9月16日 ~ ”永遠のディーヴァ” マリア・カラス 死す | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?お月見 

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はすべてwebからお借りしました)

 

今日、9月16日は・・・伝説の歌姫 「マリア・カラスの命日」 です。

 

Maria Callas : 1923.12.2-1977.9.16; ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手

 

オペラはおろか、クラシックにもまったく関わり合いのなかった小さい頃の私でさえ、「マリア・カラス」という名前だけ(顔は知らなかったけど)は知っていました。おそらく、「カラス」っていう名前が を連想させてインパクトがあったからだけだと思われますにやり

 

ちょうど一昨年の年末の彼女のドキュメンタリー映画を観ました下差し

 

 

私は彼女のことをほとんど何も知らずにこの映画を観ましたが、本当に面白くて深い感銘を受けました。 この記事の中で彼女の生涯については大体書いていますので今日は省きます。

 

今回は映画の中であまり触れられていなかったことなどを書いてみたいと思います。

 

 

1923年12月2日にギリシャ系移民の子としてニューヨークで次女として生まれたマリア・カラスでしたが、母親のエヴァンゲリアは生後しばらく母の腕に抱かれることはなかったといいます。

母は、マリアの兄にあたる息子を3歳で亡くした後の妊娠だったこともあり、生まれてくる子は男の子と信じていたため、マリアが生まれた時は素直に喜べず出生届も期限が過ぎてから提出したそうです。

世界恐慌の影響もあり、彼女が幼かった頃の一家はとても貧しく、母親はふたりの娘たちにゴミ箱を漁ることまで命じたといいます。

 

幼い頃のマリア・カラス

 

母親の愛情は長女のジャッキーに集中し、幼いころのマリアは顧みられることはありませんでした。ただ、野心的だった母は、当時天才子役として大活躍していたシャーリー・テンプルのように娘たちを芸能の道で成功させることを夢見て、姉にはピアノを、マリアには声楽を学ばせました。 マリアが7歳のときに彼女の音楽的才能に気づいた母親は、マリアを歌手として成功させる(金儲けさせる)のに夢中になります。

「太らないと声が良くならない」 

そう信じ込んでいた母親は、マリアに砂糖菓子など甘いものを常に食べさせ、12歳のマリアは体重がすでに80キロを超えていたそうです(母親のスパルタ教育によってストレスで過食になったためともいわれています)。さらに極度の近眼もあり、美人でやせている姉と常に比べられて大きなコンプレックスを抱えていました。本人いわく”みにくいアヒルの子”みたいだったと語っています。

 

1937年(13歳)に薬局を営んでいた父親が事業に失敗すると、母は迷わず離婚し豊かな生活を夢見てふたりの娘を連れて故郷のギリシャに帰国しました。

 

1936年(13歳)大好きだった父ジョージと

このあとマリアは父と引き離されギリシャへの帰国を余儀なくされます

 

 

左からマリア、母エヴァンゲリア、姉のジャッキー

(1937年ギリシャに帰国直後)

 

母はマリアに年齢を偽らせてアテネ音楽院に入学させますが、ギリシャは母親にとっては故郷でもマリアにとっては異国であり、親しい友人もいなかったマリアは「音楽に没頭すること」と「食べること」で孤独感を忘れようとしました。

 

アテネ音楽院で、名ソプラノのエルビーラ・デ・イダルゴはマリアの歌を聴いた途端に魅了され、それからふたりの密接な関係が始まりました。マリアはイダルゴから朝から夜遅くまで厳しいトレーニングを受ける以外にも声楽以外のこともたくさん学び、それまで決して持ち得なかった”自信”を与えられたのです。1938年(15歳)でアテネ王立劇場でデビュー。

 

マリアは当時ギリシャを占領していたドイツ・イタリア軍の慰問演奏で認められ音楽院の首席ソプラノとなりました。ちょうどこの頃マリアと恋人関係になったのがイタリア軍の将校ディ・スタジオでしたが、ムッソリーニ政権が崩壊すると彼はアテネからいなくなりました。敵国の軍人で既婚者でもあった彼との関係は、背信行為として世間の非難の的となりました。このようなこともあり、終戦後はマリアの活躍する場所はなくなります。

 

終戦後のアテネでは内戦が勃発、マリアはアテネに来たイギリス軍の司令部で働き、母のために毎日食料と生活費を持ち帰る生活が続きました。この頃姉は家を去っており、21歳のマリアは毎日軍から支給されたランチを母のために包んで持ち帰っていたそうです。

 

彼女は戦時中の稼ぎもすべて生活費に充てていたので貯金はありませんでしたが、「占領軍相手に歌っていた女」と白い目で見られていた彼女はアメリカへ戻ろうとします。帰国を望む海外在住の市民への資金の貸し付けをしていたアメリカの制度を活用して単身渡米、ようやく1年後にメトロポリタン歌劇場のオーディションまでこぎつきますが失敗。他人にも認められず、仕事も得られず、容姿へのコンプレックスも抱えた彼女は追い詰められました。

『あのとき、わかったんです。なぜ人が自殺を考えるのか。』

(この頃弱ったマリアにつけ込んで、詐欺まがいの契約を結ばせたのが弁護士のエディ・バガロジー。悪い奴はどこにでもいるものです。)

 

そんなときに歌手のゼナッテロがマリアの才能を認めて、オペラの本場イタリアでの活動を勧めました。

 

 

1947年(24歳)にヴェローナ音楽祭で「ラ・ジョコンダ」の主役を歌いますが、このときに27歳年上の既婚者だった実業家ジョバンニ・バッディスタ・メネギーニと出会い、1949年に結婚しました。 この結婚によって経済的不安から解消されたマリアは(メネギーニの方がマリアが稼ぐ金目当てで結婚したという見方もあるそう。マネージャーも兼任していた彼は、マリアの知らないところで、「妻が言っています」という常套句で出演料を吊り上げるなどしていたそう。そのため「カラスはわがまま」というレッテルを貼られてしまう。)、オペラに一層打ち込み、過食症で当時100キロ近くあった体重を数か月で30キロ減量、美貌を手に入れた彼女はオペラ歌手としてのキャリアを順調にステップアップしていきます。

 

その後海運王オナシスとの出会いなど彼女の人生については、前述の記事に書いたので省きます。

 

1950年(27歳)のミラノ・スカラ座でのデビュー以来、彼女の黄金期といわれる期間は10年ほどしかありません。(彼女の最大の当たり役のひとつだった「ノルマ」は声を酷使する難役でもあり、1948年に歌って以来、1965年までの18年間で88回も演じたそうです。)

 

ではなぜ彼女は、”伝説のディーヴァ”と語り継がれているのか。

それはやはり、その個性的な声質だけでなく、それまで通俗的な存在でしかなかったオペラの登場人物に血肉を与え血の通った人間として強い存在感を示したことでしょう。

 

 

そしてどんなに取り巻き達に囲まれていても、いつも孤独感を感じていたかもしれません。

『どうして私はこんなにも孤独なのかしら?』 とマリアに尋ねられた友人が、でもあなたは滅多に一人になることはないじゃない?と返すと、マリアは手を胸の上で広げて、

『でもね、ここでは一人ぼっちなのよ。』 と言ったそうです。

 

 

彼女は1977年の今日、9月16日に53歳の若さで亡くなりました。長年彼女に仕えていた家政婦のブルーナによると、彼女は正午頃に目を覚まして朝食をとり、「今年はリウマチが起こるのが早いわ・・・」と言って、ふらつく足取りで浴室へ行ったそうです。少しして浴室からドスンという音がして、ブルーナがかけつけるとマリアが倒れており、すぐに到着した医師によって死亡が確認されたそうです。

死因は心臓発作と言われていますが、遺族の承諾もなしに火葬されたため、毒殺説、自死説など謎も多いそうです。遺灰は一旦ペール・ラシェーズ墓地に収められましたが、2年後に遺言によってエーゲ海に散骨されました。

 

ペール・ラシェーズ墓地の納骨堂みたいなところでしょうか

 

 

マリア・カラスの墓石は残っているようです

 

 

マリアは生涯にわたって家族(特に母親、そして姉)から金を無心されていたようです(父親の愛人からまでも)。彼女たちの要求は際限なく、送金してもさらに要求しマリアが拒否するとマスコミにマリアの悪口を言って味方につけたりなどしました。家族が起こす問題に疲弊しながらも、それでもマリアは縁を切っても仕方ないと思われる家族、父、母、姉を生涯支え続けました。

マリアの死後は家族、元夫メネギーニや関係者たちが遺産を巡って法廷でいがみ合ったそうですが、マリアの遺書には母と姉に遺産から経済支援を続けること、使用人にも十分な金額を与えること、若い音楽家たちのための「カラス奨学金」など支援基金を立ち上げること、ミラノの国立がん研究センターへ寄付することなどが書かれていたそうです。

 

 

こうしてマリア・カラスの人生を辿ってみると、彼女の一生って「与える」ことばかりだったのではないかとも思えます。親族や夫、恋人などから「無償の愛」を与えられたことは果たしてあったのでしょうか・・・  

前述の記事の中でも書きましたが、彼女は毎日次のように神に祈っているとインタビューの中で答えていました。

 

(神様が存在するかどうかは分からないけど、いるとするなら)幸福も不幸も神の御心のままに受け入れます。ただ神様お願い、私にそれ(不幸)に打ち勝つ力をください。』

 

ただ、彼女が自分の人生を不幸だと思っていたのかというとそうではないのかもしません。

急逝のために未完となった自叙伝は、観客へのメッセージで途切れていたそうです。

ー 『私にあるのは感謝のみです。』

 

 

それでは今日の曲です。プッチーニの歌劇「トスカ」よりアリア「歌に生き、恋に生き」です。

まさに彼女にぴったりのアリアかもしれません。

 

プッチーニ:歌劇「トスカ」より 「歌に生き、恋に生き(vissi d'arte)」 (4分42秒)

/ マリア・カラス (1964年 王立コヴェント・ガーデン歌劇場)

 

前述したように、彼女はひどい近眼だったことから、他の出演者の歌はもちろん位置、舞台配置などまで完璧に暗譜、暗記していたそうです。

 

 

あと2つ載せておきます。

ビゼー:歌劇「カルメン」より 「ハバネラ」 (6分21秒:カラスの歌は2分3秒あたりから)

/ マリア・カラス (1962年 ハンブルク)

 

 

プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より 「私のお父さん」 (2分)

/ マリア・カラス、プレートル指揮(パリ シャンゼリゼ劇場  1960年代)

 

 

わがまま、キャンセル魔などひどいバッシングも受けた彼女ですが、どんなに有名になってもリハーサルには誰よりも早く顔を出し、最後までその場にいたそうです。何度も歌い込んで完全に自分のレパートリーになっている曲でも、必ずスコアの隅々まで目を通して指揮者の言葉に耳を傾けるという姿勢は、名声を得たあとも変わらなかったそうです。

しかし、テレビの普及により人々の足は劇場から遠のき、急速に進むインスタントカルチャーの影響、彼女が関わる舞台もリハーサルは1回きり、あるいはリハなしの出演依頼さえあったそうです。 彼女はこんな言葉を残しています。

 

『私の芸術は、ぶっつけ本番では生まれない。』

 

彼女は人生最後のワールドツアーを1973年から74年(50-51歳)にかけて行い最後が日本公演でした。東京、大阪、福岡、広島、そして11月11日に札幌の厚生年金会館のステージで千秋楽を迎えましたが、この舞台が彼女の生涯最後のステージとなりました。

 

 

1974年のワールドツアー中、東京でのマリア・カラス

 

 

『歌に関していえば、私たちはみんな死ぬまで、学生なのです。』 (マリア・カラス)