焦触
後継者争いで袁譚に敗れた袁尚が袁煕の元に逃れて来た際、同じ袁煕の配下・張南と共に、反旗を翻し幽州刺史を名乗り袁煕、袁尚を遼西、烏丸の地へ追い払った。後に曹操に降り、列侯に封じられた。演義では、のちに赤壁の戦いの緒戦に水軍の心得ありとして張南とともに参加したが、焦触は韓当に、張南は周泰に討ち取られ戦死している。なお、同じく演義に登場する幽州刺史烏桓触は焦触と同一人物と思われる。
審栄
袁紹の子袁尚配下。建安9年2月、曹操が袁尚の本拠である鄴を攻めた際、審栄の叔父審配がこれを守備した。審栄も、審配の指揮下で東門校尉を務めていたが、同年8月、東門を開いて曹操に寝返った。捕えられた審配は、裏切者が審栄と曹操から聞かされると、「役立たずの小僧の分際で」と罵り悔しがった。こうして審配は処刑されたが、その後の審栄の消息は不明である。
後継者争いで袁譚に敗れた袁尚が袁煕の元に逃れて来た際、同じ袁煕の配下・張南と共に、反旗を翻し幽州刺史を名乗り袁煕、袁尚を遼西、烏丸の地へ追い払った。後に曹操に降り、列侯に封じられた。演義では、のちに赤壁の戦いの緒戦に水軍の心得ありとして張南とともに参加したが、焦触は韓当に、張南は周泰に討ち取られ戦死している。なお、同じく演義に登場する幽州刺史烏桓触は焦触と同一人物と思われる。
審栄
袁紹の子袁尚配下。建安9年2月、曹操が袁尚の本拠である鄴を攻めた際、審栄の叔父審配がこれを守備した。審栄も、審配の指揮下で東門校尉を務めていたが、同年8月、東門を開いて曹操に寝返った。捕えられた審配は、裏切者が審栄と曹操から聞かされると、「役立たずの小僧の分際で」と罵り悔しがった。こうして審配は処刑されたが、その後の審栄の消息は不明である。