自問自答、ヒトの実在について考え出したら、、止まんない | ステージⅢから、涙を拭いて、踏ん張って ☆by 多発性骨髄腫患者エンつり(エンジニア+釣り師)

ステージⅢから、涙を拭いて、踏ん張って ☆by 多発性骨髄腫患者エンつり(エンジニア+釣り師)

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実在としての”ヒト”というものを考えてみる。


生物は己の種を増やすことを目的とする。

もっと言えば、己の属する種のみならず、個はその種の中の主流派になろうとする。


これは人に限らずだが、種の中で主流派であろうとするために己の個の遺伝子を残そうとする。


今の時代、人間のオスまたはメスのどちらかという考え方は古過ぎますよね。

しかし、実態はオス×メスという従来の生物としての生殖活動よってヒトは繁殖するのは確か。


これがまだまだ、ほぼスタンダード。

両性生殖です。

これが生物としての繁殖の原理となっている。


いずれ、バイオ技術を使って単性生殖が活用され、倫理観も今とガラッと変わるかもしれない、ですけどね。


そうなれば、同性同士のカップルのどちらとも親子として血のつながる子、完全ひとり親から生まれてくる子、自分の祖父を育てる孫とかがでてくるのであろう、ね。


話を戻す。

昔ながらの生物学上で異性間の、そして双方が昔ながらの生殖能力を持つ場合に限って話を進める。


今はこれが主流だから、以降の話がわかりやすいので。


この場合、オスはオスの、メスはメスの遺伝子をそれぞれ持ち寄ってペアリング相手との組み合わせによって新たな"個"の存在である、"子"を作る。


結果、双方の親の遺伝子は部分的に継承され、多くのペアから生まれる子によって種は生き残り、そこに貢献した遺伝子がどんどん増え、ヒトとしての集団が増えていく。


男女間の愛という概念は、種の保存ならぬ"個の保存"のためのひとつの表現形態とも考えることができる。


愛という概念は実は妄想で、単にワザと生物を連綿と続けていくための方便、詭弁かもしれない。


自分の子は可愛い。という感情はココからくるのでしょう。

実は子ではなく、自己としての自分としての個かもしれません。

可愛いと思わないと、殺して食ってしまうから。


平和的に解釈すれば、子への愛は、自分の遺伝子を継承する血の繋がりを根拠とする愛。

自分の"個"としての継承が子に繋がったことに対する愛。


しかし、ヒトには自分の遺伝子に連ならない他人の子を愛する感情が発現することがある。


これはヒトだけが持つ複雑な精神活動の産物か?


犬が子猫を育てるとかの議論はココではなし。あれは本能による反応と捉えることができるからね。

ヒトだから確実にそれは愛だねと言える。

けど、実態は他で説明つきそう。

異種間の子育てとかの議論はしない。


わからないことをワザワザ持ち出して混乱したくないからね。


そもそも愛という感情が他の生物に有るか無いかなどの確証のない話はしたくない。


さて、

連れ子を持つ相手と自分の遺伝子を持たないその子に対する愛は、ヒトならでは。

わかりきってても血の連なる子として接して同じ愛情を注ぐのはヒトだけではないだろうか。


このことから、ヒトの実在は遺伝子のみに依らない。と言えそうです。


ではヒトの実在とは何か。


他の人から「Aさん」という認識を持ってもらうことではないか。


生物的に存在するとか、この次元に物理的に存在するか、とかの話ではないような気がする。


つまり、

B「あれ、Aってそこにいたっけ?」

C「いたんじゃね?」

D「いつも赤い服着ててさ、◇◇の話ばっかりしてたよ、例えば、、、」

B「どこに住んでたの?」

C「〇〇県△△市だって」


例えば、この時点でこの会話をしているB、C、Dの間ではAは存在している。


極論すれば、共通認識として複数人が同じようなA像を共有した瞬間にAは存在し、生物としての価値とかに関係なく存在している。


Aが物語の人物であろうが、歴史上の人物であろうが。


ヒトの実在とはそんなものではなかろうか。


Aが歴史上の人物であったならば、もはやAは遺伝子に頼らずともヒトの中で個が確立しているのでは?


芸能人などの有名人なら尚更。

有名人の水準になるともはや遺伝子は必要ないのかもしれない。


話がとっからかっちゃった。


少しこの話題は置いといて、アタマ冷やそう。


ん、そうしよう。


続きはまた今度、アタマがスッキリしてるときに。。。