皆さま、今日も一日お元気でしたか?
「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真は自分で撮影したもの以外はwikipediaなどwebからお借りしました)
今日、8月4日は・・・ワーグナーの息子 「ジークフリート・ワーグナーの命日」 です。
今日は写真が多くなっております
Siegfried Helferich Richard Wagner : 1869.6.6-1930.8.4;
ドイツの作曲家、指揮者、演出家
ジークフリート・ワーグナーは、皆さんご存知のあのリヒャルト・ワーグナーの息子、でリストの孫にあたります。
「呼んだかね?私はね、音楽史上まれにみる天才で、私より優れた作曲家はベートーヴェンだけであ~る」(←これ、実際に彼が言った言葉。自分で言うとこがウザいんであ~るw)
ジークフリートのことを書くためには、父親のリヒャルト・ワーグナーのことに触れないわけにはいきません。
リヒャルトは数々の女性遍歴のあと、リストの娘であるコジマと再婚しました。
といっても、コジマはハンス・フォン・ビューローの妻であったのにもかかわらず、リヒャルトのもとへ走り、彼との間に長女イゾルデ、次女エヴァ、長男ジークフリートを出産した翌年にビューローと正式に離婚、リヒャルトと再婚しています。
ジークフリート・ワーグナーは1869年6月6日にスイスのルツェルン湖畔のトリプシェンで生まれました。 父親のリヒャルトは56歳にしてようやく授かった待望の息子に大喜びし、当時作曲中だった「ジークフリート」の主人公にちなんで、ジークフリートと名付けました。
ちょうど1年前に、私はこのトリプシェンのワーグナー宅(現在はリヒャルト・ワーグナー博物館)に行ったので今日はそこで撮影した、ジークフリートに関する写真もまじえて書きます
スイス、ルツェルンのトリプシェンにあるワーグナー邸
(現在はリヒャルト・ワーグナー博物館)
ジークフリートはここで生まれました
両親とジークフリート
金ぴかの額縁で飾ってありました
上の写真と同じ部屋にあったもの・・・
これもその部屋にあったもの
コジマと前夫(ハンス・フォン・ビューロー)との間の子供2人と、リヒャルトの間の3人の子供それぞれに色んなオペラの恰好をさせて写真を撮ったものみたいでした。
写真右の3人がリヒャルトとコジマの子供たち(右からジークフリート、エヴァ、イゾルデ)
父リヒャルトとジークフリート
ジークフリートは絵の才能もあり、これは彼が12歳などでに描いた絵
父親の演奏旅行についてあちこちに行く機会があったようです
(ガラスケースの上から撮影のため光が反射してますオットの影も映ってるw)
父リヒャルトはジークフリートに音楽家の道を強制しなかったこともあり、彼は当初は建築家を志していました。本格的に音楽家になろうと決意したのは、父が1883年に亡くなって9年あまり経ってから、23歳のころでした。
東南アジアなどに長旅をしていたときに、シンガポールの街中でバッハの「ヨハネ受難曲」を耳にして、電撃的な感銘を受けて音楽家への転向を決意したらしいです。
ジークフリートはどちらかというと母親似かな?
1896年(27歳)にバイロイト音楽祭の「ニーベルングの指環」で指揮者としてデビュー。
同時に自ら台本も執筆し、オペラの作曲もしました。オペラの作曲数は19作品にものぼり、これは父リヒャルトより(リングを4として13作品)多い数です。他にも交響詩や協奏曲なども手がけましたが、彼の作品は生前より評価は高くなく、今日も顧みられることはないようです。
ジークフリートが最初に作曲したオペラ「熊の皮を着た男」(1898年)の譜面
見開きの左には彼の書きこみも見えます
ただ、指揮者としては優秀で、バイロイト以外でもドイツ各地で公演を行いました。
母コジマが引退後、1908年(39歳)からはバイロイト音楽祭の終身芸術監督に就任、指揮を行いつつ現在につながるワーグナー演出を打ち立て、民間の劇場としてのバイロイトを軌道に乗せました。 彼の演出はそれまで平面的・絵画的だった舞台装置を三次元の様式を用いたり、最新の照明技術を効果的に使用したり、と戦後の新バイロイト様式のはしりともいえる革新的な試みを行いました。
彼の性格はとても温厚で円満で、女癖、偏見、浪費癖、癇癪もち、とどれをとっても父親とは真反対でした
その人柄には多くの音楽家が惹きつけられ、トスカニーニも彼のためにバイロイト音楽祭への出演を快諾しています。ジークフリート自身は、台頭し始めていたナチスにも終始距離を保ち続けました。
トリプシェンの家にはこんな写真もありました
ジークフリート・ワーグナー(右)とトスカニーニ(左)
ジークフリートはイタリア語も流暢で、その温厚な人柄からもトスカニーニの癇癪をうまくコントロールしていたそうです。
ジークフリートは、1930年に母コジマが他界した約4か月後の8月4日に、そのあとを追うように心臓発作でバイロイトにて逝去しました。61歳でした。
ジークフリートと妻ヴィニフレート
ジークフリートは、46歳のときに18歳のヴィニフレートと(ほとんどお見合い)結婚しましたが、ふたりの間には、長男ヴィーラント(1917-66)、長女フリーデリント (1918-91)、次男ヴォルフガング (1919-2010)、次女ヴェレーナ (1920-2019)の4人の子供が生まれました。
ジークフリートの妻ヴィニフレート(トリプシェンの家にて)
彼女はジークフリート亡きあとバイロイト音楽祭を仕切りましたが、公私ともにヒトラーに接近、一時は結婚の噂まで出たほどでした。次女のフリーデリントはそれを嫌って1939年にイギリスに亡命、さらに1941年にはトスカニーニの助けでアメリカへ渡り、反ナチス活動などを行いました。
トスカニーニもヴィニフレートの代になってからはバイロイトとは袂を分かちました。
現在バイロイトは、ジークフリートの次男のヴォルフガングの腹違いのふたりの娘、カタリーナとエファの二頭体制で運営されています。
カタリーナ・ワーグナー(左)とエファ・ワーグナー・パスキエ(右)
(2009年バイロイト音楽祭にて)
ただこの二人も腹違いの姉妹、33歳差という年齢差もあり、必ずしも親密な関係というわけでもなさそうです。彼女らの父親ヴォルフガングは兄のヴィーラントの亡きあと、その一家と後継者を巡って争ったこともあります。そのときの火種もまだまだあるかもで、将来どうなるんでしょうね。一族の営業ってろくな事ないことが多いような。O塚家具のようにならないことを祈ってます
ちなみに今年のバイロイト音楽祭は新型コロナの影響で中止になっています。
バイロイト市民墓地にあるジークフリート・ワーグナーのお墓
妻ヴィニフレートや長男ヴィーラント、次男ヴォルフガングなどとともに眠っています
(父リヒャルトのお墓は別です)
それでは今日の曲です。リヒャルト・ワーグナーの《ジークフリート牧歌》です。
この曲についてのエピソードは以前もこのブログで書いたことがありますが、再度記しておきます。
前述したように、リヒャルト・ワーグナーは1869年、56歳にして待望の息子ジークフリートを授かりました。その翌年1870年に《ジークフリート牧歌》を作曲、同年12月25日に、妻コジマの33歳の誕生日、そしてクリスマスの贈り物
としてスイスのルツェルンのトリプシェンの自宅でサプライズ演奏されました。息子ジークフリートを生んでくれた感謝とねぎらいの気持ちも込められたこの曲は、朝7時半から演奏され、目覚めたコジマは感激で涙を流したそうです。
さきほどのトリプシェンのワーグナー邸
建物内部の曲がり階段
建物内部には、上の写真の曲がり階段がありましたが、《ジークフリート牧歌》はここで演奏されたそうです
ワーグナー自身は、指揮のためにこの階段の頂上に陣取り、演奏者たちは階段上に順番に並びましたが、最後尾のチェロとコントラバスは(曲がり階段のため)指揮するワーグナーからは見えなかったそう。この小編成の楽隊を集めたのは弟子のハンス・リヒターで、彼自身もトランペットとヴィオラを担当しました。
演奏はこの日数回繰り返され、長女イゾルデ(当時5歳)と次女エヴァ(当時3歳)は、この曲を”階段の音楽”と呼んで喜んだそうです。
私が訪れたときは、この階段は立ち入り禁止で上がれないようになっていました。
(以前は2階、3階にも上れたそうで、3階からの眺めは素晴らしいそうです。残念・・・)
この曲は原題は『フィーディーの鳥の歌とオレンジ色の日の出をともなうトリープシェン牧歌』(フィーディー(Fidi)というのは息子ジークフリートの愛称)でしたが、翌年に作られた楽劇「ジークフリート」でのこの曲との関連性(たとえば第3幕最終場でのブリュンヒルデのアリア「私は永遠でした、今も永遠です」は、本作冒頭のヴァイオリンのメロディに由来)もあり、この曲は「トリープシェン牧歌」から「ジークフリート牧歌」へと名前が改められたそうです。
リヒャルト・ワーグナー:「ジークフリート牧歌」 (17分34秒)
/ バレンボイム&シカゴ響 (1999年1月)
「私たちの一族は永遠に不滅なのであ~る! なぜなら私は音楽史上まれにみる天才で、私より優れた作曲家はベートーヴェンだけであ~るからであ~る」
だそうですよ~ん