暗黙の政府保証は蜜の味 | ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドン・東京そしてNYといつの間にかいろんなところを転々とそしてまた東京に。海外なんて全く興味なかったし今もないという予想外の人生でした。今は東京に戻りしばらくお休みしていましたが少しずつ再開してみようかと思ってます。よろしくお願いします

2008年。リーマンショックが起こった時に、その原因の一つとして政府からの金融機関への暗黙の政府保証が過剰なリスクテイクを招き危機の規模をより複雑で大きなものにしたという解説がしきになされた。実際、そういった一面があったことは否定できないと僕も思っている。

2015年。危険地域に渡航した湯川さんと後藤さんがテロリストに拉致をされ殺害された。 政府による安易な救済の可能性が危険地域にジャーナリストや企業の駐在員が言っている原因の一つではないかといわれ、ネットでは「自己責任論」が満ち溢れた。実際、そういった一面はかなりあることは否定できないだろう。

田原総一郎氏がブロゴスでこのように書いていたのだが、結局、ジャーナリストやメディアも金融機関同様に暗黙の政府保証を欲しているだけなのだと思った次第である。


ISILによる日本人人質事件で考えた、ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮


「正解」の対応は、正直、僕にもわからない。ただ、ひとつ、何度でも言いたいことがある。人質となった後藤健二さんに対して、「危険な国に勝手に 行ったのだから、自己責任だ」という意見がある。確かに自分の意思で行くのだから、自分の責任だろう。だが、ジャーナリストというのは、危険なところで あっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。

 

今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。僕も、そうした場数はたくさん踏んできた。

 

そしてジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る。みんなが、現実について考えるためのきっかけや材料を提示するのだ。僕たちは、こうやって民主主義の根幹を支えていると思っているのである。(ブロゴスより引用)


リーマンショック後に、政府と中銀が金融機関を救済しないとさらに事態が悪化するぞと脅しをかけたゾンビ銀行たちに。あるいは、俺たちがユーロ離脱をしたら大変なことになるぞと騒いで金をむしり取っていくギリシャ政府にそっくりだと思うのは僕だけではあるまい。

たしかにジャーナリズムは民主主義を支えているかもしれない。だが、それ以上にジャーナリズムは商売以外の何物でもない。あえて汚い言い方をさせてもらうが、 ジャーナリストは(あるいはメディア)は金儲けのために危険地域に行くのである。いろんな企業の社員が金儲けのために危険な地域に行くのと同様にだ。もちろん、車もエアコンも金融もすべての産業は世の中を支えているのは同じである。なぜ、そのジャーナリストを助けるのが前提になっているのだろうか?なぜ ジャーナリズムを公共財であるかのように言うのであろうか?

ただただ、あきれる限りだしジャーナリストという人たちがいかに思い上がっているか、いかにメディアというのがおかしな世界かがよくわかる発言でもある。

だがもちろん一方でジャーナリストの崇高な思いを頭から否定するつもりもない。僕は湯川さんや後藤さんの覚悟。命を懸けてでも成し遂げたいことがあるという思い。それらの思いは否定されるべきものではないと思う。

そして、実際そういったジャーナリストが世界中で何が起こっているかを伝えてくれることで我々はよりよい生活を送ることができている。彼らの強い思いとそして我々の知りたい、もっと考えたいという欲求/ニーズが存在していることは否定できない。

リスクとリターンは常に表裏であることは昨日も書いたことでもある。

そんな中で危険地域に渡航しようとしたジャーナリストがパスポートを取り上げられたらしい。いったいどういうことだろうか。イスラム国に参加してテロリストになろうとしているのならばともかく、現地の状況を伝えたいという思いでいくのならば、別にいいのではないかと僕は思っている。政府のやるべきことはパスポートを取り上げて無リスク主義/事なかれ主義に走ることではないはずだ。

その代わりに政府は明確に宣言すべきだろう。自己責任なので危険な目にあった場合にも救済しないと。
同時に明確に線引きをすべきである。ここまでは助ける。たとえば、身代金は100万円までは払う。人質と囚人の交換には応じない。(あるいは応じるように他国には要請しない)などなど…。

そうすれば、ジャーナリストや企業関係者もどこまで政府がしてくれるか(彼らも納税者なので一定程度の救済は受ける権利がある。ふつうに旅行をしていてたとえば犯罪にあったりパスポートを紛失すれば領事館や大使館が助けてくれるように)が判断できるので、自分が犯すであろうリスクとリターンがより天秤にかけやすくなるだろう。

「何が何でも自己責任」も「何が何でも助けろ」も「命は地球より重い」も「危険地域には絶対行くな」も「ジャーナリズムは特別だ」もすべておかしいのである。どこまで政府は救済に動くのか。それを一つの手掛かりに個人や企業はどこまで危険地域に人を送るのか。その場合の報酬(あるいは命の代わりにえられる何か)はどの程度なのか。すべてを勘案して各人(企業)が行動をとればいい。人にとっての命の重みは各人それぞれでもあるのだ。ただそれだけのことである。もちろん、実務的には基準の明確化は難しいのかもしれない。だが、今回いろんなところで行われている議論はすべて何かがずれているとしか僕は感じられないのである。