郭図
潁川郡で計吏に推挙された。その後、韓馥に冀州に招かれ、荀諶・辛評とともに袁紹に仕えた。初平2年に、荀諶・張導・高幹らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた。興平2年に郭図は献帝の下へ使者として派遣され、冀州にもどるや、袁紹にこれを迎えることを勧めたが受け入れられなかった。しかし、同伝の注に引く『献帝伝』と『後漢書』袁紹伝によると、この進言は沮授によるもので、郭図は淳于瓊と共にむしろ献帝を迎えることに反対していたとされる。どちらが正しいかは不明である。建安4年、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張し、袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。建安5年2月、官渡の戦いが始まると、郭図は淳于瓊、顔良と共に白馬に駐留する東郡太守劉延を攻撃した。しかし、曹操軍の迎撃に遭い、顔良、さらには文醜の両将を喪失するなど苦戦する。同年10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図はこの隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張したが、袁紹の部将張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると主張した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張郃のことを讒言し、張郃は曹操への降伏をやむなくされた。ただし、『三国志』魏書武帝紀によれば、袁紹は騎兵を烏巣に向かわせ、張郃と高覧に曹操軍の本陣を守る曹洪を攻撃させたが、張郃らは淳于瓊の敗北を聞いて降伏し、その後、袁紹軍は総崩れになったとある。そのため、裴松之が張郃伝の注で指摘するように張郃伝と時系列に矛盾が生じる。建安7年に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴したが、郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が、三男の袁尚を推戴して対抗し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥った。次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。袁譚は辛毗を派遣して、曹操と同盟を結んだ。そして曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし、審配を処刑した。曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚と郭図は一度は勢力を盛り返すものの、それが原因で再び対立した曹操の軍と戦い、一度は曹操との直接対決に勝利し、曹操に撤退を考えさせたが、建安10年春、郭図は袁譚と共に南皮で敗死した。審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたこと、また、官渡の戦いにおける郭図の所業が原因で、一般には袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかったにもかかわらず、審配らは袁紹の生前の寵愛を理由に三男・袁尚を推し、袁紹の遺命まで偽造したとされる。また衆目は年長の袁譚後継支持であったとしている。これらの点に鑑みれば、郭図が袁譚を推したこと自体には、道理が無かったとまでは言えない。もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、袁譚に袁尚への先制攻撃を嗾けるなど、依然として問題行動は多かった。青州から駆けつけた袁譚配下の王修は、侫臣を斬って袁尚と和解するように袁譚に説いているが、おそらくこの「侫臣」とは郭図、辛評のことであろう。荊州牧の劉表は、袁氏内紛に際し、王粲に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記され、また審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図なぞに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記されていた。
王修
初平年間に北海太守孔融に仕え、高密侯国の令として実績を示す。このとき、孝廉に推挙されたが、都に上ることは無かった。次いで、王修は膠東侯国の令に任じられた。当時、有力な豪族の公沙盧は防備を固め租税を払わなかった。王修はたった数騎の共を連れ、まっすぐ公沙盧の家の門に入り、公沙盧兄弟を斬った。王修は孔融が困難に直面してる時は必ず駆けつけ、助けたという。建安元年頃、孔融は袁譚に青州を追われてしまう。一方の王修自身は、青州刺史となった袁譚にも招聘され、治中従事に任命された。しかし、青州別駕の劉献が王修を嫉視、排斥したことなどもあって、袁譚はなかなか王修を使いこなせなかったとされる。その後、王修は袁譚の父袁紹に直々に召し寄せられ、即墨侯国の令に就任した。これを経て再び袁譚の下に戻ると、王修は青州別駕に任命されている。これ以後、袁譚は王修を腹心として頼みにしたという。建安8年、袁譚と袁尚が兄弟で争い、袁譚が敗れて南皮へ退却する。このとき王修は、青州軍を率いて救援に駆けつけ、袁譚に喜ばれる。さらに王修は、袁尚と兄弟で争うことをやめ、また、侫臣を斬るよう進言している。しかし、この諫言については、袁譚は聞き入れなかった。その後、袁譚は郭図の助言に従って曹操に一時降伏し、隙を衝いて勢力を拡大したが、これが原因で再び曹操と対立してしまう。建安10年、袁譚が曹操によって南皮に攻められると、王修は再び救援に向かったが、間に合わずに袁譚は滅ぼされた。南皮に到着した王修は、獄門にかけられていた袁譚の首級の下で罪を恐れず哭した。さらに袁譚の遺体を弔いたいと曹操に嘆願し、許されて懇ろに埋葬した。曹操は、王修の清廉忠直ぶりを賞賛して礼をもって臣下に迎える。以後、王修は司空掾兼行司金中郎将、魏郡太守を歴任した。このとき、賞罰を厳格に定めた法を制定し、善政を行なったため、民衆から賞賛されている。曹操が魏王となった建安21年に、大司農兼郎中令に昇進し、在職中に死去した。没年は不明だが、曹丕が文帝として即位した黄初元年までには、すでに亡くなっていたことが明らかである。王儀の子で王修の孫の王裒は二十四孝で著名な人物である。
袁譚
袁譚は袁紹の命により青州へ派遣され、公孫瓚が任命し青州刺史になった田楷を、さらに青州刺史の孔融を駆逐した。袁譚は曹操から青州刺史に任じられた。なおこの時、袁紹重臣の沮授が、袁譚を青州に赴任させることは「災いの始まりです」と袁紹を諌めたものの、聞き入れられなかった。袁譚は優れた人材を招くことを趣味としながら、実際は奸臣の言葉にばかり耳を貸す人物であったという。そのため、王修のような優れた人物を招いても意味はほとんど成さず、青州の統治でも混乱を招くばかりだった。青州は非常に荒廃しており、一万戸ある都市も戸籍に登録しているのは数百戸程度であり、租税の納入は3分の1以下であったという。ただし、上記状況については以下の点を考慮しなければならない。まず、袁譚が青州を統一する前、青州は袁紹・公孫瓚・孔融・黄巾党が激しい戦いを繰り広げていた。特に青州での黄巾党の活動は、袁譚の刺史就任直前においても大規模なものであり、青州の治安は非常に悪かった。また、袁譚の人材登用での混乱には、当初の青州別駕劉献が王修の起用を妨害するなどの悪条件も重なっていた。しかも後に王修が青州別駕に昇進してからは、むしろ袁譚は王修を腹心として尊重していた。建安5年、袁譚は曹操の下から逃亡してきた劉備を丁重に受け入れた。袁譚は劉備が推薦した茂才であったためである。また袁紹・袁譚親子は劉備を敬重した。官渡の戦いには、袁譚も父に従って参戦したが、曹操に大敗して青州へ引き返した。建安7年、袁紹は最期まで後継者を明確に指定することなく、病没した。袁紹軍幕僚の郭図・辛評は長男の袁譚を後継者に推し、また衆目も年長の袁譚支持であった。しかし、やはり同幕僚であった逢紀・審配は、郭図・辛評との個人的対立などもあり、袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を後継者として強硬に擁立した。審配らは袁紹の遺言を偽造した一方、袁譚は青州から鄴へ引き返してきたが、後継を宣言する袁尚に反発して黎陽に駐屯し車騎将軍を自称した。兄弟仲の隙を見越したように曹操が黎陽へ攻め込んでくると、袁譚は袁尚に援軍要請をする。しかし袁尚はこれを拒否し、怒った袁譚は袁尚派の逢紀を殺害してしまう。両者の仲はさらに険悪化し、決裂は時間の問題となった。建安8年春、袁尚と袁譚は曹操の攻撃に耐えかね、黎陽を放棄する。曹操はいったん許昌に帰還したが、郭図・辛評らの助言・後押しを受けた袁譚は、ついに鄴城外門へ袁尚を先制攻撃し、袁氏兄弟の対立は決定的となった。同年8月に袁譚は袁尚の反撃に敗北し、南皮に撤退する。そこへ青州別駕の王修が来援し、「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕を切り落とし、敵方に対し交戦の準備が整ったためいつでも受けて起つ、と公言するのと同等の愚行である」と諭し、侫臣を斬って袁尚と和睦することを進言した。しかし、袁譚は聞かなかった。さらに袁尚の攻撃を受けて袁譚は平原に追い詰められる。そして、郭図の進言もあって、袁譚はやむなく曹操に降伏する。このとき、袁譚の娘が曹操の子・曹整と縁組した。曹操は同年10月に出陣し、袁尚は慌てて鄴へ引き上げた。しかし袁尚の部将呂曠・呂翔はこれに反して、曹操・袁譚に寝返っている。袁譚は工作でこの2将を取り込もうとしたが、失敗した。建安9年、袁尚は再び袁譚を攻撃してきた。しかし、曹操はその隙を衝いて鄴を包囲したため、袁譚は危機を逃れる。曹操が鄴を包囲してる間に、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略した。さらに鄴を放棄して中山へ逃れた袁尚を撃ち破って、袁尚の率いていた軍兵を併合し、勢力を急激に拡大した。だが、曹操は袁譚を盟約違反と非難し、袁譚の娘を送り返して縁戚関係を解消した上で、これを討伐した。事態の急転に袁譚は怯え、平原から逃走して南皮に逃げ込んだが、曹操はこれを猛追する。翌建安10年、南皮の戦いでは、袁譚は一度は曹操を破る。しかしその後の再戦に敗れて、曹純に斬り殺された。袁譚の一族も皆殺しとされ、袁譚の首級は獄門とされた。その後、遅れて駆けつけた王修は、死罪を恐れずに獄門の下で慟哭し、曹操に袁譚の遺骸の埋葬を願い出て許可されている。後継者争いについて、袁譚には衆目の支持があったとされるが、幹部クラスとなると支持者は郭図・辛評など穎川出身者のみである。逆に冀州出身は審配と沮授であるが、審配は勿論、沮授の息子である沮鵠も袁尚に仕えていた。はたして、正史の記述どおりに河北からの支持があったとみるか、それとも幹部の反応から見て嫌われていたとみるか、難しいところではある。ただ、袁紹死去時の袁譚の本拠地が青州であったことが、袁譚が冀州出身者の旧袁紹陣営の幹部に嫌われる原因になった可能性は考えられる。