「あなたは弱いものにやさしくない」
と...........。
そのかたは地球上のものすべて、人類すべてに愛を注ぐようだ。
私はというと、自分と合う人たち、ご縁を通じてでしか人と付き合えない。
とくに、その方の療法に興味がなく、
「こうじゃないと、いけない。」
といわれても.....。
興味のないことにつきあうことができない。
「それはいま、あなたに必要です。」
といわれても、
どうしてあなたに言われなくてはいけないかと不思議に思う。
確かにどの教えもそうだが、説かれていることはすばらしい...。
だが、興味があるか、ないか。
ない。
神さまのように自然をコントロールすることができるのなら、
そのような特殊な能力があるのなら、
私の関心事、「運動を再現」してみせてほしいと思う。
最も身近な自身のカラダコントロールすることなどわけないこではないだろうか?
自然はコントロールできるが自分のカラダは・・・というのでは。
その方は心に偏りすぎているように見える。
やさしいとは?
本当の意味でやさしいというのなら
ご自身のカラダ(自然)を雑にあつかわないでほしい。
筋が通るというものだ。
私は心と身体、偏りなくいきたい。
だから、興味がない。
先日、知人がなくなった。
生前はよくお世話になり、そのときの事が思い出された。
不思議なもので、その方は仰向けになったまま、もう動きそうにもない。
当然だ、亡くなったのだから。
当然かもしれないが、何が当然なのだろう。
どうしたら、動き出すのだろうと、いろいろ考えたがわからない。
その横たわった肉体に何かが「ない」ことはわかる。
だが、もう「無い」のだ、「無い」から動かない。
物事が存在しないことを「ない/無い」という。
物事が存在することを「ある/有る、在る」という。
死ぬということは、「ある」か「ない」かでいったら「無い」。
あるのは思い出。
この思い出は私にはあるが、全く知らない人には「ない」、
そして存在してたことすら知らない。
私が右足の末梢神経麻痺で苦悩していたとき、
右足は「ある」のだけれど、なくなった。
今になって考えると、足は運動麻痺で動かない、
感覚は無いかといえば、そうでなく、
手を変え品を変え様々な感覚異常で存在を示していた。
辛いけれど、この感覚異常がなければ「ない」ということを認めてしまったかもしれない。
仮に「ない」ことを認めたとすると、私は生きているが、足は「ない」ということになる。
「ある」と「ない」のはざ間に、感覚がある。
そして、生きている私には認識できる意識があり感覚を感じていた。
もう、動くはずのない、そのヒトを動かすことはできない。
「ない」のだから。
私は「ある」と「ない」のはざ間しか経験したことがないけれど、
「ない」というのは真っ暗な闇だ。
真っ暗な闇みとは私のイメージでしかないが、確かに何もないのだと感じた。
しかし、よく考えてみれば、
私がその療法に興味がないというのは、全く興味がなければ「無」、存在しない。
だが、存在を知って、しかも、その人と話をしているわけで、
「ある」と「ない」のはざ間からでた答えが
興味がないということになる。
私は修行中の身、地球上のものすべて、人類すべてに愛を注ぐことができるほどのレベルに至っていない。今できることは、ご縁のある方たちに誠心誠意尽くすことだ。
≪セミナー&トレーニング会≫
2013/ 10~12 NHK青山教室/骨盤おこし 月1セルフメンティナンス
2013/11/16大阪・『動き』のフィジカルトレーニング/構造動作トレーニング会
2013/11/23 【技アリ企画】第42回「構造動作トレーニング東京セミナー」
2013/11/22 11月の「股割り More★チャレンジ」と「『趾(あしゆび)』Level Up」