当はデザインの仕事をしたい」なら、
今日、デザインについて5分だけ調べてみる。
そんな小さな一歩でいい。

未来は、今日の小さな違和感を拾った人だけに開かれる。


じゃあ、今なにをすればいい?

今すぐできることは、たった3つ。

  1. モヤモヤを「悪いもの」と決めつけないこと。
     →違和感は、進化のサイン。

  2. 小さな一歩でいいから、動き始めること。
     →5分調べる、ノートに書く、誰かに相談する。

  3. 「このままでも生きていける」じゃなく、「このままじゃ生きた心地がしない」と認めること。

この3つだけで、未来は驚くほど動き出す。


そして、最後に。

夜、またモヤモヤしたら、
ベランダに出て、空を見上げてみてほしい。
深呼吸して、心に聞いてみて。

──私、本当はどこに行きたい?

未来は、
すでにあなたを呼んでいる。

さあ、あなたは──
どんなモヤモヤに、今、名前をつけますか?

寂しい夜って、やたらと長い。

Netflixも見飽きた。
Uber Eatsも届かない。
誰にLINEしても、既読がつかない。

仕事であれだけたくさんの人と話して、打ち合わせをして、
笑って、頷いて、リアクションしてきたのに。
帰ってきたら、この静けさ。
この、空っぽ。

ベッドに転がって天井を見上げた私は、思った。

「このまま、誰にも触れずに、今日が終わるのが怖い。」

怖いって、言葉にするのは少し恥ずかしいけれど、本音だった。


「寂しい夜に、恋愛感情は必要か?」問題

“好きだから、触れたくなる。”
“好きだから、抱かれたくなる。”
それが理想だって、頭では分かってた。

でもこの夜、私に必要だったのは、感情じゃなかった。
ただの体温。

心とか、未来とか、そんな重いものじゃない。
もっと単純なもの。
「誰かに今、ここで抱きしめられたい。」
それだけだった。

それで私は、特別好きでもない誰かに、こっそり連絡を取った。

罪悪感?
ちょっとあった。
でもそれよりも、寂しさのほうが、圧倒的に勝った。


「愛」より「承認」だった夜

たぶん、私だけじゃないと思う。
この時代、愛よりも「承認」が欲しい夜が、確実に増えてる。

SNSで「いいね」をもらっても、
アプリでメッセージが届いても、
心のどこかが満たされない。

誰かに抱かれて、
誰かに必要とされて、
その一瞬だけ、「私、ちゃんと生きてる」って思いたかった。

本当はわかってる。
そんなの錯覚だって。
明日の朝にはまた、何もなかったみたいに寂しさが押し寄せるって。

でも、
今この瞬間だけは、錯覚でもいいと思った。


孤独耐性ゼロ時代を生きる私たち

「孤独」が、怖い。
「寂しい」が、恥ずかしい。
そんなふうに思わされる時代を、私たちは生きている。

タイムラインはいつも誰かの「幸せそうな姿」でいっぱいだ。
誰かが旅行して、誰かがプロポーズされて、誰かが赤ちゃんを抱いている。

そんなキラキラを見せつけられるたび、
自分だけが取り残されてる気がしてしまう。

だから、誰かに埋めてもらいたくなる。
だから、「好きじゃない誰か」にすら手を伸ばしてしまう。

でも、本当にそれでいいの?


「孤独」に耐えられる自分を作るしかない

このまま誰かに抱かれ続けても、
寂しさは一生、消えない。
むしろ、どんどん麻痺していくだけだ。

だから私は、ちゃんと立ち止まることにした。

怖いけど、
苦しいけど、
自分の「寂しさ」とちゃんと向き合う。

スマホも閉じて、
誰にも連絡しない夜を、受け入れる。

泣いてもいい。
苦しくてもいい。

「誰かに抱かれない自分」を、ちゃんと抱きしめる。

そんな練習を、
私は、始めた。


「自分を満たす」という革命

いつだって、誰かに満たしてもらおうとしてきた。
恋人に、友達に、仕事に、SNSに。

でも、本当は全部、自分でしか満たせないものだった。

いい香りのボディクリームを塗ること。
ひとりで映画を観に行くこと。
行きたかったカフェに、自分を連れて行くこと。

そんな小さな「自分を大事にする行動」が、
いつの間にか、心をふっくら育ててくれる。

そして気づいた。
誰かに抱かれるためじゃない。
誰かに必要とされるためじゃない。

私は、私を愛するために生きているんだって。


最後に、あなたに聞きたい。

寂しい夜。
誰かの腕に逃げ込むことは、たぶん簡単だ。

でも、それで本当に、心から笑える?

今夜、もしまた寂しさに押しつぶされそうになったら。

誰かに抱かれる?
それとも、自分を抱きしめる?

あなたは、どちらを選ぶ?