7月30 日 ~ 名匠セル、離日直後の悲報 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日も一日お元気でしたか?虹

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はすべてwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、7月30日は・・・名指揮者 「ジョージ・セルが亡くなった日」 です。

 

 

George Szell : 1897.6.7 - 1970.7.30; ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト

 

ジョージ・セルといえば、私は大きな眼鏡の奥からのぞく強い眼力、厳格で怖そうな指揮者、というイメージです。CDも何枚か持っていると思いますが、「セルの指揮だから買った」というわけでもありません。彼はどんな生涯を送ったのかもほとんど知りませんでした。

 

 

ジョージ・セルは1897年6月7日にハンガリー(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)のブタペストで生まれました。父はハンガリー人、母はスロバキア人で3歳のときに一家はユダヤ教からカトリック教に改宗しました。

幼いころからピアノに優れた才能を示し、「神童」と呼ばれました。3歳ハッからウィーン音楽院でピアノ、指揮、作曲を学び、11歳(1908年)でウィーン響と共演してモーツァルトのピアノ協奏曲を弾いてピアニストとしてデビュー。ヨーロッパ各地へ演奏旅行を行い、自作の曲も披露、「モーツァルトの再来」とも評されました。

 

16歳(1914年)の時、病気の指揮者の代役としてウィーン響を指揮して指揮者としてもデビュー。同年ベルリン・フィルを指揮して自作品も発表しました。彼はピアニストや作曲家としても優れていましたが、最終的には指揮者の道を選びます。

 

1915年(18歳)にはリヒャルト・シュトラウスに認められ、ベルリン国立歌劇場のアシスタント指揮者を経たあと、1917年(19歳)にシュトラスブルク市立歌劇場指揮者、次いでプラハ・ドイツ歌劇場、ダルムシュタット、デュッセルドルフの歌劇場の指揮者を歴任、1924年(27歳)にはエーリヒ・クライバーの下でベルリン国立歌劇場の第一指揮者に就任。1929年(32歳)にはプラハ・ドイツ歌劇場の音楽総監督とチェコ・フィルの指揮者に就任しましたが、この頃台頭してきたナチスに脅威を感じてイギリスへ移動、セントルイス響やスコティッシュ管などに客演しつつ活動を続けました。

 

1939年(42歳)にオーストラリアへの演奏旅行の帰途に第二次世界大戦が勃発、帰国をあきらめアメリカへ移り、のちに帰化しました。トスカニーニの援助でNBC響の客演指揮者として迎えられた後、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルなどを指揮しました。

 

1946年(49歳)にクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任

この頃同楽団はアメリカの一地方オーケストラに過ぎず、決して一流とはいえませんでしたが、経営陣から一切のマネジメントの権限を手に入れたセルは大改革を行います。楽団員の半分以上をクビにし、罵声を浴びせながらも徹底した訓練を行い、10年足らずで世界第一級のオーケストラに育て上げました。 とくにアンサンブルの精密さと音色の統一されたハーモニーという点には定評があり、セルが指揮した同楽団を史上最高のオーケストラの一つと評する人も少なくないそうです。 彼は24年にわたって同楽団を率いました。


1960年代にはウィーンやベルリン、ロンドンでも客演を行いました。

1970年5月13日から27日にかけて、大阪万博を記念した企画のひとつとしてクリーヴランド管を率いて初来日。 このときの演奏は日本のクラシック音楽演奏史上でも最高のものの一つと評されているそうです。帰国後わずか2か月余りの1970年の今日、7月30日に多発性骨髄腫のため急逝しました。73歳でした。


セルは、精密なアンサンブルを作り上げることで端正で均整の取れた極めて完成度の高い音楽が持ち味ですが、一方で、感情移入を行わない禁欲的で厳密な解釈が「冷徹な」指揮者とする評価もありました。

 

そんな怖いセルのエピソードをひとつ。ウィーン・フィルの客演に招かれたときのことです。ウィーン・フィルの団員たちが、彼の指揮に対して勇気を出して文句をつけたときのこと、セルはきっぱりとこう言ったそうです。

 

『わたしは諸君に招かれてきた。だから諸君は私を追い出すこともできる。つまり二つの道がある。諸君の馴染んだやり方でやるか、わたしのやりたいようにやるか。わたしは最初のやり方に賛成しない。だから第二の道しかないわけだ!爆弾

 

ルーベルト・シェトレ著「舞台裏の神々 指揮者と楽員の楽屋話」 

(喜多尾道冬訳 音楽之友社)

 

このエピソードはこの本上差しの中に書いてあったものです。(この本面白いんですけどやや読みにくい・・)ウィーン・フィルには1960年代に客演しているようなのでそのころの話だと思いますが、ウィーン・フィルに対してこう言い切れるセル、すごいですにやり

 

 

前述したように、セルはクリーヴランド管とともに、1970年5月に初来日していますが、当初は”ナチス・ドイツと手を組んだ日本などになぜ行かねばならんのだむかっ”とゴネたそうです。

ヨーロッパでの前途洋々たる将来を奪ったのはヒトラーと彼が起こした第二次世界大戦でしたからそう思っても仕方ないと思います。

 

しかし、かつての”敵国”に来てみると、熱心な聴衆に大歓迎され、演奏会の合間に行った古い寺院をいたく気に入ったり、新幹線の中で奥様に隠れて飲んだコーラがおいしかったかお、など来日前とは異なり、日本の印象はだいぶ良かったようです。

ただ、来日したときもすでに体調はあまり良くなく、いざという時のためにブーレーズも同行していたそうです。

 

ちょうど同時期にカラヤンとベルリン・フィルが来日しており、前評判、注目度合いともにこちらの方がダントツだったようですが、セルの演奏会を聴いた吉田秀和氏が絶賛した批評が新聞に掲載されると、世評が一変したのだそうです(ゲンキンやな~w)。こうして来日公演の間は、カラヤン&ベルリン・フィルより人気が高く、多くの聴衆に感動を与えました。

このときの演奏会の様子はCD化されています。下差し

 

「ライヴ・イン・東京1970」 (2枚組; SICC1073:ソニーミュージック)

/ ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団 (1977.5.22 東京文化会館ライブ)


この約2か月後に彼が急逝するとは聴衆の誰も予想していなかったかもしれません。

ちなみにセルが他界した前日には大指揮者のジョン・バルビローリが初来日直前で亡くなっています。

 

 

それでは今日の曲です。上のCDにも録音されていますが、ベルリオーズの《ファウストの劫罰》より「ラコッツィ行進曲」です。これはアンコールとして演奏されたもので、近藤氏は、

「(このときのこの曲を聴くと)『すべては音楽のために』 と言ったセルの鉄の意志に包まれた情熱に感動を新たにする」 と書いておられます。

・・・だったのですが、you tubeで見つけることができなかったのであせる、興味あるかたはCDで聴いてくださいaya

 

その代わりにセルがクリーヴランド管を実際に振っているものが観ることができるものを選びました。

 

これはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第1楽章のリハーサルの様子 (7分51秒)

 

このリハを見る限りでは、罵声を浴びせながらの厳しいリハ!って感じは全くないです。

クリーヴランド管を率いてすでに20年が経ったころの映像なので、もう阿吽の呼吸なのでしょうか。

満足したときは「That's good!」とか褒めたり、奏者を見てにっこり微笑んだりもしてます。

ただリハから本番さながらの熱い指揮だと思いました。

 

クリーヴランド管では週2回の演奏会のために7回の練習を行っていたそうですが、ある楽団員は、「演奏会が9回あるが、たまたまそのうちの2回に客がいるにすぎない」 と言ったそうです。 セルはリハはほどほどに切り上げて、ということはせず、納得いくまで練習を繰り返し完璧をめざしたそうです。

 

 

ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 Op.67 「運命」より 第4楽章 (9分38秒)

/ ジョージ・セル&クリーヴランド管  (1966年)


これはさっきのリハの本番ではないかと思います。50秒すぎにある奏者に向かってだと思いますが、ちょっと微笑みながら指でオッケー👌、2分頃には今度はグーグッド! とかしているのがなんか可愛らしいですにやり

 

 

クリーヴランド管弦楽団は、セルの没後に大幅に定期会員が減少したそうですが、それを呼び戻したのがロリン・マゼールです。彼も厳しいトレーニングにより輝かしいオケの響きを取り戻し様々なディスクで国内外の賞を獲得しました。

2018年6月には同楽団の創立100周年記念ツアーとして、現音楽監督を務めるフランツ・ウェルザー=メストと来日、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を行ったのも記憶に新しいです。

 

私はまだこのオケを生で聴いたことがないので、いつの日か体験してみたいです。