焦触
後継者争いで袁譚に敗れた袁尚が袁煕の元に逃れて来た際、同じ袁煕の配下・張南と共に、反旗を翻し幽州刺史を名乗り袁煕、袁尚を遼西、烏丸の地へ追い払った。後に曹操に降り、列侯に封じられた。演義では、のちに赤壁の戦いの緒戦に水軍の心得ありとして張南とともに参加したが、焦触は韓当に、張南は周泰に討ち取られ戦死している。なお、同じく演義に登場する幽州刺史烏桓触は焦触と同一人物と思われる。

審栄
袁紹の子袁尚配下。建安9年2月、曹操が袁尚の本拠である鄴を攻めた際、審栄の叔父審配がこれを守備した。審栄も、審配の指揮下で東門校尉を務めていたが、同年8月、東門を開いて曹操に寝返った。捕えられた審配は、裏切者が審栄と曹操から聞かされると、「役立たずの小僧の分際で」と罵り悔しがった。こうして審配は処刑されたが、その後の審栄の消息は不明である。
蒋奇
袁紹の部将。その事跡は、官渡の戦い前後についてのみ残されている。建安5年10月、官渡の戦いの終盤戦において、袁紹は都督の淳于瓊に食糧を守備するよう命じ、淳于瓊は烏巣に駐屯した。この時、袁紹の参謀にして都督である沮授は、蒋奇に別働隊を率いさせ、事前に淳于瓊と連動して曹操の奇襲に備えるよう袁紹に進言したが、受け入れられなかった。その結果、烏巣は陥落し、袁紹は曹操に大敗を喫したのである。この敗戦後、蒋奇は同僚の孟岱と共に、日頃から仲が悪かった同僚の審配を袁紹に讒言し、失脚させた。これにより孟岱は監軍に取り立てられているが、蒋奇はいかなる官職についたかは不明である。結局、その後に逢紀の弁護もあって審配は復権した。これ以降、蒋奇と孟岱は史書から姿を消す。
淳于瓊
後漢の霊帝の時代、西園八校尉の一人として左軍校尉を務めた。霊帝の死後は廃帝弁に仕えたが、董卓の専横が始まると中央から逃れて袁紹配下の武将となる。興平2年、袁紹の監軍沮授が、献帝を迎え入れるよう袁紹に進言したが、淳于瓊は郭図と共にこれに反対し、結局袁紹は献帝の受入を行わなかった。淳于瓊が反対した理由は、献帝が董卓により擁立された皇帝であることなどが考えられる。建安4年、郭図の讒言により、沮授の監軍の権限・地位が三都督に三分割されると、淳于瓊は沮授・郭図と共に都督に任命された。建安5年に官渡の戦いが始まると、淳于瓊は郭図、顔良と共に白馬に駐屯する東郡太守劉延を攻撃したが、曹操軍により顔良、後には文醜を討ち取られるなど苦戦する。同年10月、淳于瓊は兵糧輸送の任務を袁紹に命じられ、督将の眭元進、騎督の韓莒子、呂威璜、趙叡の四将を率いて烏巣に駐屯した。ところがその警備体制は充分ではなく、このことを離反した許攸が曹操に密告したため、曹操は淳于瓊の陣を急襲してきた。それでも淳于瓊は曹操軍の来襲によく対応し、袁紹も軽騎兵を烏巣への援軍に差し向けたため、一時は曹操の方が危地に陥る。しかし、曹操は決死の覚悟で強襲を続行したために、遂に淳于瓊軍は殲滅させられた。淳于瓊は曹操の部将・楽進に斬られ、眭元進ら四将も曹操軍により尽く討ち取られている。