袁譚
袁譚は袁紹の命により青州へ派遣され、公孫瓚が任命し青州刺史になった田楷を、さらに青州刺史の孔融を駆逐した。袁譚は曹操から青州刺史に任じられた。なおこの時、袁紹重臣の沮授が、袁譚を青州に赴任させることは「災いの始まりです」と袁紹を諌めたものの、聞き入れられなかった。袁譚は優れた人材を招くことを趣味としながら、実際は奸臣の言葉にばかり耳を貸す人物であったという。そのため、王修のような優れた人物を招いても意味はほとんど成さず、青州の統治でも混乱を招くばかりだった。青州は非常に荒廃しており、一万戸ある都市も戸籍に登録しているのは数百戸程度であり、租税の納入は3分の1以下であったという。ただし、上記状況については以下の点を考慮しなければならない。まず、袁譚が青州を統一する前、青州は袁紹・公孫瓚・孔融・黄巾党が激しい戦いを繰り広げていた。特に青州での黄巾党の活動は、袁譚の刺史就任直前においても大規模なものであり、青州の治安は非常に悪かった。また、袁譚の人材登用での混乱には、当初の青州別駕劉献が王修の起用を妨害するなどの悪条件も重なっていた。しかも後に王修が青州別駕に昇進してからは、むしろ袁譚は王修を腹心として尊重していた。建安5年、袁譚は曹操の下から逃亡してきた劉備を丁重に受け入れた。袁譚は劉備が推薦した茂才であったためである。また袁紹・袁譚親子は劉備を敬重した。官渡の戦いには、袁譚も父に従って参戦したが、曹操に大敗して青州へ引き返した。建安7年、袁紹は最期まで後継者を明確に指定することなく、病没した。袁紹軍幕僚の郭図・辛評は長男の袁譚を後継者に推し、また衆目も年長の袁譚支持であった。しかし、やはり同幕僚であった逢紀・審配は、郭図・辛評との個人的対立などもあり、袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を後継者として強硬に擁立した。審配らは袁紹の遺言を偽造した一方、袁譚は青州から鄴へ引き返してきたが、後継を宣言する袁尚に反発して黎陽に駐屯し車騎将軍を自称した。兄弟仲の隙を見越したように曹操が黎陽へ攻め込んでくると、袁譚は袁尚に援軍要請をする。しかし袁尚はこれを拒否し、怒った袁譚は袁尚派の逢紀を殺害してしまう。両者の仲はさらに険悪化し、決裂は時間の問題となった。建安8年春、袁尚と袁譚は曹操の攻撃に耐えかね、黎陽を放棄する。曹操はいったん許昌に帰還したが、郭図・辛評らの助言・後押しを受けた袁譚は、ついに鄴城外門へ袁尚を先制攻撃し、袁氏兄弟の対立は決定的となった。同年8月に袁譚は袁尚の反撃に敗北し、南皮に撤退する。そこへ青州別駕の王修が来援し、「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕を切り落とし、敵方に対し交戦の準備が整ったためいつでも受けて起つ、と公言するのと同等の愚行である」と諭し、侫臣を斬って袁尚と和睦することを進言した。しかし、袁譚は聞かなかった。さらに袁尚の攻撃を受けて袁譚は平原に追い詰められる。そして、郭図の進言もあって、袁譚はやむなく曹操に降伏する。このとき、袁譚の娘が曹操の子・曹整と縁組した。曹操は同年10月に出陣し、袁尚は慌てて鄴へ引き上げた。しかし袁尚の部将呂曠・呂翔はこれに反して、曹操・袁譚に寝返っている。袁譚は工作でこの2将を取り込もうとしたが、失敗した。建安9年、袁尚は再び袁譚を攻撃してきた。しかし、曹操はその隙を衝いて鄴を包囲したため、袁譚は危機を逃れる。曹操が鄴を包囲してる間に、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略した。さらに鄴を放棄して中山へ逃れた袁尚を撃ち破って、袁尚の率いていた軍兵を併合し、勢力を急激に拡大した。だが、曹操は袁譚を盟約違反と非難し、袁譚の娘を送り返して縁戚関係を解消した上で、これを討伐した。事態の急転に袁譚は怯え、平原から逃走して南皮に逃げ込んだが、曹操はこれを猛追する。翌建安10年、南皮の戦いでは、袁譚は一度は曹操を破る。しかしその後の再戦に敗れて、曹純に斬り殺された。袁譚の一族も皆殺しとされ、袁譚の首級は獄門とされた。その後、遅れて駆けつけた王修は、死罪を恐れずに獄門の下で慟哭し、曹操に袁譚の遺骸の埋葬を願い出て許可されている。後継者争いについて、袁譚には衆目の支持があったとされるが、幹部クラスとなると支持者は郭図・辛評など穎川出身者のみである。逆に冀州出身は審配と沮授であるが、審配は勿論、沮授の息子である沮鵠も袁尚に仕えていた。はたして、正史の記述どおりに河北からの支持があったとみるか、それとも幹部の反応から見て嫌われていたとみるか、難しいところではある。ただ、袁紹死去時の袁譚の本拠地が青州であったことが、袁譚が冀州出身者の旧袁紹陣営の幹部に嫌われる原因になった可能性は考えられる。