9月15日 ~ 現代音楽の祖 ヴェーベルン 誤射で死去 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?お月見

今月も半分が過ぎてしまいましたね。 早いっあせる

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、9月15日は・・・作曲家 「アントン・ヴェーベルンの命日」 です。

 

Anton Friedrich Wilhelm von Webern: 1883.12.3-1945.9.15;

オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者

 

ヴェーベルン(英語読みだとウェーベルン)は、シェーンベルクやベルクらのいわゆる”新ウィーン楽派”とよばれるメンバーのひとりです。簡単にいえば現代音楽の開祖的な存在です。

生前は、ちょうど戦争と重なった影響で顧みられる機会がほとんどありませんでしたが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、多くの作曲家に影響を与えました。

ちなみに私はウェーバーと間違って(だってWeberとWebern、似てるでしょ?w)彼のCDを買ってしまい、聴いて「なんじゃこりゃ?」となったことがあります~てへぺろうさぎ

 

 

アントン・ヴェーベルンは、1883年12月3日にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで5人兄弟の第4子として生まれました(そのうち2人は幼少期に死去)。ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を有する貴族の家庭で、彼の父親はハプスブルク家に雇用された鉱山技師で国内を転々とし、そのためヴェーベルンは少年時代をグラーツ、クラーゲンフルト、ケルンテンなどで過ごしました。 母親はピアノが上手く、その母親に5歳からピアノを習いました。

 

父の転勤で1890年(7歳)にグラーツへ、1894年(11歳)にはクラーゲンフルトへ移り住みました。1897年(14歳)頃から音楽を正式に学び始め、地元のオーケストラでチェロを演奏もしました。 1899年(16歳)より作曲を始め、チェロとピアノのための作品などを書きました。

 

1902年(19歳)にクラーゲンフルトのギムナジウムを卒業、同年バイロイト音楽祭に行き、ワーグナーの音楽に感銘を受けました。同年、ウィーン大学の音楽学部に入学、グイード・アドラーに音楽学を師事しました(1906年に博士号を取得)。

 

1904年(21歳)からシェーンベルク (1874-1951)に師事して作曲を学びました(当初はベルリンにいたプフィッツナーに師事しようと考えていたそうです)。ここで同じシェーンベルクの門下生だったアルバン・ベルク (1885-1935) と知り合い、彼からも影響を受けました。

 

1908年(25歳)に「パッサカリア ニ短調」Op.1を書いて独立を許されます。生計を立てるために指揮者として活動を始め、ポーランドのダンツィヒ(グダニスク)やステッティン(シュチェチン)、などの劇場で指揮しました。1911年(28歳)にいとこのミンナと結婚。のちに3人の娘と息子のピーターを授かりました。

 

妻ミンナと娘のマリと(1912年)

 

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、翌1915年(32歳)にオーストリア軍に加わりますが、視力の問題で1916年の終わりに除隊となります。1917年にはチェコのプラハの劇場で指揮者として働き、翌1918年(35歳)にウィーンへ戻りました。

 

第1次世界大戦では軍隊に所属(娘のマリと。1915年)

 

ウィーンへ戻るとメドリングという小さな町に住み、戦後1918年にシェーンベルクが立ち上げた「私的演奏協会」を補佐して演奏会を行ったり、プライベートレッスンを行ったり、合唱団の指揮やウィーン労働者交響楽団の指揮者(1922-34年(39-51歳))、ウィーン放送の指揮者1927-38年(44-55歳)、1930年代にはBBC交響楽団への客演指揮者、など様々な活動を行いまし

た。 1924年と32年の2度、ウィーン音楽賞を受賞しました。

 

息子ピーターと娘クリスティーンと(1928年夏)

 

1933年(50歳)にヴェーベルンはミュンヘンのバイエルン放送局のユダヤ人作曲家と誤解されたことなどがあり、指揮者の職を失い、その後ナチスは「新ウィーン楽派」の音楽の演奏を禁止しました。

 

1935年(52歳)のヴェーベルン

 

1938年(55歳)にナチス・ドイツによりオーストリアが併合されるとヴェーベルンの音楽は”頽廃音楽”という烙印を押され、もはや演奏活動で生計を立てることはできなくなりました。このため彼は1941年(58歳)以降は出版社の編集の仕事や校閲係として働きました。 しかしこの間も彼は作曲は続けました。

1943年(60歳)に彼の友人でスイスの慈善家のヴェルナー・ラインハルトのおかげで、ヴェーベルンの「管弦楽のための変奏曲 Op.30」の初演をスイスで行いましたが、これが彼の生涯最後の大きなイベントとなりました。

 

1945年2月に息子ピーターが乗っていた旅客列車が空襲の爆撃に遭い、ピーターが死去。その後ヴェーベルン夫妻はザルツブルク近郊のミッタージルの娘クリスティーン夫妻の家へと避難しました。そこには他の娘たちや孫もいました。

 

”しかし、娘クリスティーンの夫が元ナチス親衛隊で、当時闇取引に関与しており、同年9月15日にヴェーベルンが喫煙のためベランダに出て葉巻に火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により闇取引の合図と誤解され、その場で射殺され、絶命した”・・・・とwikipediaにも書いてありますが、本当にそうなのかをもっと解明した人がいるようです。

 

以下の内容は、後述のブログ「チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ」のチュエボー様が長年かけて詳細に調べられたものです。ご許可を得て記載させていただきます。チュエボー様、どうもありがとうございました。

 

ユダヤ系ドイツ人の音楽学者のハンス・モルデンハウアー(1906-87)という方が、アメリカの国務長官、国防長官にまで照会状を出して、当時のヴェーベルン夫人の宣誓口述書などを手に入れてヴェーベルンが亡くなった時を詳細に調べ上げたそうです。それによると・・・

 

当日、ヴェーベルン夫妻は娘クリスティーンとその夫のベンノ・マッテル(元ナチス親衛隊)夫婦に夕食に招かれていました。当時マッテルは闇取引をしていたので生活状態が一族の中で一番良かったそうです。しかし、当時オーストリアを占領していた米軍は、闇取引を摘発しマッテルを逮捕するために、当日の晩おとりの密偵を使ってマッテルと闇取引しようと罠を仕掛けました。密偵はふたりで、軍曹とコック兵でした。マッテルは罠にかかって軍曹により逮捕されましたが、コック兵はマッテルの逃亡を防ぐためにあらかじめ家の外で待機していました。

ちょうどその時にヴェーベルンは、娘婿からもらったばかりのアメリカの葉巻を吸いたくなって、しかも孫たちが寝ているところで吸うのを避けて家の外に出てしまい、ここでコック兵と出会ってしまいました。このときキッチンで娘婿に起こっていたこと(逮捕された)には気づいていませんでした。

 

当時はヴェーベルンも病み上がりで体重も50キロもなかったほどやせ細っていたそうですが、まだ灯火管制もしかれており、突然灯りがついた(葉巻に火を点けた)のに驚いたコック兵は自分が襲撃されると勘違いし、狼狽して三発撃ちました。その一発がヴェーベルンの胃のあたりに当たり、よろめきながら家の中に入ったヴェーベルンは、あえぎながら "Es ist aus."(もうだめだ)といって意識を失い、まもなく亡くなったそうです。

 

詳細はチュエボー様の記事をご参照ください。下差し

 

 

 

なので、闇取引の合図と勘違いして・・・というわけではなかったようです。それから最後の言葉も”撃たれた!”と書いてあるものもありましたが、実際は違うようです。

 

ヴェーベルンを撃ったのはレイモンド・ノーウッド・ベルというコック兵でした。

ベルの未亡人からモルデンハウアー宛に質問に答える形で手紙も送ってきたそうで、ベルはその後アルコール中毒がもとで41歳で亡くなったそうです。ベルは夫人にも事件のことは詳しくは語りませんでしたが、”軍務中に人を一人殺してしまった”ということをくよくよ悩んでいたそうです。酔っぱらうたびに「あの人を殺さなければよかったのに」と言っていたそうです。ベル自身はレストランのシェフで周囲から愛された親切な人間だったそうです。(上記の引用させていただいた記事より)

 

 

ヴェーベルンが誤射されたミッタージルの家

 

 

この家にある記念プレート

マーラーの次女で彫刻家のアンナ・マーラーの1961年の作品

(画像はミッタージルに行かれた方のブログからお借りしました)

 

この一連の出来事は映画にもなっているそうです。

⇒「アントン・ヴェーベルンの死(Geblendeter Augenblick-A.Weberns Tod)」(1986)

 

 

ミッタージルにあるアントン・ヴェーベルンのお墓

 

ちなみにこの墓石にもあるように妻のミンナはその4年後の1949年にミッタージルで貧窮のうちに亡くなったそうです。夫の戦後の人気復興を見ることもなく亡くなってしまったんですね・・・

 

 

音楽とは違う話で長くなってしまいましたあせる

ヴェーベルンは生前に出版された作品は31曲しかないそうです。ブーレーズが監修、指揮したヴェーベルン全集でも作品番号がついてないものを含めても6枚のCDに収まっているそうです。 しかし、彼は「新ウィーン楽派」とよばれる中でも中核をなし、戦後の前衛音楽に大きな影響を及ぼしました。

ヴェーベルンは時期ごとに音楽が変化しており、シェーンベルクの門下に入る前は後期ロマン派風な作品ですが、それ以降は調性感は希薄になりやがて無調から12音技法へと変遷していきました。彼の作品は緻密な構成で凝縮されており、演奏時間は概して短く音色の豊富さなどが特徴的です。

 

それでは今日の曲です。こんだけ前衛音楽、現代音楽と書いてきたのにあんぐりうさぎ、近藤氏が選んだのはそうなる前、21歳の時の「大管弦楽のための牧歌《夏風の中で》」です。後期ロマン派主義音楽の影響を受けています。

この曲は、シェーンベルクに入門する前に書かれた初期の作品で、生前には出版されず作品番号さえついていません。しかし、前述したハンス・モルデンハウアー(シェーンベルクの死亡時のことを詳細に調べた人)によって公開、出版されるとヴェーベルン作品の中でも人気作品となり、現在でもしばしば演奏、録音されています。

 

ヴェーベルン:大管弦楽のための牧歌「夏風の中で (Im Sommerwind)」 (12分55秒)

/ シノーポリ&ドレスデン・シュターツカペレ (1996年)

 

 

ストラヴィンスキーの追悼の言葉です。(「音楽の友」1966年4月号)

 

『アントン・ヴェーベルンの死んだ日は、感受性に富んだ音楽家ならすべてが喪に服すべき日である。われわれは、彼が偉大な作曲家であったばかりでなく本当の英雄であったことを讃えなければならない。無智と冷淡な音のない世界のすべての誤りに運命づけられながら、彼は、自己のおどろくべき完璧の知識の鉱山から掘り出したダイヤモンドをひとり目も眩むような輝かしいものに磨き上げ続けた人であった。』

(引用元は前述のチュエボー様のブログです)