私たちは「見えない明日」を心配し、不安に思うことがあります。

しかし、本当は「昨日と今日を生きたことが、自分を支える」。

ある貧苦に満ちた日々を送った女性の言葉を紹介しましょう。
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私は貧乏と病気のどん底で生き抜いてきた。私がどのようにしてその悩みを切り抜けて来たのかと質問されれば、私はこう答える。「私は昨日も耐えた。明日も耐えよう。明日どんなことが起きるのか?そんなことは決して気にしてはならない」

私は窮乏、苦闘、不安、失望を知り尽くしてきた。
自分の力の限界上に働き続けねばならなかった。私の人生を振り返ると、それは死んだ夢、破れた希望、くだけた残骸が散乱している戦場だったことに気がつく。
ここで私はいつもふりを承知で戦い、傷ついて血を流し、自分の年よりも老けてしまった。

しかし私は自分を少しもかわいそうだと思わない。過ぎ去った悲しみを嘆きもしないし、私のような目に遭わなかった女性達をうらやむ気持ちも無い。~~~~~~~ 中略~~~~~~~~~
 私は他人に対して多くを期待しないことを学んだので、あまり信頼のおけない友人や、ゴシップを流す知人とも、かなり仲良く付き合っていける。とりわけ私はユーモアを忘れないようにしている。なぜなら、世の中のおおくのことがらは、泣くか笑うかしかないからだ。~~~~~~~ 中略~~~~~~~~~

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ドロシー・ディックスは、いわば「今日1日の枠の中で」生きることによって悩みを克服しました。
すばらしい。
今日が辛くても、賢明に生きた。そのことに誇りを持っている,人としての強さがにじみ出ています。


出典はD.カーネギーの書です。

道は開ける (HD双書 (2))/D・カーネギー

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自分に甘く、人にも甘く。
私のことです。

しかしなぜだか最近
「他者に厳しい人」が多いなあと感じます。

あるワークショップで
相手の話したことを何段階かで評価するというのが
ありました。

講師さんが
「甘く、あま~くつけてください」と言われたので

仮に5段階とするなら
私はグループの方に、ほとんどを5か4で
悪くても3が1つあるとか、
そんな感じでつけました。

でも、結果はどうかというと
私以外のほとんどの方が
他者に対して「3がほとんどで、4がすこし、2が少し」という
採点でした。
それって、甘い?

その中の一人は「私他人に厳しいんです」と笑顔で。

もしかしたら
他者軽視により、自己肯定感を高めているように
思えないでもありません。

そんな意図は無いにしても
おそらくは無意識に。

けれど、抜きん出る人は
「まず、相手を認める」人です。

相手を認める?
どうやって?
簡単にそれができれば苦労しないという方も
いらっしゃるかもしれません。

そんな時はこの本をお薦めします。

みとめの3原則 - 人間関係にも業績アップにも効く「1日たったひと言」の仕事術/木戸 一敏

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勝ち組負け組という言葉が出回ってから久しい。
不安定な世の中で、指針を見失いがちだけれど
ひょっとして自分をとりつくろうことに
夢中になってはいないか?

そう感じるときがあります。

例えば【自分ブランド】という概念でも
そのような危惧を持ちます。

日本でのインターネット草創期は
1995-1999年頃。
その頃はまだネットに精通した一部の人が
先行者利益を得ていた時代です。

今は、ブログやツイッターなどで
誰もが自己表現をできる。

そこで【自分ブランド】ということが
問題になってくるのです。

正しいブランディングをしてほしい。
そんな意味からも今月初めに、
ブランディングに役立つ話を聴けるセミナーを
講師2人をお招きし、
京都で開きました。
大変有意義な時間でした。

皆が本当に突き詰めて
「自分とは何か」を向き合いました。

しかし、とりわけインターネットの社会では
時に「自分ブランド」で
はりぼてのようになってしまっている例を
見かけないではありません。

直接会わない限り
そこにある情報がすべて。
レピュテーション(評判)が物を言うので

情報をうまく構築できた人が有利です。

たとえ、その道30年でも
全くアナログでのみ活動している人と
ここ3年ほど修行して出てきた新人さんとでも
ひょっとしたら
新人の方が有名になってしまうことも
十分あり得る話です。

そんなとき、実力が伴うならいいのですが
あちこちからかきあつめた情報を
くっつけただけのものだったり
無理矢理こしらえた人脈からの
推薦文の羅列であったりすると
結局、後で自分自身が
大変な思いをすることになってしまいます。

またもうひとつの問題として
仮に実力が伴ったとして、
急激に著名になった人の中には
誹謗中傷を受けて、
信頼ががたがたになってしまうこともあります。

せっかくの木造のいい船が
はりぼてで沈んでしまってはいけませんね。



自分ブランド。

強い個をつくるには必要なことです。
こんな小さな私でも
多少は意識して表現しています。

そうしなくては
支援すべき人を助けることができないし
社会的意義があると感じたことでも
声が小さくては伝えることが出来ないから。

だから
ていねいに、見つめましょう。

足もとを見つめながら、
組み立てていきましょう。

自分は何ができるのか。
社会に何を貢献できるのか。
そのアイデアは真に価値があるのか。
望まれていることか。
良いパフォーマンスを提供できるか。

分かりやすく端的に。
思いを込めて、伝わるように。
相手が知りたいことは何だろうと
相手の立場で考えながら。。

無理なく身の丈にあった
しかし
自分にしか出来ない価値を
表現していきましょう。

 仏道に励む人を外から見ると、常に自己を律している、いかにも高尚な人であるように感じられるかもしれません。
 しかし、親鸞は妻子とともに生きる自分の生涯は、いかに賢そうに取り繕ってみても、人間としての煩悩や業と離れることはできないと「愚」を自覚しました。

 はじめ、親鸞が法然に出逢ったとき、法然はすでに多くの人から高い尊敬の念をもたれていたのにも関わらず、「愚痴の法然房」と自称していました。だからこそ、念仏に励んだのです。その教えが、聖典にこう書かれています。

「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能く学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同じくして、智者のふるまいをせずして、只一こうに念仏すべし。」(一枚起請文・聖典九六二)
 そして「浄土宗の人は愚者になりて往生す。」と言いました。いくら仏道に励み、教典を理解しても、賢者のふりをせず、ひたすらに念仏をするようにと、説いたのです。

 親鸞は、後に「承元の法難」という迫害にあい、越後の国府に配流の身となります。そこは酷寒の地。耕す大地も、背丈の程の雪に埋もれた厳しい土地。にも関わらず、生きていかなければならない。自己を見つめ、ひたすらに念仏しながら、親鸞は「凡愚」の身であると自らうなずいたのです。
「賢者の信を聞きて、愚禿(ぐとく)が心(しん)を顕す。
 賢者の信は、内は賢にして外(げ)は愚なり。
 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。」(愚禿鈔)

 自分の愚かさを徹底して知った親鸞は「愚禿釈親鸞」と名乗ります。学んでも求めて、いえ、学んで求めるからこそ、余計に自分の「愚」に気づく。それが道を求めるということなのでしょうね。
「ご機嫌ななめ」「機嫌をうかがう」とよく言います。何やら人の顔色ばかり気にしているような漢字の言葉ですが、これも仏教語です。

 もともとは譏り(そしり)という字を使って「譏嫌(きげん)」と書きました。世間のお布施で生活している仏門においては、衣食住などで贅沢をすることは、ひんしゅくを買うことでした。もしも、お布施で贅沢三昧するような僧侶がいたら、仏門の危機になることさえあります。
 そこで戒律が課せられたのです。金銀を貯蓄しない、贅沢をしないという「遮戒」です。仏弟子がちゃんと仏道に励むことができるようにという、配慮から生まれた戒律です。
 
 戒律を定めて、譏りを避ける。さらには、あらかじめどのような行為が非難を受けたりするのか、世の動向や機(タイミング)を事前に知っておけば、譏りを受けるような誤りもないだろうと考えられるようになりました。
 それが「機嫌」の本来の意味です。やがて、そこから他人の心をうかがう意味や、安否を気遣う意味に変化していきました。

 世のタイミングを見計らって、自己を律し、慎ましく生きる本来の「機嫌」。相手の顔色をうかがい、良い評価を下してもらいたいがために贈り物や言葉を使う「ご機嫌」。ビアガーデンの季節。飲み会などで上司や先輩の「ご機嫌」を損ねないようにと,飲めもしないお酒を無理に飲もうとして悪酔いし、かえって「譏嫌」を受けるようなことがあれば本末転倒ですね。
ご機嫌とりは、ほどほどに、真の「機嫌」を旨とした慎み深い日々を過ごしたいものです。