――“戦争のない国”で生きる私たちが見ないふりしてること
「争いのない日々」は、果たして“平和”と呼べるのか
毎朝、私はコーヒーを淹れる。
お気に入りのマグカップに注ぎ、スマホで天気を確認し、何となくニュースをスクロールする。
時々、炎に包まれた都市の画像が流れてくる。
瓦礫の中で泣く子ども、銃を持つ少年兵、涙をこらえる母親の顔。
でも指は止まらない。ただ流すように次のコンテンツへ。
まるで「それ」が、遠い異国の出来事だと、最初からわかっていたかのように。
そして私は、次の瞬間には、今日の仕事のことを考えている。
それって、平和って言えるのだろうか?
平和の正体って、実はすごくあいまいだ。
私たちは「戦争がない」=「平和」だと、どこかで思い込んでいる。
けれど、その平和は誰かの犠牲の上に成立しているかもしれない。
もしかしたら私たちは、
“戦わずに得た平和”ではなく、“戦わずに与えられた平和”を生きているだけなのかもしれない。
日本は戦後ずっと「平和国家」として歩んできた。
けれどそれは、「他国が戦っているから、自分たちは戦わずに済んでいる」構造を見ないようにしていることでもある。
つまり――
“誰かが戦っているからこそ、私たちは戦わずに済んでいる”。
それって本当に「平和」って呼べるの?
沈黙で守る平和は、もしかして“恐怖”の別名かもしれない。
学校で、誰かがいじめられていた。
クラスメイトは気づいていた。でも見て見ぬふりをした。
先生は注意するけど、本気では止めない。
本人は声を上げられない。
表面上は何も起きていない。けれど、それは「平和」じゃなかった。
“何も起きていないことにする”ことで維持された沈黙。
それが、大人になった私たちの社会にも、そのまま輸入されてはいないだろうか?
会社で、政治で、国際関係で、
「声を上げないことで守られている平穏」は、果たして平和なのか?
それともただの、“見せかけ”なのか。
戦争があるからこそ、平和を“感じられる”のだとしたら
ある人が言っていた。
「戦争があるから、平和の尊さがわかる」と。
確かにその通りだ。
戦争を知っている世代は、静かな日常の価値をよくわかっている。
けれどそれって、裏を返せば――
“痛みを知って初めて、温かさに気づける”という話でしかない。
じゃあ、もし戦争がなかったら?
平和のありがたみは感じられないの?
じゃあ、争いがない社会は、退屈で、価値のないものなの?
そう問われたとき、私たちはどう答えればいいのだろう。
平和とは、“誰も犠牲にならない状態”ではなかったのか
ここで、立ち止まって定義し直してみたい。
本当の平和とは、
「誰かが黙って耐えている状態」ではない。
「声を上げたら排除される社会」でもない。
「戦わずに済んだ人が勝ち誇る構造」でもない。
それは、誰もが**「対話できる状態」、
誰もが「恐れなくて済む状態」**。
そして、誰かが犠牲になったら、
ちゃんと気づき、痛みを分かち合える状態。
でも今の私たちは――
-
「戦争がないから平和」
-
「自分の生活は守られているから平和」
-
「声を上げても無駄だから黙るしかない」
そんな構図を、知らず知らずのうちに受け入れてしまっていないか。
私たちは“与えられた平和”に甘えているのかもしれない。
私は今日も、安全な街で暮らしている。
ミサイルの音も、銃声も聞こえない。
でも、誰かが命をかけて訴えている声を、
私たちは無意識にスルーしている。
それって、すごく危ういバランスの上に成り立っている、
**「見せかけの平和」**じゃないかと思う。
戦争がないことに、感謝するのは大切。
だけど――
“なぜ今、戦争があるのか”を考えないことは、
傍観者でいることだ。
平和って、誰かの不幸の上に立っていいものじゃない。
本当の平和は、何かの裏返しではなく、
“それ自体が目的”でなければならない。
戦争の反対語としての平和ではなく、
声を上げられること、違いを認め合えること、
誰もが未来を語れること――
その全部があって、初めて「平和」って呼べるのだと思う。
そして今日も、私は問い続ける。
「平和って、誰のためにあるんだろう?」
私のため?
未来の子どもたちのため?
それとも、誰かの痛みを見ないで済む、大人のため?
少なくとも、私は「自分だけが守られていること」に満足するような人間にはなりたくない。
誰かが泣いているなら、それに気づける人でいたい。
そして、そういう人がひとり、またひとりと増えていくことが、
“本当の平和”を育てていくのかもしれない。
あなたにとって「平和」とは、
ただ何も起きないことですか?
それとも、誰かの声を聞こうとすることですか?