沮授
若くして大志を有し、権謀術策に優れたという。当初は州の別駕となり、茂才に推挙され、県令となった。また、冀州牧の韓馥に別駕・騎都尉として仕え、韓馥が袁紹に冀州を譲ろうとすると、他の幕僚と共に諫止したが聞き入れられなかった。結局、袁紹が冀州を支配すると、沮授はそのまま袁紹にも仕える。沮授は、冀・青・幽・并の4州を平定した上で、長安に皇帝を迎え、洛陽の宗廟を復興する戦略を袁紹に説き、その賞賛を受けて監軍・奮威将軍に任命された。この戦略の下に、袁紹は建安4年までには4州を平定することに成功しており、監軍として沮授の貢献は大きかった。興平2年、沮授は袁紹に献帝を迎え入れることを進言したが、郭図や淳于瓊がこれに反対した。袁紹も、董卓が擁立した献帝を迎え入れることに積極的でなかったため、沮授の進言は容れられなかった。建安4年、袁紹が4州を平定した後、対曹操の戦略について論争が起きた。沮授と田豊は持久戦略を主張したが、郭図と審配は短期決戦戦略を主張した。袁紹は、最終的に郭図と審配を支持した。またこの時、郭図が、沮授の勢威は強大であると讒言し、これにより監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。このほか、沮授は、袁紹が長男・袁譚を青州刺史に任命しようとすると、これを禍の始まりであるとして諫止したが、袁紹は聞き入れなかった。建安5年、官渡の戦いが始まる直前に、沮授は袁紹の敗北を予想し、弟の沮宗をはじめ一族に資財を分け与えた。戦いが始まると、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良に命じ、白馬に駐屯する東郡太守劉延を攻撃させた。沮授は、顔良は勇猛であるが、偏狭であるため単独での任務には耐えられないと袁紹に進言したが、容れられなかった。その言葉通り、顔良は白馬で判断を誤って敵中に孤立してしまい、あっけなく曹操軍の関羽に討ち取られてしまう。また、袁紹が黄河を渡り、延津に向かおうとすると、沮授は病気を理由に軍指揮の辞退を申し出たため、袁紹は憤然とし、沮授配下の軍を郭図に従属させた。曹操軍が官渡に向かうと、沮授は曹操軍の糧食不足を指摘し、持久戦術を進言したが、袁紹は容れなかった。袁紹軍も官渡に向かって曹操軍と交戦し、当初は袁紹軍有利であったが、袁紹もまた曹操軍の攻撃で兵糧補給に難を生じ始めた。そこで、袁紹は淳于瓊に命じて輸送された食糧を守備させようとした。このとき沮授は、淳于瓊に加えて蒋奇に別働隊を率いさせ、守備に万全を期すべきことを袁紹に進言したが、容れられなかった。この結果、淳于瓊は烏巣で曹操に撃破され、これがきっかけで袁紹軍は総崩れとなり、大敗した。沮授は黄河を渡河するのに遅れて、曹操軍に生け捕りにされてしまう。沮授は曹操とも旧知の仲であったため、曹操は配下に迎えようとしたが沮授はこれを拒否する。曹操は沮授の能力を惜しんで処刑しようとはしなかったが、沮授が曹操のもとから脱走しようとしたため、やむなく処刑された。なお、彼には後に袁尚の武将となった沮鵠という息子がいたが、邯鄲の戦いで曹操軍に敗れている。歴史家の孫盛は、「田豊・沮授の謀は、古の張良・陳平に匹敵するものである」と讃えている。事実、4州平定までは順調だった袁紹が、建安4年以降に沮授の言を特に無視するようになってから、その転落が始まっている。官渡の戦いでも沮授の言を受け入れていれば、勝敗は逆転していた可能性が高いと言わざるを得ない。一般的なイメージでは、沮授は文弱の参謀とされているようだが、実際には、監軍や都督を務めていることからも明らかなように、非常に卓抜した戦略眼を有する軍司令官であったと言うべきであろう。なお、沮授は袁家の後継争いのときにはすでに死亡していたが、上記の通り、生前に、袁譚の青州刺史への赴任は「災いの始まりです」、と袁紹を諌めている。おそらく、袁紹の長子である袁譚を本拠地から遠い青州へ派遣することは、どのような形であれ後継者争いを触発することになると見抜いての進言であったと思われる。ただこれだけでは沮授が、袁譚派だったか袁尚派だったかはわからない。なお息子の沮鵠は、父の死後、袁尚派に属している。
辛評
袁紹配下。袁紹が韓馥から冀州を譲られた、初平2年前後に仕官したと思われる。なお、曹操配下の郭嘉は同県の出身、同僚の郭図や荀諶、曹操配下の荀彧らとは同郡の出身である。辛評が袁紹陣営で台頭してくるのは、建安5年の官渡の戦いで袁紹が敗れてからである。戦後に審配が孟岱・蒋奇の讒言を受けると、辛評は郭図と共に孟岱らを支持し、一時は審配を失脚に追い込む。しかし、審配は逢紀の弁護を受けて、辛うじて復権した。建安7年夏、袁紹が後継者を指名しないまま死去すると、辛評と郭図は長男の袁譚を後継者にしようとする。しかし、辛評と郭図が権力を握るのを恐れた審配と逢紀は、袁紹の生前の寵愛を根拠に三男の袁尚を強引に承継させた。ここに、袁氏内紛が勃発するのである。建安8年、辛評は郭図と共に、審配への個人的敵愾心を動機として、袁譚に袁尚への先制攻撃をそそのかし、これを実施させた。だが結果は、袁尚の反撃に敗北し、袁譚は平原に追い込まれる。なお、袁譚配下の王脩は、侫臣を斬って袁尚と和解するよう説くが、この「侫臣」とは辛評、郭図を指すのであろう。この後、辛評本人の姿は史書では見られなくなり、その家族の動向が綴られていく。平原に追い詰められた袁譚は、郭図の進言もあって曹操への一時降伏を得策だと考え、郭図の推薦により辛評の弟辛毗を使者として曹操の陣へ送り込んだ。結果、和睦は認められたが、辛毗はそのまま曹操の家臣として留め置かれた。建安9年2月、袁尚派の審配が鄴を守備するようになる。審配は、郭図と辛兄弟への恨みを募らせていたため、城内に残されていた3人の家族を捕えようとした。この時、郭図と辛毗の家族は脱出したが、辛評の家族は収監されてしまった。辛評の家族は、審配が曹操軍との篭城戦を戦う最中に、ことごとく処刑されてしまう。審配が最後に敗北して曹操軍に捕えられると、辛毗は審配の処刑を強く望み、これが容れられた。建安10年1月、袁譚と郭図は、南皮で曹操に攻め滅ぼされた。しかし、この時まで辛評が付き従っていたか、袁譚らと命運を共にしたか、それ以前に南皮の戦いが開始された時点での生死すら、史書からは窺い得ない。
審配
袁紹に仕える。節操が固い人物であったことから袁紹に信頼され、治中や別駕に任命され、同時に幕府を総理した。建安4年に、対曹操の戦略方針をめぐって、郭図と共に短期決戦戦略を主張し、持久戦略を主張する沮授・田豊と対立した。この論争で、袁紹は審配らを支持している。しかし、この戦略に沿って起きた建安5年の官渡の戦いは、袁紹の敗北に終わり、審配も2人の子を曹操に捕らえられた。なお、この戦いの前には法律違反を理由として許攸の家族を収監している。これが原因で許攸は、官渡の戦いの際に曹操の下へ出奔し、袁紹を敗北に導いた。その後、普段から審配と仲が悪かった孟岱と蒋奇が審配を讒言し、郭図と辛評もこれに同調したため、孟岱が監軍に任命され、審配に代わって鄴を守備した。この時、普段は仲が悪かった同僚の逢紀が審配を懸命に弁護したため、審配は窮地を逃れ、逢紀とは親友になる。建安7年に袁紹が病没すると、袁紹が寵愛した三男・袁尚を逢紀と共に擁立し、袁尚の兄である袁譚を擁立する郭図・辛評らと対立した。袁紹は、死去の際に後継者を指定しておらず、しかも衆目は年長の袁譚を支持していた。それにもかかわらず、同列伝によると、審配らは袁紹の遺命を偽造してまで、袁尚の後継を強行したとされる。建安9年2月、袁尚の命令により審配は蘇由と共に鄴を守備するが、蘇由は戦わずして曹操に降伏。まもなく曹操軍が大挙して攻め込んできたが、審配は数か月に渡り善く防戦した。しかし、その間にも鄴周辺の袁尚軍は確実に曹操軍に掃討されていき、審配軍は次第に孤立状態に追い込まれる。ついに同年8月、甥の審栄が裏切って城門を開いてしまったため、審配は捕らえられた。曹操は審配の能力を見込んで部下に迎えようとしたが、審配は最後まで袁尚への忠義を貫いて拒絶する。また、篭城の間に兄・辛評の一家を審配に殺害された辛毗の強い要求もあって、曹操は審配を処刑することにした。審配は主君・袁尚のいる北を向いて斬首された。