中央銀行不要論(3) 世界経済の連動と市場の発展と | ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

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ロンドン・東京そしてNYといつの間にかいろんなところを転々とそしてまた東京に。海外なんて全く興味なかったし今もないという予想外の人生でした。今は東京に戻りしばらくお休みしていましたが少しずつ再開してみようかと思ってます。よろしくお願いします

市場経済の発展によって世界経済の連動性はますます増している。


長期金利は横断的に世界各国の金利や経済情勢の影響を受けやすくなった。投資家は瞬時にさまざまな通貨の資産に投資できるようになっている。資金調達をする企業サイドもより割安な調達を求めてさまざまな通貨/資産で調達している。


そのような前提を踏まえれば各国の長期金利が連動してくるのは当然の動きのように見える。


現代においては日銀やFEDなどの先進国の中央銀行がベースマネー を増加させてもマネーサプライ は容易に増やせない。


また、短期金利を上下させてもグリーンスパン元FRB議長が「長期金利のなぞ」と述べたようにより景気に大きな影響のある長期金利を中央銀行が自由自在に動かすことは難しくなっている。


事前に織り込まれ材料で尽くしという説明は説得力があるもののFED(アメリカ連邦準備制度)のQE 1もQE2もBOE(イングランド中央銀行)のQEも金利を押し下げることはできなかった。


ECB(欧州中央銀行)の周辺国債の買取も市場から問題の本質的解決でないと見透かされることでこれらの国債の金利を大きく押し下げることもない。


日銀によるリスク資産の買取がどの程度の効果があるだろうか。事実上の財政政策を押し付けられる中央銀行の姿はいたたましい。僕はそのような政策は支持しないが、その必要があると思うなら政治家が覚悟を持って政府の勘定で行うべきだろう。


オーストリア学派を中心に銀行システムは中央銀行を筆頭にしたカルテルであり、不換紙幣を介した統制経済であるとの見方もある。僕も自由経済を標榜するものとしてその考え方には一定の敬意は表する。


しかし、今の世界で起こっている動きを見る限り、もはや中央銀行は短期金利を介して通貨供給量を操作することで一国の金利の世界を支配し経済の舵取りをするという能力を失っているに等しいようにも見える。皮肉にも市場経済の発展は彼らがいうところの(中央銀行という)統制経済システムを凌駕し無力化に追い込んだように考えるのは僕だけだろうか。


彼らの存在はもちろん引き続き金融市場の機能に対して弊害をもたらしている。市場にノイズを与えるような情報発信や政策金利の変更は数多い。


であるならば、その存在はもはや不要といえるだろう。少なくとも中央銀行は政策金利を人為的に決定する必要はまったくない。今でも行っているが、入札制度を介して資金を市中銀行に供給すればよい。落札金利は自動的に入札で決定されるわけだ。ただそれだけだ。最後の貸し手としての役割は一定の価値を果たすだろう。ただし、モラルハザードをもたらさないために相応のペナルティー金利を課すことが望ましいだろう。


一気に中央銀行解体だとか金本位制にだとか言った議論は一般に受けにくいし、リスクも伴うだろう。それよりもまずは中央銀行から政策金利決定権を奪うことをわれわれは目標にすべきだ。

実務的に考えればそれは現実的に可能なアイディアだと思うし、弊害は大きくないように感じられる。


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