8月1日 ~ ソヴィエトの巨匠 リヒテル 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

うぉ~い!今日からなんと8月ですヒマワリ  今月は明るいニュースが多いといいな。

 

今月も可能な限りやりたいと思います。

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真は自分の写真以外はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

それにしてもこの本、7月後半からずうっと誰かの命日をやってます汗が、8月分をざっと見てみたら、今月もほとんどが「〇〇没」でしたあせる 誰かの生誕の日より没の日が気になるのは近藤先生がお年のせいもあるのかしらイヒ というわけで命日が多いのは近藤氏のせいにしますw

 

 

今日、8月1日は・・・”伝説の巨匠” 「スヴャトスラフ・リヒテルの命日」 です。

(今日も長いです。好きな人は長いw)

 

Sviatoslav Richter : 1915.3.20-1997.8.1; ソビエト連邦のピアニスト

 

小さい頃、私は当時習っていたピアノの先生に「せかいで一番ピアノがうまいのはだあれはてなマーク

と尋ねたことがあります。 S先生はしばらく考えて、「そうねぇ。リヒテルっていう人よ ほっこり

と教えてくれました。

”せかいで一番ピアノがうまい”リヒテルっていう人の演奏を聴いてみたい!と母親とレコード屋さんに行きました。 

手に取ったLPのジャケットには怖そうな顔のおじさんが・・・ まるでプロレスラーみたい真顔

その風貌が”華麗なピアニスト”という自分のイメージとはかけ離れていたので、たしかサンソン・フランソワか誰かのLPを代わりに買った覚えがありますにやり 

 

今ではリヒテルのCDは沢山あって簡単に手に入りますが、ソ連時代は(西側諸国にとって)「鉄のカーテン」の向こう側にいる「ソ連のとてつもないピアニスト」「幻の天才ピアニスト」と呼ばれていました。 45歳になって初めて西側へデビューしたときは「100年に一人の天才」とも呼ばれました。

 

 

スヴャトスラフ・リヒテルは、1915年3月20日に現在のウクライナ領のジトーミルで生まれました。母親はロシア人、父親はドイツ人のピアニストでオデッサ音楽院の教授や教会のオルガニストも務めました。2歳のときにロシア革命が起き、ロマノフ王朝が滅亡。

リヒテルは誰からも強制されずに1人でピアノを弾き始めたそうです。しかもいきなりショパンのノクターン1番やエチュードホ短調を弾いたとかびっくり 基礎練習は大嫌いで全くしなかったそうです。 彼は束縛を嫌ってその後も独学で練習し、15歳(1931年)にして、コレペティトア(ピアノの伴奏をしながら、歌手たちに稽古をつけるコーチのような立場)としてオデッサ歌劇場に採用されました。

 

15歳のころのリヒテル一家

(写真向かって左から、父、姉、母、リヒテル少年)

 

19歳(1934年)のときにオール・ショパンプログラムで初めてリサイタルを開きました。この年からスターリンの大粛清が始まります。

22歳(1937年)でモスクワ音楽院に入学、院長で名教師のネイガウス(ブーニンの祖父ですね)に師事しました。ネイガウスは「もう何も教えることはない」と言ったそうですが、実際はたくさんのことをネイガウスから学び、彼を慕ってしまいには彼の家に住み込んでしまうほどでした。(ちなみに同門のエミール・ギレリスは1歳年下で、音楽院では2年先輩)

ネイガウスの紹介でプロコフィエフとも深い親交を結びました。

 

『 彼(ネイガウス)の生徒になれたのは幸運だった。運命は私に第二の父を与えてくれた 』

 

ちょうどこの年に在留外国人だったドイツ人の父親が逮捕されていますので余計父親の像をネイガウスに感じていたのかもしれません。

 

ゲンリフ・ネイガウス (1888-1964)  (写真は1962年)

 

『 (中略) ただ一つ確信をもって言えることは、私の生涯の最後の日までリヒテルの才能に感嘆するだけではなく、彼から学びつづけるだろうということだ 』 (ネイガウスの手記より)

 

1939年(24歳)に第2次世界大戦が勃発、翌1940年にリヒテルはモスクワ音楽院を卒業。(この年にホロヴィッツがアメリカへ亡命)

1941年(26歳)3月にプロコフィエフのピアノ協奏曲第5番のソリストを務め大成功を収めますが、6月にドイツがソ連に侵攻、独ソ戦が勃発、予定されていたリヒテルのデビュー・リサイタルも延期になりました(翌年7月に実現)。

 

そしてこの年に、4年前(1937年)に秘密警察にスパイ容疑で逮捕されていた父親が処刑(銃殺)されてしまいます。リヒテルの母親はドイツ人男性と再婚、大戦末期にドイツへ亡命しましたが・・・のちに母親の再婚相手のこのドイツ人が、実は、リヒテルの父がスパイだと当局に虚偽の密告したことがわかりました。 これを知ったときのリヒテルの衝撃はいかばかりだったでしょうか・・・

 

1945年(30歳)に全ソヴィエト連邦音楽コンクールのピアノ部門で第1位を獲得。

その後ジダーノフ時代にプロコフィエフが政府から反革命的と批判されてもリヒテルは彼とともに活動しました。

1950年(35歳)からは国外に出てチェコなど東欧諸国でも公演を行うようになりますが、東西冷戦の真っ只中でもあり、当局はリヒテルの亡命を恐れて西側での演奏を許可せず、西側では「幻の天才ピアニスト」などと呼ばれました。

 

1953年(38歳)にプロコフィエフが、その3時間後にはスターリンが死去。リヒテルはスターリンの葬儀で演奏させられたそうです。スターリンに父親を殺されたリヒテルはどんな想いで弾いたのでしょうか・・・

 

1958年(43歳)に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、リヒテルは審査員を務めました。他の審査員が政府の指示どおり、ヴァン・クライバーンに0点をつける中、リヒテルだけはクライバーンに満点をつけ他のピアニストには0点をつけ、結果アメリカ人のクライバーンが優勝しました。

 

1960年(45歳)にギレリス、オイストラフ、ロストロポーヴィチなど友人らが当局を説得、ようやくリヒテルの西側での演奏が実現します。5月にフィンランドで西側デビューを果たすと、10月にアメリカデビュー、2か月にわたって各地で公演を行いセンセーショナルな成功を収めました。

 

1969年(54歳)にヤマハのピアノと出会い、以後愛用するようになりました。

1970年(55歳)9月に大阪万博の際に初来日、以後飛行機嫌いにもかかわらず8回来日しほぼすべての都道府県(62都市:北海道から与論島や沖縄まで!)で計162回の公演を開きました。ヤマハの調律師の村上輝久氏と出会い、以降ほぼお抱え調律師となりました。

 

1970年8月31日初来日のときのリヒテル

(飛行機嫌いのためソ連のナホトカから船に乗って大阪港に到着したとき)

 

 

 

リヒテルと村上輝久氏

(1970年10月初来日の演奏旅行中、新潟のホテルにて)

 

 

1991年(76歳)にソビエト連邦が崩壊、1994年(79歳)に最後の来日公演を行いました。

1995年(80歳)にドイツのリューベックで生涯最後となる公演を行いました。

晩年はパリに住みましたが、1997年8月1日に療養先のモスクワで82歳で逝去しました。

 

モスクワのノヴォデヴィチ墓地にあるリヒテルのお墓

 

 

 

リヒテルはそれまでプロのピアニストが演奏会であまり取り上げていなかったシューベルトの作品を早期から取り上げ、その真価を知らしめました。彼は○○のピアノ・ソナタ全集、ピアノ協奏曲全集などの「全集録音」が嫌いだったそうで、気に入った曲しか弾きませんした。

 

リヒテルはその強面な風貌から気難しそうで神経質そう、って印象を受けますが(実際そんなとこもあるかもですが)実際は繊細で周囲の人にとても優しく、ユーモアたっぷりだったりします。

 

河島みどり著 「リヒテルと私」 (草思社)

 

この本は、最初は通訳として、のちに付き人として世界各地の演奏旅行を一緒に回った河島みどり氏の27年間に渡るリヒテルとの交流の中から書かれたもので、リヒテルに興味ある方は面白いし読みやすい思います。素顔の魅力あふれるリヒテル(そして貴重な秘蔵写真も!)がたくさん書かれています。

 

この本の中で私がとても印象的だったのは、リヒテルのような天才でも日々ものすごく練習しているということと、巨匠といわれる人でも不安になることがある、ということです。

 

この本の190ページからこんなエピソードが書いてあります。下差し

 

1974年のこと、精神的な不安を抱えたまま来日したリヒテルは、東京公演が終わったあと、

『 これ以上は演奏できない、ピアノが怖くて弾けない。 』 と言い出しました。リヒテルのニーナ夫人もスタッフもどうしていいかわからず、夫人はリヒテルの主治医で友人のフランス人のドクター、マルトー氏に電話して相談したそうです。リヒテル自身も電話に出て、

『 ピアノが怖い。助けてほしい。』 と訴えました。

パリから日本へ飛んできたDr.マルトーは、明るくこう言いました。

『 スラーヴァ(リヒテルの愛称)、簡単なことだ。譜面を見て弾けばいい。』

 

リヒテルは突然曲を忘れるのではないかという恐怖にとりつかれていたのです。

その後ドクターは数日リヒテルと起居をともにして彼の不安をぬぐい去ったということです。

 

その結果、その後の日本公演も順調に行われ、このとき以来リヒテルは楽譜を置いて(見てではない)演奏するようになったそうです。

このエピソードを読んだとき、私はとても衝撃を受けました。リヒテルのような大ピアニストでさえ、こういう恐怖に駆られることがあるのだ、と。以後私は、”プロのピアニストは暗譜して弾くべき”とは全く思わないようになりました。

 

1980年代になると楽譜を置くだけでなく舞台と客席の照明を落としてピアノの周囲のみをほんのりと照らして弾くスタイルになりましたが、これも『聴く人が奏者ではなく音楽に集中できるように』という意図だったそうです。

 

 

ユーリ・ボリソフ著, 宮澤純一訳 「リヒテルは語る」 (ちくま学芸文庫)

 

この本は、著者がリヒテルとの対話を書いたもので、リヒテルめちゃめちゃ語ってますw

リヒテル節が炸裂!って感じですが、批評、愚痴的な内容も多く私には読むのに忍耐が必要でしたにやり ただリヒテルの話は音楽に限らず、文学や絵画、演劇などなどまで彼の知識の深さには脱帽です。

 

ブリューノ・モンサンジョン著、中地義和・鈴木圭介訳 「リヒテル」(筑摩書房)

 

これとても高価な本なので持ってなかったんですが、この本をプレゼントしてくれた奇特な方がいたんですラブ めちゃ分厚い本ですが我慢して(!?)読みました。リヒテルが1970年から25年にわたってつけていた「音楽をめぐる手帳」という、コンサートやレコードなどの感想・批評みたいなメモがこの本で初めて公開されていて面白いです。

 

 

DVD 「スヴャトスラフ・リヒテル/謎(エニグマ)~甦るロシアの巨匠」

(監督:ブリューノ・モンサンジョン 1998年)

 

これは最晩年のリヒテル本人が自分の人生や音楽について語った超貴重なドキュメンタリー映像です。さっきの本の著書モンサンジョン氏が監督したものです。これはリヒテルファンの人にもそうでないかたにもおススメのDVDです。(you tubeでも観れるみたいですので興味ある方はどうぞ~)

これを観て私は益々リヒテルが大好きになりました。と、ともに何度も涙が出ました。

 

 

それでは今日の曲です。近藤氏が選んだのはカラヤンとの共演のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章だったのですが、却下で~すにやり

私の大好きなリヒテルの命日には、彼のシューベルトが聴きたいです。

 

 

シューベルト:ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D.664   (25分18秒)

/ スヴャトスラフ・リヒテル (Pf)

 

 

シューベルト:ピアノ・ソナタ 第6番 ホ短調 D566   (21分2秒)

/ スヴャトスラフ・リヒテル (Pf)  (1977年 オールドバラ音楽祭 ライブ)

 

そしてこれ、ラフコンの2番。私はこの曲ではいまだにこれを超える演奏はないのでは、と思うくらいです。リヒテルは他のオケや指揮者でもこの曲の録音がありますが、私の中ではこれがベストです。

 

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 Op.18 

(34分41秒:第2楽章;11分6秒~、第3楽章;23分2秒~)

/ スヴャトスラフ・リヒテル、ヴィスウォツキ&ワルシャワ・フィル (1959年 ワルシャワ・フィルハーモニー・ホール)

 

私はリヒテルが弾いたものすべてが大好きというわけではありません。同じ曲でも年によっては武骨すぎて粗削りに聴こえるものもあります。

ただ、(私にとって)ぴたっとハマった彼の演奏は、ストレートに胸に響いてきます。

リヒテルの口下手なところ、不器用なところ、でも周囲の人にはとても優しい気遣いの人であるところ、陰ではものすごく努力しているところ、すべてひっくるめて彼が大好きです。

 

 

『 華美なもの、余計な音は要らない。ピアニッシモを静かにするのが大事。大きな音を大きく叩くことは誰でも出来る。削ぎ落した芯の音を。』 (スヴャトスラフ・リヒテル)