9月8日 ~ リヒャルト・シュトラウス 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?お月見 

台風一過、今日は暑かったです晴れ

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、9月8日は・・・ ドイツの大作曲家 「リヒャルト・シュトラウスの命日」 です。

 

Richard Georg Strauss : 1864.6.11-1949.9.8; ドイツの作曲家、指揮者

 

今日はリヒャルト・シュトラウスの命日だそうです。そいえば今日は私の亡くなった父の誕生日でもありますにやりふふっ ご存知、R.シュトラウスは、ドイツの後期ロマン派の最後の巨匠ともいわれます。 といっても、私はクラシックを聴き始めた頃は、ヨハン・シュトラウスの血筋だと思い込んでました・・・てへぺろうさぎ

 

「わしはワルツ王のシュトラウス一家とは全く関係ないけん、そこんとこよろ。」

 

今日は特に長いです!興味ない方はスルーでお願いしますにやり

 

 

リヒャルト・シュトラウスは、1864年6月11日にバイエルン王国の首都ミュンヘンで、音楽家の父フランツの長男として生まれました(ちなみにこの年に、ワーグナーのパトロンでも知られるルートヴィヒ2世がバイエルン国王に即位)。

 

父フランツ (1822-1905)はミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者で、後にミュンヘン音楽大学教授を務め、宮廷音楽科の称号も受けています。母親はミュンヘンで有数のビール醸造業者プシャール家の娘でした。非常に裕福な家庭で生まれたリヒャルトは、小さいころから父から音楽の英才教育を受けました。4歳からピアノを学び、6歳には作曲を開始、8歳からヴァイオリンを学びました。 父フランツは筋金入りの”ワーグナー嫌い”で、息子リヒャルトに教えた音楽もモーツァルトやベートーヴェンなど古典派の作曲家を勉強させました。

 

両親の希望で音楽学校へは進まずに10歳から8年間はギムナジウムに通いました。

1875年(11歳)から5年間、宮廷楽長で指揮者のフリードリヒ・マイヤーから作曲の個人レッスンを受け、翌年12歳ハッのときに初めて本格的な作品「祝典行進曲」(Op.1)を作曲、1881年(17歳)に「交響曲ニ短調」がヘルマン・レヴィによって初演されました(レヴィは熱狂的ワグネリアン)。これに謝意を示した父フランツに対し、レヴィはバイロイト音楽祭の「パルジファル」の初演に出演するよう依頼し、ワーグナー大嫌いだったフランツは渋々引き受けたそうです笑う

 

1882年(18歳)にギムナジウムからミュンヘン大学哲学科に進学、ショーペンハウアーに傾倒しますが、同年作曲された「13管楽器のためのセレナード」(モーツァルトの「グラン・パルティータをリスペクトして同じ編成で書いたもの)が、大指揮者のハンス・フォン・ビューロー (1830-94) (当時ベルリンのマイニンゲンの宮廷楽長)に絶賛され、(彼は「ブラームス以来の最大の個性」と称賛したそう)翌年ビューローがマイニンゲン宮廷楽団を指揮して演奏(初演は前年にドレスデンにて)、次いでドイツ各地でこの曲を演奏しました。そのおかげでリヒャルトは作曲家としてたちまち注目されるようになり、この曲が出世作となりました。(同初の協奏曲で生涯唯一の「ヴァイオリン協奏曲」を作曲)

 

ハンス・フォン・ビューロー (1830-94)

 

リヒャルトは作曲の道に専念するため1883年にミュンヘン大学を中退し、ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンへ旅行しベルリンで前述のハンス・フォン・ビューローに出会いました。1884年(20歳)にビューローの推薦でマイニンゲン宮廷楽団の第二指揮者に就任

同年「交響曲第2番」Op.12を作曲、これを聴いたブラームスは、「まったく結構」と言ったそうです(えらそ~かお)。

1885年(21歳)にビューローが引退後の後を引き継ぎ、同楽団の首席指揮者に就任、ブラームス、ベルリオーズ、リストなど新しい音楽を知ることになりました。

 

1886年(22歳)に(病気のため?)指揮者を辞任しブラームスの勧めもあり春から夏までイタリアを旅行、ベルリオーズなどの影響を受けて、標題音楽の第1作となる交響的幻想曲「イタリアから」(Op.16)を作曲(第4楽章にはあの有名な「フニクリ・フニクラ」を使用)

 

1886年(22歳)のリヒャルト・シュトラウス

 

 

イタリア旅行から戻ったリヒャルトは、ミュンヘン宮廷劇場の第3楽長に就任し、3年間務めますが、「若造」という扱いで、劇場支配人からの嫌がらせなどもあったりして居心地や待遇はよくなかったようです。一方で作曲には十分時間を費やすことができ、初期の交響詩3部作「マクベス」(1887年)、「ドン・ファン」(1888年)、「死と浄化」(1889年)を書きました。(この時期の作品は以前傾倒していたショーペンハウエル哲学の影響で「厭世的」傾向があるそうです)

この頃、4歳年上のマーラーや、のちに妻となるひとつ年上のソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナと知り合いました。

 

1889年(25歳)にビューローの口利きでワイマール宮廷劇場の第3楽長に就任、5年間務めました(1894年まで)。ここではミュンヘンと違い、リヒャルトにも指揮者として十分な活躍の場が与えられましたが、反面作曲する時間がなかなかとれなかったようです。

1892年(28歳)に激務のため身体を壊したリヒャルトは、1年間の休暇をとってイタリア、ギリシャ、エジプトに転地療養に出かけました。翌1893年に復帰、フンパーティングの「ヘンゼルとグレーテル」を初演指揮、1894年にはバイロイトで「タンホイザー」を指揮、9月にはパウリーネと結婚(彼女の激しい性格から恐妻家シュトラウスの「悪妻」としても名高い?)、同年10月(30歳)からはミュンヘンの宮廷楽長に就任します。

 

24歳のリヒャルト・シュトラウス(1888年)

 

1894年~98年(30歳~34歳)にミュンヘン宮廷劇場の第1楽長を務めますが、この時期には交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(1895年)、「ツァラトゥストラはかく語りき」(1896年)、「ドン・キホーテ」(1897年)、そして最後の交響詩となる「英雄の生涯」(1898年)を書いています。これらはニーチェ哲学の影響を受けて書かれたと言われています。ニーチェは以前もこのブログで記事にしたようにワーグナーと決別しましたが、リヒャルトもニーチェの影響を受け、バイロイトとは次第に疎遠になりました。

 

指揮者としては、ミュンヘン時代に当時まだ大作曲家としてはみなされていなかったモーツァルトの主要オペラを、演出も含め現代的な形で上演したことが大きな業績として挙げられます。また、この頃の彼の指揮スタイルは、晩年と違って(まるでマーラーの若いころのように)激しい身振り手振りだったようです(フランスの作家ロマン・ロランに「気が狂っている!」と評されたほどだそうw)。

 

若いころのリヒャルト・シュトラウスの指揮姿

 

1898年(34歳)ベルリン宮廷歌劇場の第1宮廷楽長に就任、1918年(54歳)までの20年間の長きに渡り同地位にありました。このベルリン時代からリヒャルトの作曲意欲はオペラに向かうようになりました。

 

当時のベルリン宮廷歌劇場

 

1902年にベルリンのキャバレーで働いていた当時28歳のシェーンベルク (1874-1951)と知り合い、才能を認めて音楽学校の教師の職を紹介などしています。

1904年(40歳)にアメリカへ演奏旅行、この際前年に作曲した「家庭交響曲」を初演しました。

 

1905年(41歳)、ドレスデン宮廷歌劇場でオスカー・ワイルドの戯曲を基にした歌劇「サロメ」が初演され、センセーションを巻き起こしました。反社会的作品として、ウィーン他各地で上演禁止になりましたが、徐々に受け入れられるようになり、オペラ作曲家としての地位を確立しました。「サロメ」は、シェーンベルクやベルク、マーラーやプッチーニまで大きな影響を与えました。

また、原作を(台本を使用することなく)そのままオペラにしていることも画期的なことでした。

 

1908年(44歳)にベルリン宮廷歌劇場の音楽総監督に就任。同年「サロメ」で得た大金でガルミッシュ=パルテンキルヒェンに大きな山荘(別荘)を建てました。以後オペラ「エレクトラ」など多くの作品がここで生まれました(第2次世界大戦末期はここに引きこもりました)。

 

ガルミッシュ=パルテンキルヒェンのR.シュトラウスの別荘

(ここ前にEテレの「旅するドイツ語」で放送されたことあります音符

 

1909年(45歳)にドレスデンで歌劇「エレクトラ」が初演。このオペラは、フーゴ―・フォン・ホフマンスタールが台本を担当、以後ホフマンスタールはリヒャルトと組んでさらに8つのオペラの台本を書きました。

 

ホフマンスタール(1874-1929)


1911年(47歳)リヒャルトの代表作で空前のヒットとなったオペラ「ばらの騎士」がドレスデンで初演。リヒャルトは「次はモーツァルトのオペラを書きたい」とホフマンスタールに台本を依頼したそう(ホフマンスタールから「次は喜劇で」といわれたともされる)。当時はヴェリズモ・オペラなど陰惨なオペラが多く、それまでとは打って変わったこの喜歌劇の初演は大成功を収めました。ウィーンからドレスデンまで「ばらの騎士の観劇客用の特別列車」が運行されたくらいだそうです。
1912年(48歳)、歌劇「ナクソス島のアリアドネ」第1版が初演(その後改訂して1916年にウィーン上演)。
 

1914年(50歳)に第一次世界大戦が勃発しますが、リヒャルトは「戦争支持を訴えるドイツの芸術家宣言」には署名しなかったそうです。しかし、イギリスの銀行に預けていた全預金をイギリス政府に接収され、ほぼ全財産を失ったそう!びっくりええ

 

それまでは羽振りもよくて自動車を購入、自分で運転してたそうなんですけどね汗

 

 

1914年頃のR.シュトラウス

 

1915年(51歳)に12年ぶりの管弦楽曲となる「アルプス交響曲」を自身の指揮でドレスデンで初演。これは14歳頃にドイツ最高峰のツークシュピッツェ山を登山した体験が基になっていて、ベートーヴェンの「田園」交響曲をベースとして作ったそうです。ガルミッシュの別荘から山々を眺めながら曲想が練られたそうですが、前年に全財産をなくした彼が手っ取り早く高額のギャラお金を手に入れるために作ったともいわれます。

 

1919年(55歳)にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。(第一次世界大戦終結後にウィーン宮廷歌劇場は国立歌劇場となった) 同年歌劇「影のない女」が初演

1924年(60歳)に同歌劇場と喧嘩別れのような形で音楽監督を辞任、以後は客演指揮者として世界各国で活動、作曲にも再び本腰を入れるようになります。この年に息子フランツがユダヤ人実業家の娘アリスと結婚。

「エレクトラ」以来、長年コンビを組んでいたホフマンスタールが1929年に55歳で急逝、死去の5日前に台本を完成させていた「アラベラ」を作曲します(1933年に初演)。

 

 

1933年(69歳)1月にヒトラーが政権を握り、ナチスの独裁政権となります。同年、リヒャルトはナチスの要請で第三帝国の帝国音楽院総裁に就任。ユダヤ人のため地位を追われたブルーノ・ワルターに代わってベルリン・フィルを指揮したり、ナチスに抗議してキャンセルしたトスカニーニに代わってバイロイトで「パルジファル」を指揮するなどしました。

 

      

(写真左)R.シュトラウスとゲッベルス (写真右)R.シュトラウスとヒトラー(左は息子のフランツ)

 

このR.シュトラウスの一連の行動については今も多くの議論があるようです。

親ナチスの作曲家として非難する見解、あるいは、彼の息子の嫁がユダヤ人であり、孫もユダヤ人の血筋となるため、孫たちをとてもかわいがっていたシュトラウスは、家族を守るためにナチス寄りにならざるを得なかったと擁護する見解、シュトラウスもナチスに利用された被害者だったとする見解、逆に、シュトラウスがナチスを利用して「実利」を勝ち取っていたとする見解などがあるようです。

 

R.シュトラウスとふたりの孫(リヒャルトとクリスティアン)

 

実際、リヒャルトは、ユダヤ人だったシュテファン・ツヴァイク(1934年にイギリスへ亡命)の台本によるオペラ「無口な女」の初演のポスターからツヴァイクの名前を外せという命令を拒否したり(「ツヴァイク事件」)、自身の公的な地位を使ってユダヤ人の友人や同僚たちを救おうとしたとする話もあります。単なる「政治オンチ」だったと見る向きもありますが、もしほんとにそうならば、私からみたら相当な「能天気」「無頓着」人間としか思えません。当時の情勢はどんな人間でもわかっていたはずだと思います。家族のことも大きいだろうし、人種に関係なく(自作も含め)素晴らしい芸術作品が葬られることに我慢がならず、自分の地位を活かしてそれらを守ろうとしたのではないかとも思います。

 

 

シュテファン・ツヴァイク (1881-1942)

 

 

1935年「無口な女」のドレスデン初演時の写真

(左から初演を歌ったソプラノ歌手マリア・チェボタリ、R.シュトラウス、カール・ベーム)

 

上の写真は、8月14日のカール・ベームの命日の記事にも載せました。初演は大成功を収めたものの、3回の公演後に上演禁止となりました。

 

前述した「無口な女」の初演をめぐるゴタゴタや、かつてコンビを組んでいたホフマンスタールもユダヤ人だったため、シュトラウス作品を葬ろうとしたナチスとの関係が悪化して、1935年7月(71歳)には音楽局総裁を辞任、ウィーンで謹慎生活を送ることになりました。

 

リヒャルトからツヴァイク宛ての手紙には、

『私はいちいち自分を”ドイツ人”と考えて行動しません。モーツァルトは作曲するときに自分が”アーリア人”と意識的に考えていたと思いますか?私は、才能ある人と持たない人の2種類のみを認識します。』 と書いています。

 

1938年(74歳)に息子の妻(ユダヤ人)の祖母やその親族を釈放してもらうため、リヒャルトは強制収容所へ行き交渉しますが、最終的に26人の親族が収容所で殺害されたそうです。子供たちの釈放を懇願する手紙を何度も書いたそうですが無視されたそうです。

 

1936年(72歳)ベルリン・オリンピックのために「オリンピック賛歌」を作曲、指揮もしました。

1939年(75歳)第2次世界大戦が勃発。

1940年(76歳)に日本政府の依頼で、宣伝相ゲッベルスがシュトラウスに建国2600年を記念する管弦楽曲の作曲を要請、「皇紀2600年祝典曲」が作られました。

 

皇紀2600年奉祝演奏会のプロブラムと楽譜に書かれたシュトラス自筆の献辞

 

1942年10月(78歳)に21作目にして最後のオペラとなる「カプリッチョ」がミュンヘンのバイエルン国立歌劇場で初演、シュトラウス自身「生涯最高の作品」と語ったそうです。

(同年ツヴァイクは戦争に絶望し、妻とともにブラジルで命を絶ちました。)

 

1944年(80歳)、シュトラウスの留守中に息子夫婦がゲシュタポに拉致、投獄されました。シュトラウスは釈放するよう尽力し、なんとかガルミッシュに連れ戻すことはできましたが息子夫婦は終戦まで自宅軟禁となりました。

 

1945年(81歳)2月にドレスデンが無差別爆撃を受け国立歌劇場が崩壊、ベルリンの国立歌劇場は炎上、その後ウィーンの国立歌劇場も瓦礫と化しました。故郷ミュンヘンは71回も空爆を受けました。同年シュトラウスは「23の独奏弦楽器のためのメタモルフォーゼン(変容)」を作曲し、滅びゆく祖国ドイツとドイツ音楽を悼みました。

最後の9小節には彼が ”In Memorium”と書き込み、国家の死を描いた悲痛極まりない音楽となりました。

 

5月8日にドイツは無条件降伏しましたが、直前の日記には、

『人類史上最も恐ろしい時代の終わり。ドイツ2000年の文化史で、最大の犯罪者による無知、反文化の12年間の統治が終わる。』 と記しているそうです。 シュトラウスはガルミッシュの別荘で終戦を迎えました。

 

作曲中のR.シュトラウス

 

シュトラウスは戦後にナチスに協力したという理由で、連合国の非ナチ化裁判にかけられましたが最終的には無罪となりました。1945年10月から、1949年5月にガルミッシュに戻るまでスイス各地で過ごしました。

 

1947年(83歳)にオーストリア市民権を得ました。同年ロンドン公演で最後の指揮をしました。

 

ロンドンで指揮するR.シュトラウス

 

1948年(84歳)「4つの最後の歌」を作曲。「春」「九月」「眠りにつくとき」「夕映えの中で」のすべてが近づく死を感じさせるような深い諦観に満ちています。4曲目のアイヒェンドルフの詩による「夕映えの中で」の最後で、夫婦が寄り添い、「これが死というものだろうか」と歌われますが、ここでバックに流れるのが25歳のときに作った「死と浄化」のモチーフというのがすごいです・・・

 

亡くなる2日前にも、昏睡状態から意識を回復したときにこの25歳のときの作品「死と浄化」について語ったそうです。

『私が「死と浄化」の中で作曲したことはすべて正確だったと今こそ言うことができる。私は今しがたそれを文字通り体験してきたのだよ。』

幽体離脱でも体験したんでしょうか・・・にやり

 

1949年の今日、9月8日にガルミッシュ=パルテンキルヒェンで腎不全により他界しました。85歳でした。 葬儀は9月11日にミュンヘンで行われ、故人の遺志によりオペラ「ばらの騎士」第三幕の三重唱が歌われ、ショルティが指揮したそうです。そしてこの8か月後に夫の後を追うように妻パウリーネも87歳で他界したそうです。

晩年のシュトラウスは庭の花を見て、よく「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」とつぶやいていたそうです。

 

ミュンヘン郊外のガルミッシュ=パルテンキルヒェンにあるR.シュトラウスのお墓

妻パウリーネや息子フランツ夫妻なども一緒に眠っているようです。

彼らのお墓の後ろには雄大な山並みが見えているそうです。

 

ガルミッシュの別荘には今もリヒャルトのお孫さんが住んでいます。

以前、Eテレの「旅するドイツ語」という番組で訪れていましたが、本当に豪華な山荘でした。

 

 

超長くなりましたがあせる 今日の曲です。前述した、25歳のときの作品「死と浄化(変容)」から終結部です。シュトラウスは生来病弱で、20歳を過ぎたころは重病を患ってたびたび死の危機に直面したことがあったそうです。この交響詩は当時の彼の心境を表現しているといわれています。コーダでは、病魔から解放されて天国へと旅立つ人の心が安らかであることを願って書いているそうです。「終結部」だけはなかったので全曲載せます。

リヒャルト・シュトラウス自身が指揮したものです。

 

 

R.シュトラウス:「死と浄化(変容)」 Op.24   (23分43秒)(終結部は18分45秒くらいから)

/ R.シュトラウス&ウィーン・フィル (1944年、ウィーン)

 

 

色々と調べていたら、今までで一番長い記事になってしまいましたあせる

今回調べるまでは私も彼のことは単に親ナチの作曲家と思っていましたが、真実は本当にそうだったのかわからなくなりました。

ただ、彼はユダヤ人かどうかよりも、有能であるかどうかだけを重要視していたということはきっと本当なのだと思います。いずれにしても2度の大戦に大いに翻弄されながらもドイツにとどまり続け生き抜いたすごい人物だと思いました。今彼が生きていたらこの世の中を見てなんというでしょう?そんなことを考えました。

 

 

リヒャルト・シュトラウス (1864-1949)