皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?
今日はほんとはこのコンサートに行く予定でしたが、新型コロナの影響で中止に。
ベンヤミン・アップルのリサイタルです。久々の歌曲リサイタルで楽しみにしてたんですけどね~ 残念ですが、またの機会を楽しみにしております
さてさて、「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwebからお借りしました)
今日、9月9日は・・・スウェーデンの名テノール 「ユッシ・ビョルリングの命日」 です。
Jussi Björling:1911.2.5-1960.9.9; スウェーデン出身のテノール歌手
出典本の著者、近藤憲一氏によると、スウェーデン出身の歌手にはイタリアやドイツなどの歌手とはまた違った魅力があるそうです。いわく、「水晶の輝きを思わせる声の響きは、美しいだけでなく、海を越えて吹きつける寒風をもはね返していくような強靭さも感じさせる」 そうです。
第二次世界大戦前後にメトロポリタン歌劇場の大スターだったビョルリングも、独特な品格、澄んだ透明感、素晴らしい輝きを放つ高音、美しくしなやかな弱音を自在に駆使した抒情的な歌唱でファンを魅了したそうです。
ユッシ・ビョルリングは、1911年2月5日にスウェーデンのストラ・トゥーナで生まれました。
父親がテノール歌手であり、父親から音楽教育を受けました。
6歳の時に父、二人の兄とともに「ビョルリング男声四重唱団」を結成して、ボーイソプラノとして活躍、アメリカでも演奏旅行を行いました。8歳で初録音。
兄たちと歌う幼いユッシ(写真向かって右かな?)(1916年)
父親とふたりの兄とともに「ビョルリング男声四重唱団」を結成
(向かって左からオッレ、ユッシ、ゴスタ)
父親の死後、1928年(17歳)にストックホルム王立音楽院に入学、1930年(19歳)に同地の王立歌劇場で、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオ役でデビューしました。
同劇場所属の時代に録音活動を行い、国際的な評判を高めていきました。
1936年(25歳)にウィーン国立歌劇場とザルツブルク音楽祭にデビュー。
1938年(27歳)にメトロポリタン歌劇場で「ラ・ボエーム」のロドルフォ役でデビュー、その後同歌劇場の看板テノールとして、亡くなる前年の1959年(48歳)まで活躍しました。指揮者トスカニーニも多くのオペラや宗教音楽のソリストとして彼を起用したそうです。
20代のビョルリング
戦後、LPレコードが普及すると、RCAレコードで多くのオペラの全曲録音に参加しました。
レコードの録音風景
1960年3月(49歳)にロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場での公演直前に心臓発作で倒れました(大の酒好きだったことも遠因のひとつといわれているそうです)。なんとか一命をとりとめ、その後も録音に参加するなど回復を目指していましたが、同年9月にストックホルムで逝去しました。まだ絶頂期の49歳という若さでした。
彼のレパートリーはヴェルディやプッチーニなどのイタリア・オペラからグノーなどのフランス・オペラまで幅広く、軽やかなリリコ系から重厚なスピンと系の役までしなやかに歌い上げ、20世紀を代表する名テノール歌手として名声を博しました。
ユッシ・ビョルリングのお墓
(生誕地のスウェーデンのストラ・トゥーナ墓地(Stora Tuna Kyrkogård))
それでは今日の曲です。近藤氏が選んだのは、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」から「キリエ」だったのですが、今日は私の独断で違う曲を載せます。
ユッシ・ビョルリングが生涯にわたって歌い続けたという、同郷スウェーデンの作曲家シェーベルイの「調べ」という曲です。 この曲はビョルリングの愛唱歌として有名になったそうです。
シェーベルイ:「調べ」(Tonerna) (3分25秒)
/ ユッシ・ビョルリング (1957年)
「調べ」 (歌詞)
想いは乱れる
音楽がそれを癒してくれる
心は傷ついている
生きていることで傷ついているのだ
音楽が・・・
音楽だけが僕に癒しを与えてくれる
音楽だけが・・・
彼が実際に歌っている姿が観れるものも載せておきます。
この曲聴きなじみがある方も多いのではないでしょうか。
レオンカヴァッロ:「朝の歌」(Mattinata) (2分16秒)
/ ユッシ・ビョルリング