先日の津市、中日文化センターの講座に参加された方が来院した。以前にも東京の講座を受講されている方なので、熱心に自分の身体と向き合う方だな、という印象を持っていた。自分の身体と向きあう人たちを観ていると、大病をしたことをきっかけに、あるいは、長年の悩みの末に、自分という意識から自分という身体へスイッチが切り替わった人が、心身の不調を解消、心身を良好な状態に変化させているようにみえる。
意識も身体も両方が自分であることは間違いない。自分の所在について、身体の何処に自分があるのかを質問することがある。すると、頭の辺りに自分がある、胸の辺りに自分がある、身体全体に自分がある、考えたことがないなど、人によって自分の所在が違うことがわかる。そうすると、意識というのは曖昧なものだと思う。
身体というのは目でみて、触って確認することができる、一方、意識というのは見ることも触ることもできない、よくわからない存在。身体の不調がいつまでも解消されないし、身体が良好な状態へ変化させられない。自分というものを意識と身体から成っている、と考えたときに、意識が主になって、身体の存在が薄くなっているように感じられることが多い。
自分の身体と向き合う作業は、自分の外の世界と内の世界とをわける境界線となる皮膚を明瞭にし、内の世界に、骨格という強固な支柱を立て、感覚と運動を循環させて満たしていくようなこと。要は、身体と向き合うときは、感覚と運動が重要なのだ。逆に、意識は感覚と運動を循環させるのに邪魔になることの方が多い。それは、身体を良好な状態に変えていきたいのに、自分の親も~だから、自分は生まれつき~だから、自分は歳だから、など、自分という意識が身体と向き合うことを阻むのだ。
身体は小宇宙に例えられるが、もっとも身近にありながら、わからないことばかりだということに気づく。今現在の自分は、これまでの意識と身体の結果なのだと思う。自分の身体にとって良い感覚を入力し、運動で出力を繰り返し、自分の内の世界を満たしていくことが大切だ。
まずは、四肢と体幹が連動する身体の状態にして、脊柱を良好に保ちたい。