文醜
袁紹配下の将。袁紹軍の中では顔良と並んで勇将と称され、孔融が曹操に対して出兵を諌めたときには武の代表として名が上がっている。なお、顔良と文醜は同格の人物とされるが、顔良が歩兵を率いたのに対して文醜は騎兵部隊を率いており、立場はおそらく異なる。建安5年、それまでにらみ合っていた袁紹と曹操が激突し、袁紹軍は白馬に於ける初戦で勇将顔良を討ち取られた。曹操軍は白馬から引き上げ、黄河に沿って西に移動したが、袁紹はそれを追って黄河を渡り、南岸の延津に到達する。そして騎将の文醜と当時袁紹の客将となっていた劉備に曹操を追撃させた。これに対して曹操は、参謀荀攸の策略を採用し、輜重隊をおとりにして文醜を誘った。これに文醜は引っかかって輜重隊を襲うが、このことがもとで陣形が乱れた。曹操は手薄になった文醜の部隊に攻撃を仕掛け、文醜は混乱の中で戦死した。顔良、文醜と名だたる将軍2人を立て続けに失い、袁紹軍は大きく動揺したという。曹操の参謀荀彧は、上記の孔融に対し、「顔良と文醜は匹夫の勇のみです。一戦にして生け捕れます」と答えたが、まさにその通りとなっている。
田豊
若いころから権謀術策に長じ、博学多才の人物として名を知られていた。最初は茂才に推挙され、侍御史に昇進した。宦官の専横などを見て朝廷に嫌気が差し、官職を辞して郷里に引き上げた。その後、袁紹の参謀として仕えるようになる。初平2年、袁紹が韓馥から冀州を奪った際には、これに抵抗する韓馥の部下の耿武と閔純を、田豊は袁紹の命令により殺害している。また、この時に、田豊は別駕に任命された模様である。同年冬、公孫瓚と界橋で戦った際に、公孫瓚軍の兵に袁紹と共に取り囲まれる危地に陥った。この時、田豊は袁紹を物陰に隠そうとするが、袁紹は兜を脱ぎ捨ててその場に踏みとどまった。興平2年頃と思われるが、田豊は献帝を迎え入れるよう袁紹に進言したが、受け入れられなかった。その後、田豊は袁紹に数々の献策を行い、公孫瓚などを攻め滅ぼす上で貢献している。建安4年に、対曹操の戦略をめぐって、田豊は沮授と共に持久戦略を主張したが、袁紹は審配、郭図らが唱える短期決戦戦略を採用する。建安5年正月、曹操が劉備と戦って本国を留守にしているとき、その背後を襲撃するよう進言した。しかし、袁紹は息子の病気を理由に出撃せず、田豊は杖で地面を叩いて悔しがった。その結果、劉備は敗走を余儀なくされている。同年2月、今度は出撃しようとした袁紹に対し、持久戦を主張して懸命に諫止したが、袁紹の怒りを買って投獄されてしまった。田豊が危ぶんだ通り、同年10月に、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗してしまう。袁紹は田豊が自分を笑い者にすることだろうと猜疑し、これを殺害してしまった。
陳琳
広陵郡広陵の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。官渡の戦いの後で鄴城が陥落し、陳琳が曹操の前に引き立てられた際、曹操は陳琳にその檄文を読ませた。その内容は曹操のみならずその父や祖父まで痛烈に批判するものだったが曹操は檄文を誉め、更に「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねると陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけにはいかない」と答えたため、曹操は陳琳を許したという逸話がある。その後は曹操に仕え、217年に疫病にかかって病死した。曹丕は彼を「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。