袁尚
袁尚は生まれつき美貌で、武勇に優れていたため、父の袁紹、母の劉氏の双方から寵愛されていた。袁紹は袁譚を差し置いて袁尚に後継させようと目論んでいたとされる。しかし建安7年に袁紹が病没した際には、最期まで後継者を明確に指定することはなかった。後継者問題については、袁紹軍幕僚の郭図・辛評が長男の袁譚を後継者に推し、衆目も年長の袁譚支持だった、としている。しかし、同幕僚の逢紀・審配は、郭図・辛評との個人的対立などもあり、袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を後継者として強硬に擁立した。審配らは袁紹の遺言を偽造したとしている。これにより袁尚が後継を宣言すると、母劉氏の意を受けて、袁紹の寵妾5人を族滅した。一方、黎陽にあった袁譚は、袁尚に反発して車騎将軍を自称した。兄弟仲の隙を見越したように曹操が黎陽へ攻め込んでくると、袁譚は袁尚に援軍要請をする。しかし袁尚はこれを拒否し、怒った袁譚は袁尚派の逢紀を殺害してしまう。両者の仲はさらに険悪化し、決裂は時間の問題となった。袁尚は、并州刺史高幹・河東太守郭援・匈奴単于呼廚泉に曹操の背後となる関西を攻撃させたが、鍾繇・馬超・龐徳らの反撃を受けて郭援が戦死し、これも失敗に終わった。建安8年春、袁尚と袁譚は曹操の攻撃に耐えかね、黎陽を放棄する。曹操はいったん許昌に帰還した。そして郭図・辛評の助言・後押しを受けた袁譚は、鄴城外門へ先制攻撃を仕掛け、ついに袁氏兄弟の対立は決定的となった。反撃に転じた袁尚は、同年8月に袁譚を撃破し、平原に追い詰めた。これにより袁譚は、袁尚との対抗上から、曹操に降伏する。同年10月に曹操軍が北上すると、袁尚は慌てて鄴へ引き返した。しかし袁尚の部将呂曠・呂翔は、これに反して陽平に踏みとどまり、そのまま曹操・袁譚に寝返っている。翌建安9年春、袁尚は袁譚を攻撃したが、曹操はその隙を衝いて、審配が守る鄴を包囲した。同年7月に袁尚は鄴救援に引き返してきたが、散々に撃破されてしまう。さらに曹操への降伏も拒否され、中山へ逃走した。袁尚に見捨てられた鄴も翌月に陥落し、審配は処刑される。袁尚は中山でも袁譚に撃破され、幽州刺史を務めていた袁煕を頼って、その管轄地の故安に落ち延びた。しかし、袁煕配下の大将焦触・張南に裏切られ、袁煕とともに烏桓を頼って遼西に遁走する。建安12年、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚は烏桓王蹋頓らと柳城で迎撃した。しかし、またしても敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ちのびる。しかし曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操への手土産にしようと企み、2人を偽って歓迎した。袁煕は疑いを抱いたが、むしろ公孫康の軍を奪い取ろうとしていた袁尚は、強がって公孫康の下に向かう。公孫康は、袁煕、袁尚を取り押さえ、斬首し、2人の首級を曹操のもとに送り届けた。
袁煕
建安年間に、袁煕は幽州刺史に任じられている。袁煕は任地に向かう一方で、その妻の甄氏は鄴に残って姑を世話していた。建安7年に袁紹が後継者を定めないまま病没すると、兄の袁譚と弟の袁尚がそれぞれ後継を表明する。家臣団の支持も喰い違い、袁氏の勢力は二分されることになる。実子であるにもかかわらず、袁煕がこの争いに積極的に加わったとされる記載は無い。建安9年、弟の袁尚が曹操および袁譚に敗れると、これまで曹操と敵対していなかったにも関わらず、袁煕はあえて袁尚を管轄地の故安に迎え入れて助けた。この行動は幽州の豪族に反感を抱かれ、結果、部将の焦触、張南ら多くの離反を招いてしまう。袁煕は袁尚とともに遼西の烏桓の土地に逃れた。建安12年、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚は烏桓王蹋頓らと柳城で迎撃した。しかし再び敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びる。しかし曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操への手土産にしようと企み、2人を偽って歓迎した。袁煕は疑いを抱いたが、むしろ公孫康の軍を奪い取ろうとしていた袁尚は、強がって公孫康の下に向かう。結果、2人は公孫康の騙し討ちにより殺害され、その首級は曹操のもとに送られた。元袁煕の妻であった甄氏は、類まれな美貌であった。鄴城陥落の際、攻め手の将であった曹丕に見初められ、寵愛された。このことから、曹叡は袁煕と甄氏との間で出来た息子という説が存在する。曹叡の生年を考えて曹丕の子とするには難しい、というのが曹叡は袁煕の息子という説が存在する理由である。しかし、袁煕は建安年間に幽州に転出して以降、甄氏は鄴に残っていたとある。