許攸
弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年頃には、田豊・荀諶と並び称される袁紹陣営の参謀となっている。しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。建安5年、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許昌と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。曹操の参謀荀彧は「許攸は貪欲で身持ちが修まらない」、「審配と逢紀は、許攸の家族の犯罪を見過ごせない」と指摘していたが、まさにその通りの事態となった。上記のことなどもあり、ついに袁紹を見限り、曹操に寝返った。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落し、曹操の部将楽進が淳于瓊を斬った。曹操は、鼻を削がれて捕えられながらも潔さを保つ淳于瓊を惜しんで処刑することをためらったが、「鏡を見れば我々を恨みますぞ」と許攸が進言したため、曹操は淳于瓊を処刑したとされる。烏巣攻撃により、曹操軍の勝利は決定的となった。しかし許攸はその功績に驕り、また、旧知であったことから曹操になれなれしい態度を取った。しかも、自分が曹操に味方しなければ冀州攻略はできなかったといつも自慢し、曹操は内心その態度を嫌悪した。建安9年、曹操は鄴を攻め落として、審配を斬った。許攸は鄴の東門を通った時、またしても「この男はわしを手に入れなかったら、この門を出入りできなかっただろう」と左右に自慢した。この発言を曹操に密告され、とうとう処刑されてしまった。
麹義
最初は韓馥の部将だったが、これを裏切って、袁紹に仕えた。麴義の出身地と見られる涼州は、北方民族の侵入などで戦乱が多い地域だった。麴義はそこで羌族の戦法を身につけ、配下の兵卒も勇猛だったという。初平1年、袁紹に反逆して張楊を誘拐した匈奴単于の於夫羅を、麴義は鄴の南で撃ち破り、その精強ぶりを示した。初平3年、強力な騎兵隊を擁する公孫瓚との界橋の戦いでは、麴義は先鋒として、楯を構えた兵士八百人と一千張の強弩隊を率い、公孫瓚が誇る精鋭の騎馬隊を撃破する。麴義はさらに追撃して、公孫瓚配下の冀州刺史厳綱を斬り、公孫瓚の本陣を落とし、騎兵隊に囲まれ窮地に陥った袁紹を救出するという大活躍を演じて、勝利に貢献した。初平4年に大司馬劉虞が殺されると、その子劉和や劉虞の旧臣鮮于輔と協力して、麴義は公孫瓚への更なる追撃を進めた。興平2年には、幽州の鮑丘で公孫瓚を破り、その本拠地の易京に追い込む。しかし、ここから公孫瓚は堅城の易京を楯に長期の籠城戦に持ち込む。1年余りの対峙の末に麴義軍の糧食は尽きてしまい、そこを公孫瓚に逆襲されて大敗した。一方で、界橋の戦い等の功績をいいことに、軍令無視など次第に傲慢な態度が目に付いていたこともあって、遂に麴義は袁紹によって殺害されてしまった。没年は、建安1年から建安3年の間ということしか分からない。麴義配下の残軍は、公孫瓚の支援を受けるなどして袁紹に反抗したが、結局はこれらも直ちに殲滅されている。
韓猛
袁紹配下の将。曹操の参謀荀攸の評によれば、韓猛は「向こう意気が強くて敵を軽んじる男」ということであった。建安5年の官渡の戦いで、曹操軍の西方の交通を遮断するよう袁紹から命じられたが、雞洛山で曹操の部将曹仁に撃破された。さらに、袁紹軍の兵糧の運搬を警護する役目を担ったが、荀攸の計略により、徐晃・史渙に妨害され、輸送車を焼き払われる。その後、韓猛は史書に登場しない。

顔良
河北の諸侯袁紹の部将。建安4年頃には、文醜と共に袁紹軍の将帥として知られ、曹操配下孔融の言葉でも袁紹軍の勇将の代表として名前が挙げられている。建安5年、それまでにらみ合っていた袁紹・曹操が遂に対決する。開戦に際して、沮授は「顔良は偏狭なので単独で任用してはいけません」と諌めた。しかし、袁紹はそれを聞かず、白馬津を守る曹操配下の東郡太守劉延を、顔良に単独で攻撃させた。これに対して、曹操は荀攸の献策に従い、袁紹軍の背後を突く動きを見せ、猪突してくる顔良が孤立した所を叩く作戦に出た。この作戦は的中し、他の袁紹軍が反応して引き返す中、顔良は判断を誤り寡兵で白馬津の戦場に踏みとどまってしまう。手薄となった顔良隊に対し、曹操は張遼と当時曹操の客将となっていた関羽に直ちに攻撃を命じる。顔良を見た関羽は敵軍の中にただ一騎で分け入って顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。ほどなく文醜も討たれ、袁紹軍では立てつづけに名だたる将軍を2人も失ったため、一方ならぬ恐怖を抱いたという。曹操の参謀荀彧は、上記の孔融に対し、「顔良と文醜は匹夫の勇のみです。一戦にして生け捕れます」と答えたが、まさにその通りとなっている。