皆さま、今週もお元気で過ごせましたか?
7月も今日で終わりです! 今月は豪雨災害や新型コロナなど辛いニュースばかりでした。
来月は明るいニュースが少しでも増えるよう、切に願っています
7月最後の「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はすべてwikipediaなどwebからお借りしました)
今日、7月31日は・・・不世出のヴィルトゥオーゾ 「フランツ・リストの命日」 です。
Franz Liszt : 1811.10.22-1886.7.31; ハンガリー出身のピアニスト、作曲家
(ピエール・プチによるリストの肖像写真 (1866年 フランス国立図書館 Gallicaより)
いよいよこの人が出てきましたよ~ 泣く子も黙る(?) フランツ・リストです。
このシリーズでたくさんの大作曲家について書いてきましたが、この方、実にたくさんの作曲家の生涯に登場し、大きな影響を与えていることが多いんですよね
「ピアノの魔術師」と呼ばれ、「交響詩」の創始者でもあるリスト。彼自身の生涯はどうだったのでしょうか・・・ すみません、今日(も)長たらしいですが自分用です
フランツ・リストは、1811年10月22日にオーストリア帝国領ハンガリー王国にて生まれました。
ハンガリー出身として知られるリストですが、ドイツ語やフランス語他数か国語を話した彼も、実は生涯ハンガリー語は話せなかったそうです。
アマチュア音楽家の父に6歳からピアノを学び、9歳で公開演奏会を行いました。この演奏会の成功で奨学金を得て、11歳でウィーンに移住、ウィーン音楽院でピアノをツェルニーに、音楽理論をサリエリに学びました。リストの父は職を辞め、家財道具を売り払って息子の教育のためウィーンに行ったそうです。
子供の頃のリスト
翌1823年(12歳)にウィーンで3回目の演奏会を開いたときに、神童の噂を聞いた晩年のベートーヴェンが列席(ベートーヴェンの弟子であり、リストの師だったツェルニーが引き合わせたようです)、ベートーヴェンは、彼の作品を演奏した少年リストを抱き上げて額にキスをして、
『しっかりやんなさい。幸運なやつだ!お前は多くの人たちに喜びと幸福とを与えるだろうから。世の中にこんな立派な美しい仕事はない!』 と言ったそうです。(後年リスト自身がこのエピソードを涙を浮かべながら語ったとか。)
リスト少年の演奏に感心してリストにキスするベートーヴェン
( National Museum, Budapest)
同年パリへ行き、パリ音楽院に入学しようとしますが、当時ピアノ科は外国人は入学できないという規定があり諦めます。しかしパリでのソロ・リサイタルは大成功を収め、早々にピアニストとしての名声を確立しました。
リストは13歳から25歳までの12年間パリに滞在、同地でショパン、ベルリオーズ、また作家ユゴー、詩人ハイネなど多くの著名人と交流しました。
1827年(16歳)に父が死去(この年にベートーヴェンも死去)。
1831年(20歳)にパガニーニのパリ公演を聴いて衝撃を受け、「ピアノのパガニーニなる!」と言ったのは有名な話です。
1833年(22歳)にパリで出会った6歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人と恋に落ちます。28歳のマリーは家も夫も捨ててリストのもとへ走り、スイスへ逃避行の後、同棲関係を10年間続け3人の子をもうけました(次女のコジマはのちのワーグナーの妻)。
マリー・ダグーの肖像画(アンリ・ラマン画)
1838年(27歳)にドナウ川が氾濫し、ブタペストが大洪水に見舞われたときにはチャリティーコンサートを開催し、演奏会で得た純益金25.000グルデンを全額寄付したそうです。
1839年(28歳)、マリーと子供たちをスイスへ残してヨーロッパ各地へ演奏旅行に出かけました。公演先は、モスクワ、リスボン、ダブリン、イスタンブールにまで及び、各地でリスト・フィーバーを起こしました。「ピアノのソロ・リサイタル」という興行形態を初めて確立したのがリストと言えます。ベルリンでは3か月で20回以上も公演を行いましたが、その度に会場に入れない聴衆が増え大騒ぎになったそうです。
若き日のリスト
(Scheffer画 Liszthaus, Weimar)
しかもこのイケメンぶりですので、各地で「リストマニア」と呼ばれる熱狂的ファンに囲まれるアイドル的存在となり、演奏中には女性ファンの失神者が続出したとか
(リスト自身も演奏中に気絶したこともあったとか。YOSHIKIみたいやんw) リストの入った風呂の残り湯を盗まれる、飲み残した紅茶をファンが香水瓶に入れて持ち歩く、中には各地を追っかけする女性まで・・・ 昔も今も変わらないんですね~
リストの演奏に熱狂する上流階級婦人たち
(1842年のベルリンでの熱狂ぶりを描いたもの)
もちろん美貌だけでなく彼の超絶技巧はものすごく、「リストは指が6本ある」という噂が信じられていたほとだそう。実際リストの指はとても長く、人差し指は11センチ、中指は12センチもあったそうで(ちなみに私は8センチw)、「ド」から「ソ」までの12度の音程が楽々届いたそうです。どんな曲も初見で弾きこなし(ただし!ショパンのエチュードOp.10だけは初見で弾けなかったそう)、楽譜はもちろん鍵盤さえ見ずに音だけを聴いて演奏していたという話です。
ダイナミックな和音強打で終わる曲で演奏終了のときに、両手を高く挙げる といったパフォーマンスを始めたのもリストです。
リストが演奏旅行用に持ち歩いていた無音の鍵盤
リストは無音の鍵盤を愛用しており、自宅にも机の真ん中の引き出しにこのような鍵盤を仕組んだものを持っていましたが、これは旅行用のようです。
折りたたんで蓋をすればヴァイオリンのケースのようになるそうです。
1844年(33歳)にはマリーとの同棲を解消(この2年後にマリーは作家となり小説の中でリストのことを”しみったれた男”とこきおろしている)、再びピアニストとして活動しましたが、1847年(36歳)に演奏旅行で立ち寄ったウクライナ公国のキエフで、今度はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン公爵夫人と恋に落ち、同棲しました。リストいわく、『 あなたは我が魂の中の魂なのだ 』 彼女とは正式な結婚を望みましたが、カトリックでは離婚が禁止されているなど様々な障害があり、認められませんでした。
ただ、カロリーネとの同棲生活を通じてリストは生活態度が大きく変わり、リストマニアとの情事にふけることもなくなりw、生真面な仕事人間となりました。
カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン
(1847年撮影:リストと出会ったころ)
1848年(37歳)、リストはピアニストとして人気絶頂でしたが、「才能を作曲活動に注ぐべき」というカロリーネの助言もあり、8年間の演奏旅行から引退してワイマール大公の宮廷楽長(指揮者)に就任しました。リストの主要作品はここから1859年に同職を辞任するまでの約10年間のワイマール時代に生まれています。
ワイマール時代にリストは新たなジャンル「交響詩」(←リストが命名)を創始、のちに「ハムレット」「マゼッパ」など13曲の「交響詩」を書いています。
またリストは宮廷楽長として自作以外にワーグナーの作品を積極的に取り上げ、「ローエングリン」を初演するなど、ワーグナーと生涯の友情を築きました。リストによりワイマールはドイツ後期ロマン派音楽の中心地となりました。
この時代の作品として、ピアノ協奏曲第1番、第2番、「愛の夢」、「パガニーニによる大練習曲」(この曲の第3番が有名な「ラ・カンパネラ」)、ピアノのための12の練習曲「超絶技巧練習曲」第3稿(ツェルニーに献呈)、「ハンガリー狂詩曲」、「ダンテ交響曲」、「ファウスト交響曲」などがあります。
1859年(48歳)にワイマールの宮廷楽長を辞任しました。
1861年(50歳)、出会って14年が経ったリストとカロリーネでししたが、なんとか正式に結婚するため、カロリーネはローマの教皇庁に夫との婚姻無効を認めてもらいます。そしてリストの50歳の誕生日当日に挙式を挙げるところまで整っていましたが、いよいよになってローマ法王から式の延期を命じられました。カロリーネの親族が結婚の異議申し立てをしたためでした。結局結婚は実現できませんでした。
カロリーネはこれも神様の思し召しと考え、そのまま宗教者となりました。1865年(54歳)にリストもまたローマの修道院へ入り、黒衣をまとい在俗の聖職者となりました。リストとカロリーネは別々に宗教生活を送りましたが、リストが没するまで文通を続けました。
1869年(58歳)ワイマールからの強い要望でローマから戻り後進の指導にあたりました。
その後ローマ、ワイマール、ブタペストを往来しながら教職や作曲活動を行いました。
1877年(66歳)にピアノ作品である「巡礼の年」が完成、ドビュッシーの印象主義を先取りした作品となりました。
ワイマールのリスト晩年の家(現:リスト博物館)
1869年から亡くなる1886年までの17年間をここに住んで、作曲や後進の指導などをしました。
2階にあるリストの音楽室とリヴィングルーム
ベヒシュタインのピアノ、横縞のカーテンや奥の壁にかかっているベートーヴェンの肖像画に至るまで往時のまま保存されているそうです。
上の写真の部屋にいる晩年のリスト (Louis Held 撮影)
リストはバイロイト音楽祭でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を観た後、風邪から肺炎を起こし、1886年の今日、7月31日に心筋梗塞などで急逝しました。75歳でした。晩年は慢性気管支炎やうつ病、白内障などに悩まされていたそうです。そのためなのか1880年以降は5分以上の曲はほとんど書いていないそうです。その代わり音楽はさらに深遠となり、最終的に1885年(亡くなる前年)に「無調のパガデル」で無調音楽を完成させました。
ナダールが撮影した晩年のリスト
リストの死後、カロリーネ(カトリック教徒)はバイロイト(プロテスタントの土地だったため)での埋葬に強く反対しましたが、娘でワーグナー夫人のコジマの強い希望でバイロイトに埋葬されました(こういうとこコジマきらいです)。
ワイマールの市民墓地にあるリストの霊廟
中にあるフランツ・リストのお墓
リストの作品は多数の改訂稿もあるため総数は1400曲を超えるそうです。未確認の作品も400曲以上あるといわれています。彼の死後、彼を超えるピアニストはもう現れないだろうともいわれています。
リストは指導者としても大変優れ、400人とも500人ともいわれる弟子を指導しました。
彼は芸術家が演奏以外で巨額の収入を得るのは好ましくないとして、無料で指導を行ったそうです。 自分の生徒には自分を真似ることを嫌い、各人の個性を伸ばすように指導し、技術面での指導は最小限にしたそうです。
マスタークラス(公開レッスン)を考案したのもリストだそう。
リストと彼の生徒たち(1884年)
今まで私がこのシリーズで書いた作曲家たちの中でも、スメタナ、グリーグ、シューマン(室内楽作品を書くよう勧めたのはリスト。クララとの結婚式にも参列)、グリンカなどを支援、励まして少なからず影響を与えています。
それでは今日の曲です。数あるリストの曲の中で何かな~と思ったら、意外とベタな、「ラ・カンパネラ」でした この曲で私が大好きな演奏、チョ・ソンジンのものを載せます。
フランツ・リスト:「パガニーニによる大練習曲」第3番 嬰ト短調 「ラ・カンパネラ」 (6分7秒)
/ チョ・ソンジン (Pf) (2012年6月1日 シャトレ座(パリ)にて)
これアンコールでの演奏だと思いますが、このときチョ・ソンジン18歳!
短いこの曲の中でもストーリー性というか、曲の構築能力の素晴らしいこと!
初めてこれを聴いた(観た)ときは驚愕するとともに涙ウルウルでした
昔は、「リストってナルシストなんじゃないの~?」くらいにしか思ってませんでしたが、(リストの娘やその夫はおいとくとしてw)私はリストという人間そのものが大好きになりました。
「年取っても髪型はずっとボブスタイルだよ~ん」