昨日のブログでは、喜劇のお芝居で父が歌舞伎指導をしていた話を書かせて頂きました。

 

父は他にも、芦屋雁之助さん 花紀京さんの『馬の足』という演目の中での劇中劇『鈴ヶ森』や

中田ダイマル ラケットさんの公演など多くの演劇におきまして歌舞伎指導に携わっておりました。

ちなみに『鈴ヶ森』の時は、私がつけ打ちをしておりました。
昭和46年御園座 藤田まことさんの公演で 私19歳の時の事です(笑)


以前に書いたかもしれませんが、ダイマルラケットさんの『佐助と五右衛門』という
芝居でも「南禅寺山門」の場で 父が歌舞伎指導しておりました。

それだけ、歌舞伎と他のお芝居が密接に結びついていたのでしょう。
反対に、ご覧になられるお客様の間でも、歌舞伎が今よりもずっと 敷居の低いもので、

身近にあったのだと思います。

 

 

歌舞伎指導と云いますと、一つ幼かった私に強烈に印象に残っているものがあります。
こちらは劇中劇や歌舞伎のパロディではなく、まともな歌舞伎です。


演目は『義経千本桜』
私の記憶にありますのは、小金吾の立ち回りの場面。
父の指導で私は立ち回りの相手を勤めました。


実は、とても断片的な記憶なのです。
自分が教えた・・・と云っていいのか(笑)相手と 演目くらいしか覚えておりませんでした。
でも、確実に私が歌舞伎指導した記憶なんです。


この記憶のすごい所は、教えた相手と私の年齢(笑)

私の覚えている限りでは、私の年齢はなんと5歳か6歳。
小学校に行っていたか行っていなかったかと云う年齢でした。

 

しかも、小金吾役だったのが寿美花代さん
後に高島忠夫さんと結婚され、高島政宏、政伸ご兄弟のお母様です。


そうなんです、この時代と寿美さんと云う事で ピンと来られる方は居られるかも知れませんが
なんと、宝塚歌劇団に対して、歌舞伎の指導をさせて頂きました。

 

父は当時宝塚新芸座に籍を置いておりましたので、そのご縁での事だったと思います。

 

これは、私の記憶ではなく、後日聞いた話なのですが、父が演技指導として、
お稽古場に私を連れて現れた途端、お稽古場が騒然としたそうです。

「なんと所帯じみた、子供なんて連れてきて」・・・と。


そりゃそうですよね、今から歌舞伎の演技指導を受けるという場に
子供がついてきているのですから。

 

ですが、しばらく父が指導のあとに
「延夫、ここちょっとお前代わって立て」
と云いまして、私が父を相手に立ち回りを始めましたら、再度お稽古場が騒然。

 

まさか、5~6歳の子供が立ち回りの相手をこなすとは思っていなかったのでしょうね(笑)

寿美さんが、私に近づき
「ぼく、私に立ち回り教えてくれる?」
と云って下さったとか。

父の事ですから、多少話を盛っているかも知れませんが、寿美さんにお教えしたのは記憶にあります。


寿美さんがその時の事を覚えておられるか? は わかりませんが、あの時の子供は私です(笑)

 


と、後で父から聞いた話と自分自身の記憶はこの程度でした。

当日 宝塚大劇場の後ろの方の席で、公演を見たと思いますので、
宝塚大劇場での公演だったのは確かです。

 

一体何の公演だったのか、小金吾以外の配役はどなただったのか?
全く覚えておらず、長い間私の中では 疑問の一つ、気がかりの一つでした。

何度か調べては見たのですが、この頃の公演の記録を見ましても、該当しそうなものは
見つかりません。

昔とは云え、一ヶ月公演でしたら、今ではインターネットで調べて見つかる事が
多いのですが、これはありませんでした。

 

 

そんな折、こんなものを手に入れました。
むかしむかし、家人が大阪の古本屋で見つけて買って来てくれました。

 

もともと、今でもブログを書くときに重宝しております私自身の出演記録。

これは、もう15年以上前に記憶と資料をあたりながら作ったのですが、
たくさん裏付けが出来ていない公演があったのです。

 

その一つがこの「宝塚で寿美さんに対して 小金吾を教えた。」
と云うものだったのですが、家人がたまたま別の資料を探していた時に、
たまたま目について、見たら記録があった・・・と。
記憶が正しかったことを、証明してくれる一冊でした。

 

宝塚で歌舞伎の謎。
「宝塚義太夫歌舞伎研究会」というものがあったようです。
入手しましたのは、第11回のパンフレットだったのですが、
その中に「発足10周年記録」として、それまでの軌跡が載ってました。

 


私が携わりましたのは、これによりますと第6回公演の時の事。
昭和34年5月16日、20日、21日
『義経千本桜』椎の木 小金吾討死 すし屋 道行


私は6歳でした。7歳になる直前。小学一年生ですね。


その他の配役は、お里と忠信に天津乙女さん、維盛弥助に春日野八千代さん
権太に神代錦さんなど。

そうそうたるメンバーでした。

ま~ったく 覚えておりませんが・・・(笑)


ですが、記憶は正しかったのです。
よかった~証明されて(笑)

 


思えば世界に類を見ない 男ばかりの歌舞伎と、女ばかりの宝塚。
その2つが並び立っている日本。

私はこうして幼少期に宝塚に歌舞伎を教えると云う体験をさせて頂きました。


それから19年。
昭和53年(1978)5月に 南座で澤瀉屋一門が おもだか会会員の集まり
として、千穐楽後に1日だけ特別公演を致しました。 

 

その中の一つが

「たんからづか過激グランドロマン 偽赤毛十八番中『風渡艫荷去離奴』」

そう、歌舞伎版の『風と共にさりぬ』です。

 

この時に現役の方が指導に来てくださいました。
お名前、なんて言ったかなあ・・・
残念な事に「のんちゃん」という愛称しか覚えておりません

当日は、榛名由梨さん 瀬戸内美八さん 順みつきさんたちが観に来てくださいました。


その後にも旅行会で「ベルばら」をパロディ化し、それが俳優祭の演目にまで(笑)

後年、様々な舞台で宝塚出身の女優さんともご一緒致しました。
そもそも、私の初舞台は宝塚大劇場です(笑)


歌舞伎と宝塚、真反対のようで実はとっても近い2つの演劇ですが、
私の思い出は、小金吾の立ち回りから始まりました。


今から・・・60年以上前のお話でした(笑)