福井の原発のこともあるせいか、琵琶湖を有する滋賀県は、危機感が高まっているように見えます。

http://www.kyoto-np.co.jp/shigatop/article/20110701000110

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琵琶湖の全水浴場が「適」か「可」 県が水質調査印刷用画面を開く  滋賀県は1日、琵琶湖の主要水浴場での水質調査の結果、いずれも「適」か「可」で、「不適」はなかったと発表した。福島第1原発事故を受け3カ所で実施した放射性物質調査では、放射性ヨウ素や放射性セシウムは検出されなかった。  水質調査は9水浴場12地点で、5月9~19日に実施した。糞便性大腸菌群数や透明度、CODなどで判定。水質が特に良好な「AA」は松の浦(大津市)、近江舞子(同)、南浜(長浜市)、二本松(同)、マキノサニービーチ(高島市)。
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関西の小学校、中学校でのプールの授業は、水質検査などされているのでしょうか。
放射性物質も含めた検査をしてほしい。

こんなデータもあり

http://www.houshasen.tsuruga.fukui.jp/f_e2180.html

心配です。

東日本から、京都、滋賀に避難している方もおられるというのに
どこまでこの国は、原発大国なのでしょうか。
五木寛之氏の『きょう一日。』を読みました。

きょう一日。 非常時を生き抜く究極の五木メソッド55/五木寛之

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明日なき時代を生きる我が身ですが、それでも今日一日の養生をしようという心と身体のケアの本。

冒頭で、むかし一世風靡した「戦争を知らない子供達」のことが出てきます。
氏は「いつか放射能を浴びた子供達」という歌ができるかもと書いています。

「戦争を知らない子供達」の歌。
子供の頃は、分からずにいました。

戦争を知らずに生まれたことがどれだけ貴重で
どれだけありがたいことかということ。

戦後に生まれた私たちは「戦争を知らない子供達」として
生まれさせてもらえたのに

自分たちの子供には、持たなくてもいいもの、
残さなくてもいいものを残してしまいました。

それは、放射能という目に見えないやっかいなもの。

どんなに嘆いても、放射能に汚染されていない日本は数十年、100年、取り返せない。

悲しくて悲しくて、子供達にも申し訳なくて、本当にどうしようもないと思いながら
それでもやはり、何かひとつでもできることをと探しています。

専門分野でもないことは書かずにおこうと思っていましたが
1人の母親として、いま日本人が置かれている厳しい状況のなかでできることは

やはり、書くこと。

ささやかながらでも、書くこと。

そう思い始めています。






私の実家は東本願寺系列の末寺です。

子供の頃から、仏壇にあった「鶴亀の燭台」を目にしてきました。

よく、言いますよね。

「鶴は千年、亀は万年」と。

そんな意味なのかな~?とぼんやり思っていました。
深く追究する訳でもなく。

ところが、最近父の歌評を読み、そうではなかったことを知りました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここから
私流のななめ読み、気に召すかどうか。

住職も白き軍手に車座の一人となりて仏具を磨く(八田順子 香川)

一瞬自分のことを詠まれたのかと思うぐらいそっくり描かれている。
「オミガキ」には畳を一枚か2枚上げて、床にゴザ、新聞紙等を敷き
数人が囲む。

磨き方に手順があって、最初の人は仏具に洗浄液を塗り
次は布で満遍なく軽く拭き
おしまいに新聞紙で丁寧に力を入れて磨く。

以前はオミガキ用として水田の入り口にひとかたまりの稲が植えられ
刈り取ったら陰干しにして、柔らかい藁をつくる人も居た。
今は金属磨きで遥かに楽だ。

一首は白い軍手と車座の二点を中心に
「も、に、の、て」のテニヲハがうまくつがれて
すきのない歌。

若い頃に聞いた話を。

(問)ツルカメの燭台はツルは千年、カメは万年ということですか。

(答)違う。ツルの脚は長いまま、カメの脚は短いまま。
   その機そのままの救いを表したものです。


先住と手伝い人のやりとりだ。
今はこう話す。
仏具は磨けば磨くほど光る。
私の心は磨けば磨くほど地金が見えると。
ただし、反応はない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鶴の足は長く、亀の足は短い。
鶴の足も亀の足も、それぞれ持って生まれた特性であるから、
尊重されるべきもの。

歎異抄(たんにしょう)のなかにも、同じような言葉があります。

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」。
阿弥陀さまの智慧の光は
すべてを分け隔てなく照らしてくださっているというくだりです。

鶴亀の燭台は、このはたらきを示しているのですね。



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昨日は、梅語りの1日とでも言いましょうか。
梅を使って絹を染める梅染の作家さんの個展を観に行くと、その会場がすごいところでした。すごい、というのは、時間のスケールが違うのです。
「京都ではこの間の戦争というと応仁の乱をさす」とはよく言いますが、実際にそれが当てはまるおうちはそうそうあるものではありません。
でも、そのお宅は応仁の乱以前に建ったもの。
そこで見聞きし、体験したことをここで述べるのは紙幅が足りずにむずかしいのですが、ともあれ

出会いの不思議
ご縁のありがたさ
いのちのつながり
自然の尊さ

を思わずにはいられない、貴重なひとときでした。

私と同行した方は
そこでご縁をいただいた神主さんから
15年前に塩漬けにされた「梅の保存食」を数粒お土産にいただき
大事にもって帰りました。

15年前ですよ。
風味が生きているのです。
何と言うことでしょう。

そんなこんなを父に電話で語っていたところ
父が「梅と言えば、正岡子規の書の中にこんな一節がある」と教えてくれました。

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自分は一つの梅干しを二度にも三度にも食ふ
それでもまだ捨てるのが惜しい
梅干しの核(たね)は幾度吸はうっってもなほ酸味を帯びてゐる
それをはきだめに捨ててしまふというのが如何にも惜しくてたまらぬ

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『仰臥漫録』という書の一節です。

何かについて話していると、いつも父が膨大な書物の一節をすっと思い出すのには今さらながらに驚かされます。
この部分についてある方が父に言ったそうです。

「正岡子規は梅をしゃぶっていると書いているが、それは、一日一日が過ぎて行くのが惜しい。命が惜しい。病中にあって、なおさらにその感を強くしていることの表れではなかろうか」と。「梅を味わうなかに、人生をいただこうとしているのではないか」と。

そして父はこう言います。

「いよいよ動けなくなってからの『仰臥漫録』を読むと、思考は全く衰えていないことがよくわかる。病に冒され、畳一畳のうえで動けなくなってからも、現実を見つめ、表現力がさらに豊かに広がっていることにただただ舌を巻く」と。

言葉を見つめ、その言葉の奥にある書き手の気持ちを見つめることは、そう簡単にはできません。

梅の一節に、命の尊さ、限りあるいのちを生きることの厳しさ、豊かさ・・・ 
彼は、子規が梅を食す、そのくだりに、表現者としてのいのちのほとばしりを読み取っているのです。
それは「健康が幸せ」という一般的な概念ではなく、まさに「生死」と正面から対峙して初めて浮かび上がってくる真実です。

しかし、父が続けて言った言葉に、私はあっさりと共感できました。

「○○ちゃん(若くして亡くなった父の弟)の日記に『●月●日 晴れ』とあった。ああいう記述でも、○○ちゃんが過ごした晴の日はどうだったろうかと思いを馳せる」と。

ああ、ほんとうにそうだ。

サボテンを愛しギターをつま弾いた若き叔父が
「ああ、晴れた。きょうはサボテンが喜ぶだろう」と思いながら窓辺でギターでも軽やかにひいていたのではないかというような想像を、私でさえも多少はします。

父の思いはまたさらに深いことでしょうが、やはり「知っている人」の言葉はそれがたとえ『●月●日 晴れ』であっても共感を伴い、迫って来ます。

正岡子規の書でも同様にそうした背景を読み取るというのは、それだけ文字の命を自分のものにして、読み込んでいるからなのでしょうね。

何度も何度も読むような、ほんとうに行間を味わい尽くすような読み方をできればすばらしい。
改めて、教えられました。

子規が亡くなったのは1902年。今年で100年目。
時空を超えて残せる、伝わる言葉の力は、なんと貴重なことでしょう。

今の日本は極度に寛容性が不足しているので
時に何かミスが露呈した場合
「この人は叩いていいんだ」と思えば
徹底的に皆で打ちのめすような
そんな傾向があります。

そこに見られる、
ののしるような言葉の羅列は
例え正論であっても目を覆うばかりです。

仏教語ではありませんが、

ある本によればそれは「仮想的有能感」と呼ぶそうです。
インターネットでいつの間にか身につけた表現力をもって
「自分は他人に比べて偉い、有能」と
勘違いをするような習慣や
感覚のことです。

そういう場面で、人は少しでも落ち度のある人をみると
簡単に全否定をすることがあります。

心しなくてはいけません。

負のエネルギーにひきずられてよいことは
ひとつもありません。

自分たちの誇りや正義のために
戦うなら別です。

しかし、仮想的有能感による批判の多くは
「ひまつぶし」のように見えないこともありません。

武器にもなり得るのが言葉。
考えて考えて、どうしてもとなれば
その手だてに使えばいい。
ただ、簡単には抜かないほうがいいと思います。

負のエネルギーの拡散は
実にあっという間で
見たくなくても、どこかしら、忍び込んでいくものですから。



参考までに文中の「仮想的有能感」をとりあげている
本をご紹介します。


他人を見下す若者たち (講談社現代新書)/速水 敏彦

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