7月29日 ~ シューマン 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日も一日お元気でお過ごしでしたか?虹

今日は私が外に出ているときに限って毎回土砂降り雨で、室内に入るとカラッと晴れました・・・ なんじゃおりゃ~~爆弾

 

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。

 

今日、7月29日は・・・作曲家 「ロベルト・シューマンの命日」 です。

 

Robert Alexander Schumann : 1810.6.8 - 1856.7.29 ; ドイツ・ロマン派の作曲家

 

今年はシューマンの生誕210年です。そして今日はシューマンが46歳の若さで亡くなった日。

このシリーズで、6月8日のシューマン生誕の日にシューマンの生涯の前半、クララとの結婚までを書きました。下差し

 

 

 

今回は結婚後~その生涯を閉じるまでを書きたいと思います。

 

 

大きな障害(=クララの父ヴィークのことですがw)を乗り越えて1840年(30歳)9月12日に結婚式を挙げたロベルトとクララ。 結婚後4年間はライプツィヒに住みました。

 

ふたりが暮らしたライプツィヒの家

 

それまではピアノ曲の作曲中心だった彼ですが、この年は「歌曲の年」と呼ばれるように、「リーダークライス」、「ミルテの花」、「詩人の恋」など一年で120曲以上もの歌曲を作りました。

(翌1841年は「交響曲の年」、1842年は「室内楽の年」とよばれています)

 

結婚の翌年1841年には長女マーリエが生まれ、その後も1-2年くらいの間隔で1854年まで全部で8人の子供が生まれました(長男エミールのみ1846年に生まれた翌年に夭逝)。

シューマンは子供好きで子供はいくら多くてもかまわないという考えでしたが、クララはシューマンの収入だけでは生活費が足りず、家計を支えるために演奏旅行の回数も増やさないとならない、でも、ロベルトが家にいるときはピアノも存分に練習もできない、子供はたくさんいて育児も主婦業もしないといけない・・・汗 と相当大変だったと思います。

 

生むのはクララ、育てて世話するのもクララ、金稼いでくるのもクララ、ってね~、あんたね~むかっといいたくなりますにやり ただシューマンも稼ぎが悪いということは重々自覚しており、そのせいで神経衰弱気味になり「疲労」で倒れて温泉に保養に行ったりしています。

 

1843年(33歳)にメンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院に講師として招かれます。

ベルリオーズとの交流に刺激を受け、オラトリオ「楽園とペリ」を完成、初演を成功させました。この年にクララの父ヴィークとついに和解しましたクラッカークラッカー

 

1844年(34歳)にふたりは約4か月間ロシアに滞在、クララはロシア皇帝の前で御前演奏まで行いましたが、ロベルトは「名ピアニストの夫」という扱いでした。帰国後にロベルトは重度の神経疲労に陥り、作曲もできなくなりました。

 

シューマンが描いたモスクワのクレムリン宮殿(1844年)

 

病気の回復のため環境を変えようとして、また、ゲヴァントハウス管の常任指揮者を辞任したメンデルスゾーンの後任に選ばれなかったことに落胆したこともあって、一家はライプツィヒ音楽院の職を辞してドレスデンに転居しました。

 

シューマン夫妻にとってドレスデンはライプツィヒに比べて音楽的にも遅れており、音楽家も冷遇されていました。ドレスデンには1850年(40歳)まで住みましたが、時々神経症状に悩まされながらも、「ピアノ協奏曲」、「交響曲第2番」、「マンフレッド序曲」、ピアノ曲の「森の情景」や「子供のためのアルバム」などを作曲しました。

 

ドレスデン時代のシューマン夫妻(1847年)

 

余談ですが、この頃ふたりが行ったウィーン公演ではジェニー・リンドと共演してるそうです。ジェニー・リンドって、あのミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン 」で、”ネバ―、ネバー!納豆じゃないよ~音符”って歌ってた(納豆までは歌ってないw)歌手ですよね?チュー  シューマン夫妻とも共演してたとは!実際はこんなお顔だったんですね。

 

ジェニー・リンド (1820-87)

 

シューマンは定職に就きたいと思うようになり、ウィーン音楽院の院長職やメンデルスゾーンの死後のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の指揮者など希望しましたが、いずれも実現せず。

ちょうどそのころデュッセルドルフから音楽監督就任の打診があり、1850年(40歳)秋にデュッセルドルフへと移り住みました。

 

40歳頃のシューマン(1850年)

 

デュッセルドルフでシューマン夫妻は歓迎され、ロベルトはオーケストラと合唱の指揮を担当し、最初のシーズンは成功、「交響曲第3番「ライン」」や「チェロ協奏曲」、「ヴァイオリン・ソナタ第1番」などを作曲しますが、次第に神経症が悪化し、言語障害や自閉癖による団員とのコミュニケーション能力の欠如、指揮のテクニック不足などが表面化します。

当初はロベルトに好意的だった関係者も次第に彼を批判するようになり、オーケストラの理事会はロベルトの辞任を求めて総辞職するなどトラブルとなりました。

 

1853年(43歳)9月に当時20歳のブラームスが、ヨアヒムの紹介状を持ってシューマン宅に訪れました。自作のピアノ・ソナタを聴いたシューマンは、10年ぶりに「新音楽時報」へ寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛し、彼の名を楽壇に広く紹介しました。ブラームスにとってシューマンは生涯の恩人となりました。

 

シューマンはヨアヒムに触発されて、「ヴァイオリン・ソナタ第2番、第3番」、そして遺作となる「ヴァイオリン協奏曲」を作曲しました。

同年秋にヨアヒムを招いての公開コンサートで、指揮台に立ったシューマンは(病気の進行のため)演奏を開始することすらできず、この日を最後に指揮台に上ることはありませんでした。

シューマンの病状は次第に重くなり、神経過敏や言語障害、麻痺の発作などに悩まされ次第に話す内容も意味不明となっていきました。

 

1854年(44歳)のはじめにはヨアヒムやブラームスとともに演奏旅行に出かけ、ハノーファーでの公演を成功させたりしたのですが、同年2月に入ると耳の激痛や悪魔の幻覚などに襲われ、2月26日には自身で精神病院に入ることを希望しました。翌27日にはガウンとスリッパのまま家を抜け出して真冬のライン川へ身を投げました。 これを偶然目撃した漁師に救助され命はとりとめましたが、家に連れ戻されたシューマンは再び精神病院への入院を望み、3月4日にボン近郊のエンデニヒの療養所に収容されました。

このときクララは妊娠中で疲労も極致に達していたことより、医師はシューマンに会うことを許可せず自殺未遂のことも伏せていました(クララがこれを知ったのはロベルトの死後2年後だそう)。シューマンが入所後3か月後に末子のフェリックスが生まれました。

 

シューマンが没するまで過ごしたエンデニヒの療養所

(現在は2階はシューマン記念館)

 

入所して当初は外出してベートーヴェン記念碑を訪ねたり、部屋にはピアノや五線譜も置かれ編曲などもしていたようです。刺激を与えないようにクララの面会は禁じられましたが、ブラームスやヨアヒムなどが面会に訪れました。 シューマン自身も回復できると思っていたようですが、病状は進行し、1856年の6月8日、シューマンの46歳の誕生日にブラームスが面会に訪れたときには彼は寝たきりとなっていたそうです。

 

容態急変の電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒへ行き、2年ぶりにロベルトに会ったとき、彼は微笑んで自由のきかなくなった身体を懸命に動かして自分の腕をクララに回して抱擁したそうです。7月29日にロベルト・シューマンは46歳でその生涯を閉じました。

2日後にボンで葬儀があり、ブラームスやヨアヒムらが棺を担いだそうです。

 

シューマンは精神の病に冒されていた、という印象が強いかと思うんですが、1994年に療養所の医師のカルテが公開され、シューマンの死因は梅毒による脳軟化症、進行性麻痺だったと報道されたそうです。戦後発表された論文でも、再調査の結果、シューマンのすべての症状に適合するのは第3期梅毒しかないという結論だったようです。

だとすると、色んな症状が至極合点がいくのではないかと思いました。

 

 

37歳で夫を失ったクララはその後一切の作曲をやめ、ピアニストとして女手一つで7人の子供たちを育て上げました。

シューマンの死後、子供たちとベルリンへ移り、1863年からはバーデン=バーデンを拠点として外国演奏旅行を増やし、ロベルトやブラームスの作品を広めました。

1872年(53歳)から20年間フランクフルトの音楽院で教師を務め、1879年(60歳)から14年かけて全29巻のシューマン作品全集を刊行しました。(ただ、彼女は夫が精神病のイメージで語られることを避けたい理由で、最晩年の頃の作品(1853年の「ピアノとチェロのためのロマンス」など)や手紙の多くを廃棄してしまったのは残念なことです・・・)

クララは1896年5月20日に脳出血のため76歳で亡くなりました。ボンのロベルトが眠る墓に葬られました。ブラームスがクララの棺に土をかけたそうです。

 

クララ・シューマン(1878年 フランツ・フォン・レンバッハ画)

 

 

ボンの旧墓地にあるシューマン夫妻のお墓

 

上部にはシューマンの横顔のレリーフ

(上の写真の)下から見上げているミューズはクララでしょうか

 

 

手前にはふたりの名前が刻まれています

 

 

それではやっと今日の曲、近藤氏が選んだのは、シューマンの《子供の情景》より「トロイメライ」です・・が、せっかくなので《子供の情景》全曲を載せたいと思います。

 

この曲はシューマンが29歳(1839年)のときに出版されましたが、リスト(彼については明後日(31日)に書く予定です)を非常に感動させたそうです。リストは、『この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた』と、シューマンへの手紙に書き、週に2,3回は娘のために弾いていると明かしています(マリー・ダグーとの子供のこと)。

『この曲は娘を夢中にさせますし、それ以上に私もこの曲に夢中なのです。というわけで私は、しばしば第1曲を20回も弾かされて、ちっとも先に進みません。』

 

1839年に描かれたシューマン(ちょうどこの曲を書いたころ)

 

 

有名なトロイメライは第7曲ですが、第1曲も他の曲も私は大好きです音符

シューマンは後に「子供のためのアルバム」なども書いていますが、シューマン自身によると、「子供の情景」はそれらとは異なる、「子供心を描いた、大人のための作品」だそうです。

 

 

シューマン:「子供の情景」 Op.15  (17分49秒)

/ ウラディミール・ホロヴィッツ (Pf)  (1987年6月)

 

ホロヴィッツもこの曲が好きみたいで、トロイメライはよくアンコールで弾いていました。

 

 

「子供の情景」といえばビックリマーク

長くなってすみませんが、この本を紹介して終わります。下差し

 

森 絵都 「アーモンド入りチョコレートのワルツ♪」 (角川文庫)

 

3つの短編からなる本ですが、シューマンの「子供の情景」バッハの「ゴルトベルク変奏曲」サティの「童話音楽の献立表(第3曲が「アーモンド入りチョコレートのワルツ」)をそれぞれモチーフにして書かれています。

 

中でも私が最も印象に残ったのが、「子供の情景」のことを書いた第1話「子供は眠る」という話です。

少年たちが夏休みにちょっと年上のお兄ちゃんの別荘に遊びに行くんですが、お兄ちゃんが毎晩この曲のLPを強制的に子供たちに聞かせるんです。4人の子供たちはクラシックには全く興味がないので、第1曲~第2曲~と進んでいくうちに必ずみんな寝てしまうzzzぐぅぐぅ

主人公の男の子は果たしていつかは最後まで聞きとおせる日が来るのか?・・ってな話ですごく印象に残っていて、いまだにこの曲を聴くとこの話を思い出してしまいますニコ