昨日のブログで奈良の平城京や京都の平安京が中国の長安を模して
都が造られたと書かせて頂きました。

 

平安京のあった京都は、当時の道や区画などはある程度はそのままに
今現在も碁盤の目の中に 人々の暮らしがあります。

 

一方、奈良はどうだろう、と思いましたが奈良の地理的なイメージがわきません。
現在の地図を見て納得。
私たちが観光に行くような東大寺や春日大社は平城京の東の端か外れたところ。
平城京の朱雀大路を意識して歩いた事なんてありませんでした。
大極殿跡が近鉄西大寺のあたりですが・・・イメージがわかないのも当然ですね。


もう一つの身近な都と云えば、ここ東京。
東京には碁盤の目の道もなければ、まっすぐな道もそれほど多くない印象。
どちらかと云いますと、皇居を中心とした放射状に都市が広がっている感じでしょうか。


平城京の小説を読み、都としての東京にも少し興味が湧きました。

東京は江戸幕府から江戸府となりその後すぐに東京府と名称が変わりました。

1889年(明治22年)に 東京府の東部15区を区域として東京府の中で東京市としました。
その後の関東大震災を経て 隣接5郡が併合されて東京市は合計35区となり、
最終的には今の23区になり、府と市が統合されて東京都となったそうです。

この東京都と正式名称になったのはなんと1943年(昭和18年)
けっこう新しいんですね。


元になりましたのは、家康が秀吉によって関東平野へ移封となり一から作り上げた江戸の町。

長安を模してはおりませんが 町造りを起こしたのは平城京や平安京建設と何ら変わりません

 

古代と同じく川の流れを変え海を埋め立てて造られた町。 
当時の100万人が住む都会の江戸で 治水工事と下水が完備していたのは
世界でも稀だそうで驚異的なことです。


もともと家康の作った江戸の地は、江戸城からのびる街道をやはり碁盤の目の「町割り」に
していったようです。
四角いのですが、平城京や平安京のような四角い場所を四角く切り取るのではなく、
やはり江戸城からのびる道沿いに四角い町を切り取っておりますので、
根本的に 作り方が違いますね。

 

今と昔の地図を見比べますと、日本橋あたりや墨田区に碁盤の目の街並みが残ってます。


家人の実家のある堺市も、江戸時代初期に同じく町割りが行われ、旧市街には
碁盤の目の町が残っているそうです。
ちなみに、家人の実家のあたりは逆にヨーロッパを手本にした放射状の町になってます。


また、堺ではありませんが、実家の近くに狭山池がございます。
実家からここまで散歩コースとして歩いたこともあり とてもよく知っている場所です。

ここは日本最古の人工のダム式ため池で、飛鳥時代に行基がこの建設を手掛けた、
とございます。

行基も小説『平城京』に登場してくる人物でこれまた出身は堺。
この周辺にはたくさん行基の手掛けた池が残っているそうです。
あの時代に手作業ですでに治水工事がなされていた事に驚きました(笑)

 

また狭山池のそばには狭山池博物館があり 先日見た映画『科捜研の女』
重要な場面のロケ地になっていたと知りこれまたびっくり(笑)

去年ここに散歩に行った時には、コロナの影響で閉館中でしたので、
見る事が出来なかったのですが、見たかった!

次に大阪に行った時には ぜひ行かなければいけないですね。

 

そう云えば、沢口靖子さんも堺市の出身ですね(笑)

 

狭山にはサヤカホールと云う市の文化会館もあり ここへは歌舞伎の巡業公演で
何回も訪れていたところでした(笑)

 


『平城京』という一冊の本から、都の造りが気になり、現在の町の造られ方が気になり、
そしてその地にまた『平城京』の登場人物ゆかりのものを見つけ・・・映画にまで。

 

色んなことで色んなつながりが輪っかのようにつながり なんかとても嬉しくなってしまいました。
興味を持って調べると 本当に楽しいです。
古代からの人の建築技術 侮ってはいけませんね。