9月12日 ~ 1030人の交響曲 初演 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?お月見   

今週はとっても忙しかったですショック 明日はゆっくり寝るぞ~チュー

 

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、9月12日は・・・マーラーが作曲した 「交響曲第8番《千人の交響曲》の初演日」 です。

 

 

Gustav Mahler : 1860.7.7 - 1911.5.18

 

今日はマーラーの「千人の交響曲」の初演日だそうです。

ちなみに私は2018年9月に小泉さん&九響で聴いたことがあります下差し

 

その時の写真(終演後)

 

この時は前日の公開リハーサルも聴きましたが、やはり大編成の合唱団の歌声は圧巻でびっくりした記憶があります。

今日はこの交響曲の初演にまつわる話です。

 

まずは曲のざっとした説明から・・・

この曲は、ベートーヴェンの第九もびっくり、超大規模な編成となってます。

オルガンを含む大編成の管弦楽に加え、8人の独唱者、児童合唱団を含む複数の合唱団を要します。

1910年のミュンヘンでの初演時は、合計1030名での演奏となりました。

⇒この規模の膨大さから『千人の交響曲』Symphonie der Tausend )と呼ばれますが、これはマーラーが名付けたものではなく、初演時の興行主が話題作りのため付けたものだそうで、マーラー自身はこの呼び名を嫌っていたそうです汗

 

巨大なオラトリオあるいはカンタータのようなこの曲は、従来の楽章制を用いない2部構成となっており、第1部では精霊降臨節の讃歌「来たれ、創造主たる聖霊を」を、第2部ではゲーテの戯曲「ファウスト」の終章に基づいた歌詞が用いられています。それまでのマーラーの音楽の集大成的な作品で、信仰や生に対する壮大な賛歌ともいえます。

 

マーラーの「ウィーン時代」の最後の作品で、彼の自作演奏会としては生涯最大の成功を収めたと同時に、当時のヨーロッパでは文化的事件となったともいえます。彼はこの作品を妻のアルマに献呈しています(彼が自分の作品を他者に献呈したのはこの曲のみ)。

 

マーラーはこの曲について、弟子のウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で次のように書いています。

『私はちょうど第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それはもはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です。』

 

また別の友人には、次のように述べています。

『これまでの私の交響曲は、この曲の序曲に過ぎなかった。今までの作品はいずれも主観的な悲劇に帰結したけれども、この曲は偉大な歓喜と栄光を讃えているものです。』

 

 

作曲の経緯について・・・

1906年(46歳)の夏にヴェルター湖畔のマイアーニッヒの作曲小屋で作られました。第1部は3週間でスケッチ、8月18日には全曲を完成しました。翌1907年夏にオーケストレーションされました。妻アルマの回想によると、マーラーは最初の2週間はスランプが続きましたが、ある朝作曲小屋に足を踏み入れた瞬間に「来たれ、創造主たる聖霊よ」の一句が閃き、うろ覚えのラテン語歌詞をもとに第1部を一気に書き下ろしたそうです。彼は音楽に合わせて原詩を削除、入れ替えしたり、一部は彼自身が加筆創作して元々7節だった原詩を8節に拡大しました。当初は4楽章の構成の予定だったそうです。

 

            

      交響曲第8番を作曲したマイアーニッヒの作曲小屋(左は当時、右は現在)

 

 

当時の彼をめぐる環境について・・・

当時マーラーはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を務めていましたが、彼の妥協を許さない「完全主義者」ぶりが当時の「反ユダヤ主義」と相まって、彼に対する周囲の反発は日々高まっていました。1907年(47歳)のシーズン中に休暇をとって自作の演奏旅行をしたことで、ウィーンでのマーラー批判が一気に噴き出し、音楽界ほぼ全体を敵に回してしまいました。一方マーラー自身も自作の演奏機会の拡大とともにより作曲に専念できる環境を望んでいましたが、歌劇場での多忙な活動と作曲活動の両立が困難となっていました。

このような環境の中1907年6月にはベルリンでニューヨークのメトロポリタン歌劇場の支配人と会い、翌シーズンから同歌劇場の指揮者に就任することを承諾、契約を結び、ウィーン宮廷歌劇場を辞任することになります。(この年の7月に前述のマイアーニッヒで4歳の長女マリア・アンナがジフテリアで死去、直後に彼自身も心臓病の診断を受けています)

 

 

初演について・・・

交響曲第8番の初演は、1910年9月12日と13日にミュンヘンでマーラー自身の指揮によって行われました。 同年4月にアメリカで交響曲第9番を完成した後に3度目のヨーロッパ帰還を果たしてこの初演に臨みました。

初演は「ミュンヘン博覧会1910」と題された、4か月にもわたった大規模な音楽祭のメインイベントとして行われました。興行主の「千人の交響曲」と名付けた鳴り物入りの宣伝効果もあって両日ともに3000枚のチケットが完売したそうです。

 

演奏者は、指揮者のマーラーの他、オルガニストを含む管弦楽171名、独唱者8名、合唱団850名の総勢1030名でした。管弦楽はカイム管弦楽団(ミュンヘン・フィルの前身)、合唱団にはウィーン楽友協会合唱団250名、リーテル協会合唱団250名、ミュンヘン中央歌唱学校の児童350名でした。

 

マーラーは少なくとも初演の1年前から準備に取りかかったそうです。練習は、編成が大規模で全員が一堂に会することが困難なため、各地で分散して行われました。9月5日からの1週間を総リハーサルに当て、様々な組み合わせで1日2回行ったそうです。

マーラーはこの総リハーサルの過程で、合唱の練習を担当したフランツ・シャルクの無能ぶりを妻アルマへの手紙の中で厳しく批判したり、本番直前になってコンサートマスターの交代を要求したりしています汗

 

1910年9月初演に向けてのリハーサル風景

 

 

会場は、博覧会会場だった新祝祭音楽堂(現在のドイツ博物館交通館第1展示場)でした。

当時としては先進的な建造物でしたが、音楽ホールとして設計されたものではなかったため、マーラーは興行主のグートマンに対して音響的な配慮や照明効果まで細かい要求をしたほか、ウィーン宮廷歌劇場時代の同志だったロラーを呼び寄せて演奏者の配置や照明など会場のアレンジを行わせました。

 

初演会場となった新祝祭音楽堂(現在のドイツ博物館交通館第1展示場)

 

 

その他、マーラーは初演時に配布されるプログラムに出演者の名前、歌詞以外の、楽曲解説が掲載されることを厳しく禁じたそうです禁止  また、会場前を走る路面電車についても演奏中は徐行するように、鐘も鳴らしてはならないと注文したそうです禁止 相変わらずの完璧主義者ですね~にやり

 

こうして行われた初演は大成功を収め、終演後は聴衆も演奏者も熱狂の渦に包まれたそうです。批評家パウル・シュテファンは、

『嵐のような熱狂は30分近く続いた。(中略) マーラーはおそらくこのとき、その生涯の絶頂、名声の絶頂に達したのだった。』 と述べています。

 

この初演から8か月後の1911年5月18日にマーラが他界するとは、このときの聴衆も恐らく本人自身も思いもよらなかったでしょう。

マーラーの没後に1911年の秋から翌春にかけて、この交響曲はウィーンだけで13回も上演されたそうです。

 

尚、この初演の聴衆の中にはそうそうたる人物がたくさんいました。wikipediaからひろった名前を一部挙げると・・・

 

シェーンベルク、ブルーノ・ワルター、プリングスハイム、クレンペラー、ヴェーベルン、R.シュトラウス、マックス・レーガー、フランツ・シュミット、ジークフリート・ワーグナー、ヴォーン・ウィリアムズ、ラフマニノフ、ストコフスキー、シュニッツラー、ホフマンスタール、シュテファン・ツヴァイク(ホフマンスタールとツヴァイクは9月8日のR.シュトラウスの記事で出てきましたね)、トーマス・マン、クレマンソー、アルベール1世(ベルギー国王)、バイエルン王国皇太子(ルートヴィヒ3世)、ヘンリー・フォード

 

この方々を一列に並んで座らせたら、紅白歌合戦の審査員席みたくなりますねにやり(←そんなレベルじゃないっちゅうにw)

 

ちなみにこの中のストコフスキーは、1916年にアメリカ初演をしており、ニューヨーク・フィルとこの曲の最古の録音(1950年)を残しているそうです。

 

 

それでは今日の曲、当然この曲です・・・が、長いので近藤氏は冒頭の2分だけの指定です(短っ!) 私も冒頭の“Veni, creator spiritus”の、「ベーニっ!」だけ歌えます~チュー
 

 

マーラー:交響曲第8番 変ホ長調より 第1部より「来たれ、創造主なる聖霊よ」 (1分29秒)

/ アントニ・ヴィト&ワルシャワ・フィル