表現の自由についてシンプルに考えてみる | ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドン・東京そしてNYといつの間にかいろんなところを転々とそしてまた東京に。海外なんて全く興味なかったし今もないという予想外の人生でした。今は東京に戻りしばらくお休みしていましたが少しずつ再開してみようかと思ってます。よろしくお願いします

パリに続いてデンマークでもテロと思われる事件があった。なくなられた方も出てようでいたたましい限りである。

一方で今回の事件は「表現の自由」の名の下にムハンマドの風刺画を描いた作家が参加している集会を狙って行われたようでもある。

表現の自由とはいったい何なのだろうか?自由とは何なのか。改めて考えさざるをえない。

先日は危険地域に渡航する自由があると書いた。その大前提として責任は自分で取れということも。

おそらく、表現の自由もそれと同じであると僕は思っている。

どのような表現を行う自由も人間にはある。そしてそれを社会は認めるべきだろう。

だが、それが公のものであるにせよプライベートなものであるにせよ、その結果の責任は各人が負うべきである。ただそれだけのことだと思う。

もちろん、これにはいくつかの前提や条件もある。

過激な表現やスクープ・プライベートを暴くことなどを行た場合には恨みを買うことも多い。その場合に報復としての暴力行為が想定される。今回の事件もその 一つの例だろう。それを我々は許すべきかということだ。もちろん、答えはノーであることは言うまでもない。そのような暴力行為には断固として立ち向かうべ きだろう。

だが、人間が完璧でない以上は表現に対して暴力で報復するという人々は決してなくなることはない。言い方は悪いかもしれないが、先進国よりも新興国や後進 国では人の命の価値はまだまだ軽んじられているので、人を殺すことに対する罪悪感も薄い。そのような違った価値観を持った人が表現の暴力に対して命を奪う という報復に出る可能性は当分はなくならない。

それも現実だということだと思う。

「暴力」、まして「テロ行為」は決して良くない、断固として戦い続けると訴えていくことを我々はすべきだ。だが、同時に、表現の自由には当然そのようなリスクが伴うことも認識すべきだろう。

もちろん、そのうえで人をどこまで傷つけていいのか。イスラムの人たちにとって大切なムハンマドを風刺画にすることが彼らをいかに傷つけるのかを表現を行う側は気遣うことも必要であることは言うまでもない。友人や家族、同僚や上司に対して言葉を選ぶのと同じようにだ。

結局、価値観・文化の差がそこにはあり、世界がより一体化する中でそれが問題を生み出しているという側面も強い。欧米的な価値観・経済的に豊かな国の価値観を絶対善とし押し付けるだけでなく、欧米諸国(とはいっても一部の人間だろうが)も表現の自由だからと言って何をやってもいいのかというところをもっと考えるべきだろう。

ただ、人間は週刊誌や夕刊紙よろしく、人(特に有名人)をさげすむようなネタは大好きだから…。行き過ぎた表現の 自由は暴力による報復(先進国では相当少なくなっただろうが)、や訴訟のリスクを背負っても十分に商売的にはペイするというなんだろうとは思う。そう考え ると悲しい限りでもあるし過激な表現はなかなかなくなることはないのだろう…。