皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?
「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwebよりお借りしました)
今日、9月11日は・・・エストニアの作曲家 「アルヴォ・ペルトの誕生日」 です
Arvo Pärt : 1935.9.11~;
今日は、エストニア出身の作曲家 アルヴォ・ペルトの85歳お誕生日です
(小澤征爾さんとおない年ですね)
といいつつ、私はお名前すら存じ上げませんでした~
でもね、エストニアっていうところにすごく親近感が湧いています なぜかというと以前行ったことがあるからです。ちょうど4年前、2016年9月にバルト三国に行きましたが、一番最初に行ったのがエストニア です。エストニアの人たちはとても親切で大好きになりました。
ただ歴史をさかのぼると、エストニアはデンマーク、ドイツ、スウェーデン、ロシア帝国、そしてソ連など次々と他国に占領されました。1991年8月20日に独立宣言してまだたった29年しか経っていません。
そんなエストニア出身の作曲家と聞いて、とても興味が湧いたので調べてみました。
アルヴォ・ペルトは、1935年の今日、9月11日にエストニアのイェルヴァ県パイデで生まれました。ペルトは7歳から音楽を学び始め、14、5歳頃には作曲を始めました。
ペルトの生まれた頃のエストニアは、独立共和国として黎明期だったにも関わらず、独ソ不可侵条約によって1940年にはソ連の支配下に置かれます。その後ナチス・ドイツの支配下となった一時期を除けば、約50年間ソ連の勢力下にありました。
ペルトは、1957年(22歳)にタリン音楽院(現在のエストニア音楽アカデミー)に進学し本格的に作曲の勉強をするかたわら、1958年から67年まで(23歳~32歳)エストニア放送局のレコーディングエンジニア(音響技師)として働きました。
1961年(26歳)にオラトリオ「世界の歩み」でモスクワ開催の全ソ連青少年作曲コンクールで優勝、1963年(28歳)にタリン音楽院を卒業しました。
当時のエストニアは社会主義国以外の外部とは遮断されており、社会主義国の音楽以外の情報といえばせいぜい非合法のテープやスコア程度でした。ペルトは最初ショスタコーヴィチやプロコフィエフ、バルトークなどの音楽の影響を受けましたが、わずかに手に入る情報をもとに、現代音楽の技法も身につけました。しかしそれはソヴィエト政府の意にはそぐわず、独創性の発展において彼は行き詰りを感じました。
『意思表示をする方法はあまたあるけれど、その中で作曲という行為が最も無能で役に立たないという究極的絶望に彼はたどり着いた。音楽に対する信頼も、音符一つ書く力さえも失ったようだった。』(ペルトの伝記作家のポール・ヒリアーによる)
彼は「西洋音楽の根源への実質上の回帰」を見出し、古楽に没頭するようになります。
1968年(33歳)から創作活動を休止、8年間の沈黙と研究活動に入り、グレゴリオ聖歌など中世の単旋聖歌、ルネサンス期の多声聖歌など「祈り」の音楽を探求し、「ティンティナブリ」という技法にたどりつきます。
「ティンティナブリ」とは”鈴の声”という意味で、簡素な音の組み合わせをまるで鈴の音が鳴り続けるかのように一定のリズムで繰り返す技法(なのでメロディもリズムも和声もシンプル)で、1976年(41歳)に発表したピアノのための商品「アリーナのために」で「ティンティナブリ」様式を確立しました。
『私が見出したのは、たったひとつの響きが美しく奏でられるだけで十分だということだ。静けさと沈黙ともいえる。私はわずかな音素材、ひとつの声部、またはふたつの声部で作曲する。私はもっとも単純な手段で、3和音で、ある特定の調で曲を構成する。3和音の3つの音の響きは鈴の音に近い。だから私はそれを「ティンティナブリ」(鈴の音)と名付けたのだ。』
彼は、このティンティナブリ以降の作品によって最もよく知られるようになり、絶大な人気を博するようになりました。
1978年(43歳)「鏡の中の鏡」を発表。
1980年(45歳)に家族とともにウィーンへ移住、市民権を獲得、翌1981年にはベルリンに活動の拠点を移しました。
1982年(47歳)「ヨハネ受難曲」を発表、1990年(55歳)に初来日して、この「ヨハネ受難曲」を演奏したそうです。
2010年(75歳)にエストニアに帰国、タリン近郊に「アルヴォ・ペルト・センター」を設立しました。
「アルヴォ・ペルト・センター」にて(2014年)
2011年(76歳)レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受賞
2014年(79歳)「アダムの嘆き~ペルト合唱作品集」にてグラミー賞合唱部門受賞。同年日本において高松宮殿下記念世界文化賞を受賞し来日しています。
それでは今日の曲です。近藤氏が選んだのは、ペルトが47歳時に発表した「ヨハネ受難曲」なんですが長いので、違う曲にしました。1978年(43歳)発表の「鏡の中の鏡」です。
この曲にはヴァイオリン版とチェロ版がありますが、チェロ版の方を。
アルヴォ・ペルト:「鏡の中の鏡」 (10分27秒)
/ Leonhard Roczek (Vc), Herbert Schuch (Pf) (Mozart Week Salzburg 2014)
初めて聴きましたが、単に「癒しの音楽」と言ってしまうと表面的すぎるかもしれません。
「鏡の中の鏡」って文字通りずうっと鏡が映りますよね。「永遠」「普遍」などが思い浮かぶし、曲を聴いていると「祈り」のようなものも感じます。
彼の音楽にハマる人が多いのもとてもわかる気がしました。
現代音楽というと、「奇怪な」「一度聴いたらもういいかな」のようなイメージがあるのですが、彼の音楽は(他の曲も聴いてみましたが)とてもわかりやすい。聴きやすいです。
エストニアといえば、ヤルヴィ一家もエストニアのタリン出身ですよね。パーヴォ・ヤルヴィが以前インタビューで話していましたが、エストニアの独立運動がさかんになるきっかけとなった、1989年9月11日のタリンでの30万人の集会は「歌の集会」と呼ばれ、バルト三国の独立運動が”歌いながらの革命”とよばれるきっかけともなったそうです。
武力ではなく、音楽の力で独立を勝ち取ったことをパーヴォは大変誇りに思っている、ということを話していましたが、その「歌の集会」があった日がちょうど9月11日!ペルトさんの誕生日だったんですね~ これからもお元気でご活躍してほしいです
アルヴォ・ペルト・センターにて(2014年)