「はあ~、極楽極楽」。温泉に入って日本酒でも飲みながらのんびりしていたら、つい口をついて出そうな言葉です。
「極楽という場所は、働かなくてもおいしい食べ物が出てきて、それを長いお箸で相手に食べさせて助け合いながら幸せに過ごす場所。きれいな音楽が流れて来て、暑くも寒くもなく……」まるで竜宮城のように、人間の欲望が全て満たされた場所だと思っている人がいるかもしれません。そして、生前にいい行いをした人だけが、えんま様の裁きを受けて、極楽に行ける…と。

 地獄と対にして、「地獄と極楽」などとも表しますね。子供の頃から「悪事を働けば地獄に堕ち、善いことを行えば極楽に行く。地獄は阿鼻叫喚のそれはおぞましい責め苦が待ち受け、極楽では全て満ち足りている」と言われてきた私たちにとって、「地獄と極楽」は道徳観を植え付けるには多少役立っていると言えます。
 ところが本来の極楽は、単に欲望を満足させるための場所ではないのです。極楽に行かずとも、この現世でそうした欲望の世界に、すでに私たちは暮らしているではありませんか。「極楽様、極楽様。ああ、いい気持ち、裕福で満足で」と、自分だけの世界に生きていて、他を顧みないようなことがもしもあるとしたら、それこそが極楽ではなく地獄に生きていることにもなりかねません。

 真の「極楽」とは正確に言えば、「極楽浄土」のことで、清浄な精神が拓く世界を示します。『阿弥陀経』の前半には、この極楽のことが説かれています。
「これより西方に十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう」(聖典一二六)

 つまり極楽とは、太陽の沈む方角で、全ての物が帰る世界が開かれた場所なのです。人がその生涯を尽くして帰って行く阿弥陀仏の世界。「過十万億仏土」と呼ばれる、命のふるさと。そこまで行く過程には、生涯を通じて自分や他人や社会に想いをはせ、欲望とは離れた心のはたらきで、問いかけ続ける必要があるのです
 業を煮やす。業が深い。こうした用途からイメージする「業」は、しばしば、ある結果を生む善悪の原因として語られます。
 ときに「業」を悪業、罪とだけ断片的に捉えた場合、本来進むべき道を誤ることにもつながります。宗教によっては「カルマ」とも呼ばれ、今ある全ての結果を「カルマを落とさなければ、未来はない」とまで思い込み、浄財をつぎ込む人までいます。そういう人は何か悪いことが起こっても「自分の業のせいだからしかたがない」とあきらめてしまいます。そして「この悪業、罪をなんとかして振り払わねば」と深みにはまってしまいます。

 しかし、仏教における「業」は、単純にカルマや罪と一言では言い表すことはできません。その本質は「身・口・意」が引き起こす「身業(身体的行為)・口業(言語的行為)・思巳業(しいぎょう・精神的行為)」の働きにまで及ぶのです。

 例えば仕事で失敗したら、それは自分の意志が弱かったり、言動が影響していたり、あるいは足を運ぶ努力が足りなかったりといういろいろな理由があります。それを「努力が足りなかった、次はがんばろう」とか「言葉足らずで契約を逃した。次は相手の立場になって説明しよう」と反省して、次につなぐことが大事なのです。
 それなのに「何をやってもうまくいかない。これは悪業のせいだ」とまで考えるのは、あきらかに行き過ぎです。
 社会、先生、家庭のせいにして、責任転嫁をしてもうまくいきません。「自業自得」の言葉も、ちゃんと根っこから捉えれば、自分の「身・口・意」の不足だと真理に気づき、新たな展開への糸口を探るための言葉だと分かるでしょう。
 一度試験に落ちたり、仕事で失敗したりしても、それが未来永劫続くわけではありません。逆に、成功した体験でおごり高ぶるようなことがあれば、良い未来にはつながりません。
 無用な運命論にとらわれる必要はありません。自分の意思と言葉と行動で、明日を切り拓いていきましょう。
「まあ、下品(げひん)な人ね。それに比べて、あの人は上品(じょうひん)ね」などと、「品」に上下を付けて私たちは、人の品性を評価します。言葉づかい、立ち居振る舞い…全てにおいて、上品で見られようと心がけます。

 仏道では「下品」を「げぼん」、「上品」を「じょうぼん」と読みます。そして、上下と来たら…はい、お察しのように、その真ん中に「中品(ちゅうぼん)」があります。これは『観無量寿経』という書物に出てくる「九品往生(くほんおうじょう)」の教えからきている言葉です。
 生前の行いから人間を「上品・中品・下品(じょうぼん・ちゅうぼん・げぼん)」の三つに分け、それぞれをさらに往生の段階があるとしました。例えば「上品」は「上品上生・上品中生・上品下生(じょうぼんじょうしょう・じょうぼんちゅうしょう・じょうぼんげしょう)の三つに分かれ、中品・下品も同様に分かれ、全部で「九品」の往生の段階があります。一見すると、九段階の優劣と見えないではありません。

 この説を「苦悩する凡夫のためのもの」として解釈したのが善導です。善導は、人間全体を凡夫として捉えました。九品の往生の差は、人の優劣ではなく、出遇った縁による生き方によると解釈したのです。
 大乗の教えに出遇った人、小乗の教えに出遇った人、仏道によらない世間善に出遇った人、悪い縁にしか出遇えなかった人の違いで、すべての人が凡夫であると「九品唯凡」を説きました。
 そして、一生の間に悪縁にしか出遇えなかったために、ひとつの善も行わず悪を重ね、悔い改めることもない「下品下生(げぼんげしょう)」の人をこそ救うのが仏教であるとしたのです。

 上品か、下品か。うわべで人を見ることなく、全ての人は凡夫であると謙虚に暮らしたいものです。そして、機縁に出遇えたならそのことに感謝する日々を送りたいものです。
 最近はどの家もほとんどがサッシ戸です。京都だとたまに町家などで、木枠で薄い窓ガラスのはいった様子を見かけるのですが、現代住宅では建具がガタピシ言うなんてことは少なくなりましたね。
 それでもふすまなどは滑りが悪いと、そんなこともあるでしょうか。うまく滑らないふすまを、コツを使ってスイッと開けられたらちょっとうれしくて。

 人間関係でも、ガタピシ音がすることはありませんか?そもそも、ガタピシは、仏教語の「我他彼此」からきています。「我他彼此見(がたぴしのけん)と言えば「自分と他者を区別する見解」を持つこと。これは、ちょっと困ったことになるのですね。だって、仏教ではなるべく「無我」を良しとして、我執から離れたほうがよいとされていますから。それなのに、「我他彼此」は我と他、彼と此で二者が対立して音を立てて、かみ合わない。

 そんな時はどうしましょうか。自分と他者を区別しないようにするといいのでしょうか。でもやっぱりしてしまいますよねえ。聖人君子ではありませんから。だったら、自分と他人、違っていて当たり前。違いがあるからすばらしい。そう認めればいいのではないでしょうか。そしたら、ガタピシの音も段々小さくなってきて、やがて心地よいBGMになるかもしれません。
 日常語の「覚悟」は心構えや、あきらめを意味します。
「覚悟はありますか」と聞かれると、私など小心者ですからとてもドキドキします。いい年をして、まさか覚悟もないだなんて、ほんとうに答えに窮します。
けれど、仏教で言う「覚悟」はなおさら「はい、あります」などと簡単には口にできません。本来の意味は「心理を体得してさとりを得る」ということなのですから。「覚」は「さとりの智慧」という意味で、仏教ではよく使われます。単に覚えている、という記憶のことを示すわけではありません。「覚者」は「さとりに達した人」すなわちブッダでしょう。迷いの眠りから目覚めた人のことです。「悟」も、文字通り「さとり」を意味しますから、「さとり」を二つ重ねた「覚悟」は何とまあゆるぎない言葉なのでしょう。

 そう考えれば「覚悟がある」など、もうやすやすと口にできないとさえ、思えますね。一生のうちに晩年くらいに持てればいいのではないかしら。そんな風にのんびりのんびりと過ごすほうがよいのではないかしら。
 覚悟のないあなた。いいじゃありませんか。私も同じです。いつか持てるようになるまで、ゆっくりじっくり人としての学びを楽しみながらいきましょう。