「カルロス・クライバーとの30年」(朝日カルチャーオンライン講座) | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

3月に聴いた朝日カルチャーオンライン講座の話題です。

記事はずいぶん前に書いたものの、アップするのを忘れてました~あせる

リアルタイムでは聴けなかったので、アーカイブ配信動画で聴きました。

 

タイトルは、「マエストロ、ようこそ ~ カルロス・クライバーとの30年」

講師は 広渡 勲氏です。

 

広渡 勲(1940~)

(画像は朝日カルチャーセンター新宿教室のHPよりお借りしました)

 

広渡氏は、クラシックやオペラ、バレエなど日本の舞台芸術をリードしてきた音楽プロデューサーで演出家。 で、なんと福岡市のご出身ひらめき電球なんですね~チュー 市内の名門、修猷館(しゅうゆうかん)高校卒業後、早稲田大へ進学。大学2年生の時に舞台監督助手のアルバイトをきっかけに舞台の魅力を知ったそうです。
卒業後は東宝演劇部や日本舞台芸術振興会(NBS)でウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、英国ロイヤル・オペラなど数多くの公演を手掛け、世界中の著名な指揮者やオペラ歌手、演奏家などと非常に幅広く交流しました。2002年にNBSを退社。 

2014年からは「NCB音楽祭」(西日本シティ銀行と福岡文化財団共催)の総監督を務め、福岡での活動もされているそうです。

現在80歳の広渡氏が、初のエッセイ集「マエストロ、ようこそ」を刊行し、その出版記念講演が今回の講座でした。

広渡 勲著 「マエストロ、ようこそ」(音楽之友社)

 

これは月刊誌「音楽の友」に連載されていたもので、世界的な指揮者たちの素顔などを紹介したものですが、この第1章に広渡氏が最も親交が深かったともいえる指揮者カルロス・クライバーとのことが書いてあります。私もブロ友さまからこの本のことを教えていただき、購入後にクライバーの章だけはすぐに読みました。

 

カルロス・クライバーについては、彼の命日の7月13日に記事にしています下差し

 

 

 

まず、講演内容ですが、大体が本の中に書いてある内容と同じでした。

なので、内容的には目新しいことはほぼなかったのはちょっと残念ではありましたが、長年クライバーと親友といえるほど親しくしていた広渡氏自身のお話を実際に聴けたことはとてもよかったです。

 

以下は本に書いてあることも多いですが、興味深い話がたくさんです。

クライバーの来日順にその際のエピソードとともにお話されていました。

 

① 1974年(クライバー44歳) ミュンヘン・オペラの来日公演で初めてクライバーと出会う。

 

この際の来日記者会見でクライバーは最初で最後の記者会見に登場するも、当時は日本では名前もあまり知られておらず、記者会見の場でもクライバーは端っこに座って質問もほとんどなかった。

唯一、批評家のおひとりがクライバーへ「あなたはオペラ以外も振ることがありますか?」と聞くと、クライバーは「たまにね」と一言答えたそう。

 

9月24日の東京文化会館での「ばらの騎士」初日の開演直前に爆破予告の電話 びっくり があり(その約1ヶ月前に丸の内の三菱重工爆破事件があった)、開演後まもなく幕を下ろし出演者は避難した。 広渡氏はクライバーの楽屋に行って謝罪、この時初めて言葉を交わしたがクライバーはクスクス笑っていたそう。

 

 

② 1981年(クライバー51歳) ミラノ・スカラ座の引っ越し公演で2度目の来日。

 

クライバーは「オテロ」、「ボエーム」を振ったが、ドミンゴが出演する「オテロ」が最大の呼び物だった。

しかし超多忙のドミンゴはスケジュールの都合で当日ぶっつけ本番でないと出演できないとのこと。

クライバーはそれでもよしとし、舞台稽古はドミンゴなしで行われた。

クライバーは、稽古のときは指揮しながらオテロのパートを全部暗譜で歌っていた。広渡氏はそれに非常に感激したそう。

 

 

③ 1986年(クライバー55歳) バイエルン国立歌劇場管弦楽団を率いて3度目の来日。

 

この時はオペラではなくコンサートツアーのみ。前2回のオペラでの来日と違い、広渡氏はクライバーと一緒に過ごす時間が多く個人的なつながりが深まった。

人見記念講堂でのトラブル: ここの指揮台は手すりがないのに本番2時間前に気付いた。クライバーはよく手すりを片手で持ちながら指揮をするので、広渡氏は急遽東京文化会館のなじみのスタッフに電話して、(正式な手続きを経ずに)こっそり手すりつき指揮台を借してもらった。

 

この公演ではベートーヴェンの交響曲第4番と第7番、アンコールでは「こうもり」序曲と「雷鳴と電光」が演奏されたが、アンコール前にクライバーが広渡氏に(曲名を)日本語でなんていうの?なんていうの?と尋ねるので、「コウモリジョキョク」と教えたら、何度もそれをつぶやいて、舞台に出たら「コウモリ!」。次のアンコールも日本語を教えて~というので、「ポルカ、ライメイトイナヅマ」と教えたら、何度もそれをつぶやきながら舞台へ出て行ったが、いざ言うとなると「ライメイトイナヅマ」がふっとんだのか、「ポルカ!」とだけ言ったそうw

 

この時の映像が残っていますので載せます。アンコールの2曲目の「雷鳴と電光」です。

 

J.シュトラウス2世:ポルカ「雷鳴と電光」 Op.324  (3分21秒)

/ カルロス・クライバー&バイエルン国立歌劇場管  (1986年 人見記念講堂

 

クライバーが寄りかかっている指揮台は東京文化会館のものだったんですね~にやり

振り終わったあとのクライバーのニカッ!にひひとした笑顔がとってもチャーミングですラブラブ

 

この来日時はちょうどパリ・オペラ座のバレエ団の公演もあっており、広渡氏はクライバーをその歓迎パーティにも連れて行ったことがあるそうですが、クライバーはあっという間にエトワールたちに囲まれました。

するとクライバーは流暢なフランス語でバレリーナたちと歓談したそうです。奥様が元バレリーナでもあったし、修業時代にバレエの練習ピアニストもしていたこともありますが、彼がバレエにも非常に精通していることを知って広渡氏はとても驚いたそうです。

 

 

④ 1988年(クライバー57歳) 第2回ミラノ・スカラ座の来日公演

(このときの話は本の120~134ページに詳しく書いてあります)

 

この来日公演ではクライバーが「ボエーム」を振る他、ムーティやマゼールが振る予定でした。クライバーの公演のチケットは2分で完売するほどの人気でしたが、クライバーはミラノ・スカラ座と揉めて、日本公演とその前のミラノ公演をキャンセルすると通告してきました。

何とか説得しようとするもミュンヘンの自宅の電話にも出なくなり、NBSは倒産の危機に。

そこでクライバーと個人的なつながりがある広渡氏に説得の白羽の矢が立ち、広渡氏はちょうど出向く予定だったウィーンとパリへ行ったあとにクライバーがMETを振っていたニューヨークへと会いに行きました。

 

ニューヨークのホテル日航の和食レストランで再会した広渡氏に、クライバーはミラノ・スカラ座に対する不満をぶちまけましたが、日本公演を行うことはやぶさかではないことを感じ取った広渡氏はミラノ公演はキャンセルしても日本公演だけはやってほしいと頼み込みました。ただし歌手のキャスティングが問題です。

ミミ役のフレーニとロドルフォ役のドヴォルスキーは何度もやっているのでぶっつけ本番で、マルチェッロとムゼッタ役についてはMETで共演中のジョナサン・サマーズとバーバラ・ダニエルを使うことを提案、クライバーの承諾をなんとか取り付けました。

ただここからがさらに大変。ダニエルは「クライバーなら喜んで」と予定をキャンセルして来日をOKしてくれましたが、サマーズはハイティンク指揮で英国ロイヤル・オペラで「シモン・ボッカネグラ」のタイトルロールを歌うことになっていたため、クライバーと仲の良かったハイティンク側に脅し同様で(?)頼み込み、これもなんとか了承をもらいました。

 

そうして広渡氏はクライバーと正式な契約を交わすために、ミラノからミュンヘンへ向かうのですが、運悪く悪天候のためクライバーとの約束の時間に間に合わなくなってしまいました。 激怒するクライバーを想像しながら、意気消沈してとりあえずミュンヘンの約束していたホテルに行くと、約束した時間から4時間を過ぎていたのにクライバーはホテルの玄関のベンチに座っていたのだそうです。

そして「飛行機の事情だから仕方ないよ。はい、これは君へのお土産」と言って、日本語のバイエルンの観光ビデオを渡してくれました。 広渡氏は嗚咽して泣いたそうです。 

 

こうしてなんとかクライバーは来日したわけですが、この来日時には色々とエピソードがあったようです。

・ ロバ事件

大阪公演での「ボエーム」の第4幕、瀕死のミミが切々と歌っていた最中に、第2幕で登場したロバが移動させていた地下で鳴き始め、その鳴き声が奈落から聴こえてきたそう。 真っ青になった広渡氏は、終演後即座にクライバーに謝罪に行ったところ、クライバーは「今日は二人目のテノールがいたね!」と。

ミミ役のフレーニもロバの鳴き声に噴き出しそうになったそうですが、クライバーを見ると、彼も口に手を当てて笑いをこらえながら指揮していたそうです。

 

・  マゼールとのディナー

この来日公演ではロリン・マゼールも「トゥーランドット」を振っていましたが、東京公演の最中にマゼールがクライバーにディナーへの招待を申し入れてきたそうです。マゼールはクライバーと差しで話したがっており、広渡氏も同席はしなかったそう。 マゼールはクライバーにベルリン・フィルに興味があるかどうかを聴いてきたそうです。(当時ベルリン・フィルはカラヤンの後継者問題が浮上していた) クライバーが「全く興味ないよ」というと、マゼールは上機嫌となり、翌年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを振る予定だったクライバーに色々とアドバイスをしてくれて、クライバーは広渡氏に「有意義なディナーだった」と語ったそうです。

 

・  ゼッフィレリ初来日

この来日公演で「ボエーム」や「トゥーランドット」の演出を手掛けた、大演出家のフランコ・ゼッフィレリが初来日し、歓迎の気持ちを伝えたかった広渡氏は、なんとクライバーの名前を拝借してホテルの彼の部屋に花を贈りました。 当時、クライバーとゼッフィレリは絶縁状態にありました(オペラ映画「オテロ」をめぐってクライバーが怒って降板してしまった。マゼールが代役を務めた)。 ただ、この花に感激したゼッフィレリは、クライバーに電話して「グラッツェ、グラッツェ!」を連発したあげくランチを強引に誘ってきたのです。 びっくりしたクライバーは、広渡氏に「お前何をした!」と電話で叫んだそうw

ただ、このランチで二人は旧交を温め、ゼッフィレリの要望でクライバーは翌年METで「椿姫」を振りました。(しかし主役のグルベローヴァは酷評され1回の上演のみで降りてしまい、代役の歌手に今度はクライバーが怒って降板してしまったらしい)

 

・  ムーティの舞台稽古

この来日公演では、若きムーティも「ナブッコ」などを振っていましたが、クライバーに至上の敬意をことあるごとに示していたムーティは、クライバーを昼食に招いた際に大阪フェスティバルホールでの舞台稽古を見に来て欲しいと頼みました。 普通は他人の舞台稽古などは絶対観に行かないクライバーでしたが、広渡氏と一緒に見学に行ったそうです。

 

 

⑤ 1992年(クライバー61歳) 幻のウィーン・フィル日本公演事件

 

この年の3月にウィーン・フィル創立150周年記念ニューイヤー・コンサートの来日公演をクライバーが指揮することになっており、広渡氏は個人マネージャーのいないマエストロのために他の仕事を入れず準備万端整えていたところ、来日4日前に電話があり「やめた」と言われたそうです。

元々この来日公演に先立って、2回のパリ公演が予定されていましたが、彼はパリでの仕事を鬼門のように嫌がっていたそうです。 パリ公演を病気を理由にキャンセルしたところ、アメリカのエージェントが病気が本当かどうか、ミュンヘンのクライバーの主治医にたびたび電話をかけたそうで、それを主治医から聞いたクライバーが激怒、エージェントと大喧嘩となってドタキャンとなったのです。

広渡氏はこの話を聞きながら、マネージャーがいない故にこういうトラブルが多々ある彼が心配で、「彼の個人秘書になってもいいかな」と思い始めたそうです。

ちなみにこの来日公演はシノーポリが代役を務めました。

 

しかし、2年後の「ばらの騎士」の打ち合わせを兼ねて、この年の10月にクライバーはお忍びで来日、2週間近くかけて箱根、京都、鹿児島、阿蘇を巡ったそうです。接待役はもちろん広渡氏でした。

 

そしてこの帰りにハプニングが起きます。成田空港からルフトハンザ航空でミュンヘンへ帰る予定だったクライバー。 成田空港まで見送りに行った広渡氏でしたが、なんと同じフライトにチェリビダッケが乗ることが分かりました。(たまたまミュンヘン・フィルも来日ツアーをしていてその帰りが同じ便になったのです)

 

それより以前に、チェリビダッケがカラヤンのことを非難した時にクライバーは”天国のトスカニーニ”というペンネームで、しかもそれがクライバーが書いたとわかるような内容でチェリビダッケを批判する投稿を新聞に投稿したことがあり、チェリビダッケはきっと怒っているとクライバーは思ったのでしょう、一緒のフライトに乗るのは嫌だ!と言い出しました。

ただチェリビダッケとクライバーの席は同じファーストクラスでも離れていたので、広渡氏はクライバーに「トイレを我慢すればチェリビダッケと顔を合わせなくて済みます」と言って、同じフライトに乗せたのでした。

 

蓋を開けると、チェリビダッケはクライバーに気付いて、クライバーの隣の席に座り、フライト中はずっとしゃべって過ごしたそうで、クライバーも「あんなにいい奴だとは思わなかった」と話していたそうです。

(講座では、この時のクライバーとチェリビダッケが話し込んでいる様子の動画が流れました。すごい貴重な映像ですねビックリマーク

そしてエコノミークラスに座っていたミュンヘン・フィルの団員たちも代わる代わるクライバーの席までやってきて次々に記念写真を撮っていったとか。

チェリビダッケは、クライバーにミュンヘン・フィルも振りに来てくれるよう要望したそうですが、結局それは実現には至りませんでした。

 

 

⑥ 1994年(クライバー63歳)  ウィーン・フィルとの「ばらの騎士」公演

 

当時のクライバーはウィーン国立歌劇場のホレンダー総裁ともうまくいっておらず、歌劇場との関係はギクシャクしていました。

来日公演を実現させるためには、まず来日前のウィーン公演を実現させないといけない、しかし彼には個人マネージャーがいない。 ウィーン側は、広渡氏にウィーン公演の調整もすべて「全権委任」してきました。広渡氏はキャスティングから稽古のスケジュールまですべて段取りして、ウィーンでの初日があけるまで、ウィーンとミュンヘンのクライバーの自宅を何度も行き来したそうです。

そしてついに来日公演の契約書にサインをもらいましたが、元々契約書が嫌いでサインもしないことは有名でした。説得してやっとクライバーは2通サインしてくれましたが、通常は自分の控え用に1枚もらうところを「いらない」と言って、2通とも返してきたそうです。

 

このあと「ばらの騎士」」の高額な著作権料をめぐって民事裁判が起こされるのですがそれについてのお話はありませんでした(詳しくは本の162頁に書いてあります)。

 

こうして伝説となる「ばらの騎士」の日本公演が実現したわけですが、公演の間も色々あったようです。

18時半開演なのに、渋滞に巻き込まれ、25分前というギリギリになって到着した、とか、5日目の公演後にカーテンコールを終えたクライバーはそのまま楽屋に入って中からカギをかけて閉じこもってしまったとか。

(1時間後にようやくカギをあけて出てきた彼をホテルに送ろうとすると、今度は熱烈ファンの追っかけタクシーとのカーチェイスになったとか) そのあと広渡氏は強引にクライバーを誘って食事をし、ご機嫌斜めの原因は当日の打楽器奏者の演奏の不出来だったそう。(だからといって楽屋に引きこもらなくても・・・汗

 

その翌々日の最終公演の日、公演前にはクライバーは「あいつら(オケのこと)勝手にやりたいようにやればいい!こっちもやりたいようにやる!}などと息巻いていたそうですが、実際の公演では奇跡的な名演となり、クライバーは最終場面で涙ぐんでいたそうです。

これが結局クライバーの生涯最後のオペラ指揮となってしまいました。

 

そして、いつもなら、ライブの録音は絶対に許可しないクライバーですが、「この日の録音を持ってる人はいないかな」と言っていたそう。そしてファンクラブ?か何かの人から隠し録りした音源を手に入れたのだとか。

 

この年はこの公演以外にもたくさんの公演があり、広渡氏は超過密スケジュールだったそうで、ウィーン国立歌劇場の公演中に体調不良を覚え、何度か嘔吐したそうです。

クライバーを見送ったあと病院で検査を受けると、胃潰瘍と胃癌の中間で胃に穴があいていて重度の貧血とのこと。則入院して輸血して、手術で胃の3分の2を切除したそうです。

クライバーにはこのことを秘密にするよう厳命していたそうですが、電話やFAXしてもつながらないのを不審に思ったクライバーがNBSの職員を怒鳴りつけ、入院先の病院に電話してきたのだそう。

それ以来、毎週日曜の18時きっかりにクライバーから容体を気遣う電話がかかってきたそうです。それは退院するまで続いたそう。

広渡氏は、失った胃の3分の2は、こんなに素晴らしい公演ができた幸運をもたらしてくれた神様への”貢ぎ物”だと思ったそうです。

 

 

⑦ 1996年(クライバー65歳)  お忍びで最後の来日

 

この年の11月14日~12月2日に2度目のお忍びで来日、これがクライバー最後の来日となりました。

この時は京都、箱根、沖縄などを回ったそうです。

当時構想していた英国ロイヤル・オペラの次期来日公演の指揮をクライバーに打診しましたが、クライバーが気に入る歌手がおらず、結局は実現とはなりませんでした。

この来日の時、広渡氏と酒を酌み交わしながら、クライバーは父、エーリヒ・クライバーの思い出についても語っていたといいます。

 

 

⑧ 晩年~死去
広渡氏は、1997年6月19日のラヴェンナ音楽祭でのバイエルン州立歌劇場管を指揮したとき、そして1999年にカナリア諸島のバレンシア、サルデーニャ島で生涯最後の指揮(バイエルン放送響)をしたときの演奏会に招かれたそうです。

 

2003年11月に広渡氏がミュンヘンへ行ったとき、いつものクライバーの自宅ではなくレストランでランチ。2日後も同じレストランでランチ。

ところが翌年の2004年の年明け早々にムーティから電話で、12月17日にクライバー夫人のズデンカさんが亡くなったことを聞かされます。

仕事でヨーロッパへ行った広渡氏は、2004年4月1日にクライバーに電話をかけ、お寿司を持って強引に自宅へ押しかけましたが、頬がそげて憔悴しきったクライバーを見てショックを受けたそうです。

娘のリリアンさんらと一緒に食事後に居間でズデンカ夫人の遺影を見つけた広渡氏が、持っていたお香に火を点け手を合わせると、クライバーが全身を震わせながら号泣したそうです。
これが広渡氏がクライバーと会った最後の日となりました。

 

この3か月後の7月3日のクライバーの74歳の誕生日に広渡氏はいつものように花を贈りましたが、いつもならすぐ返事がくるところがこない。その3日後にFAXがきました。

 

そして7月19日にウィーン・フィルのメンバー経由で連絡、グルベローヴァからも連絡があり、クライバーが亡くなったと。 広渡氏はすぐにミュンヘンのクライバー宅に電話をかけましたが、娘のリリアンさんが出て、「父は今スロヴェニアへ行っている」と言われたそうですが、何だか口調が変。 数分後にまた彼女から電話があり、「嘘をいってしまってごめんなさい。」と詫び、クライバーが7月13日にスロヴェニアのコンシチャの別荘で亡くなったことを告げられたそうです。

 

同年8月に広渡氏はクライバーの眠るコンシチャへと訪れお墓参りをしたそうです。

昨年はクライバーの17回忌で、本当は再びお墓参りに行く予定だったそうですが、新型コロナで行くことができなかったそうです。

 

広渡氏は今年80歳。 9年後の2030年はクライバーの生誕100周年で、それを目標に生きていきたい!とおっしゃっていました。

生前、クライバーは「ヴォツェック」や「エレクトラ」を振ってみたいと言っていたそう。

 

 

簡単に書くつもりが、思いがけず長くなってしまいましたあせる

 

広渡氏の講座を実際に聴くまでは、クライバーと親しかったのを自慢気に話されるといやだなぁ、などと思っていましたが、話を拝聴しているうちに、クライバーや多くのマエストロたちが彼に心を許した理由がわかったような気がしました。

飾らない、しかも全然ふんぞり返ってない、むしろどこか愛嬌ある広渡さんの話っぷりにはきっと往年の大御所たちがみんな魅了されたのだと思います。

”ミスター・スピーディー”と呼ばれていた広渡さんも、話し方に幾分お年を感じさせるところもありましたが、これからも益々お元気で活躍していただきたいです。

 

広渡氏はクライバーのことを、「仏を作って魂を入れる」仏師のよう、と最初におっしゃっていましたがまさに言い得て妙だなと思いました。

 

 

”Never try to make a music ! ” (Carlos Kleiber : 1930-2004)