皆さま、7月最初の週末はいかがお過ごしでしたか?
九州南部の豪雨は大きな被害をもたらしています。特に熊本の人吉市などは甚大な被害です。
あのあたりは田舎のせいなのか戸建ての家が多いみたいですね。なので川が氾濫するとあっという間に水没してしまうのでしょうか・・・ 被害の映像を見るたびに胸が痛みます。
明日も九州(特に南部)は大雨の予想がでています。危険な地域の方々は早めに避難するなど自分の身を守ってください! どうかこれ以上被害が大きくなりませんように。
「今日はなんの日」のコーナーです。
出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。
今日、7月5日は・・・ドイツの大ピアニスト 「ヴィルヘルム・バックハウスが他界した日」 です。(写真はすべてwikipediaなどwebからお借りしました)
Wilhelm Backhaus : 1884.3.26-1969.7.5 ; ドイツ出身のピアニスト
ベートーヴェンやブラームスの音楽において深い精神美をたたえた演奏を聴かせたドイツ出身(のちにスイスに帰化)の大ピアニストのバックハウス。今日は彼が85歳で他界した日です。
彼は若いころから壮年期までは大変なテクニシャンで、演奏も無骨で男性的、いかにもドイツ人らしい巨匠として、”鍵盤の獅子王”と呼ばれました。
私が彼のCDで初めて買ったのは、ブラームスのピアノ協奏曲第2番のものです。
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番/カール・ベーム&ウィーン・フィル、バックハウス
(1967年4月ウィーンにて録音)
そうそう、このジャケ写です。
バックハウスが82歳のときの演奏ですが、私が受けた印象は、「(ズボンが)すごくハイウエストのおじいちゃんだなぁ」ということでした ←それかよ!
以来、バックハウスという名前を聴くと、「ハイウエストのおじいちゃん」を思い浮かべてました。 これを機会にハイウエスト以外にも彼のことを調べてみました~
ヴィルヘルム・バックハウスは、1884年3月26日にドイツのライプツィヒで生まれました。幼い頃から母にピアノを習い、7歳でライプツィヒ音楽院に入学。
11歳のときに、ブラームス本人の前で演奏し、賞賛されたというエピソードがあるそうです。
13歳(1897年)のときにリストの直弟子のオイゲン・ダルベールに師事しました。つまりは、ベートーヴェン→ツェルニー→リスト→ダルベール→バックハウスということになり、バックハウスは”ベートーヴェンの直系の弟子”ということになります。 当時ダルベールは全く弟子をとっていませんでしたが、バックハウスの才能を見抜き、例外として彼に多くのことを教えました。このときにバックハウスが得たベートーヴェンの解釈が後の彼の演奏につながっていると思われます。
1900年に16歳でのロンドンデビューで大成功を収め、コンサートツアーを行いヨーロッパで名声を博しました。
1905年、21歳のときにパリでの「アントン・ルビンシュタイン国際コンクール」のピアノ部門で優勝、その時2位になったバルトークがピアニストの道を断念し、のちに作曲家の道へ進むようになったのは有名な話です。
また、同年(1905年)から7年間、1925年、26年にマンチェスター王立音楽院、1907年からはゾンダースハウゼン音楽院、他のちにカーティス音楽院で教鞭をとりましたが、彼が後進の指導をした期間は短く、演奏活動を優先しました。
この頃のバックハウス (1907年(23歳))
1909年(25歳)には世界で初めて協奏曲をドイツ・グラモフォンのSPレコードに録音しました。(曲はグリーグのピアノ協奏曲、指揮はランドン・ロナルド、オケは新交響楽団(現ロイヤル・アルバート・ホール管)
1912年(28歳)にニューヨーク公演でアメリカデビュー。センセーションを巻き起こし、以後世界で引っ張りだこになりました。第1次世界大戦中は従軍しますが、戦後は再び演奏活動します。 1928年(44歳)には世界で初めてショパンのエチュート全曲を録音しました。
1930年(46歳)にスイス南部のルガーノに移住。ヒトラーがバックハウスの大ファンだったことから第2次世界大戦中にナチスの宣伝に利用されたため、戦後はアメリカでナチ協力者として彼の公演を拒否する動きが起こってなかなか渡米できませんでした。
1946年(62歳)にスイスに帰化。
1954年(70歳)にようやくアメリカ入国禁止が解除され、3月にカーネギーホールの舞台に立ちました。同年4月には来日して宮内庁や日比谷公会堂など、東京、大阪、京都、福岡でリサイタルを開き、4月5日から5月22日まで滞在していたそうです。
1969年6月26日と28日にオーストリアのケルンテン州オシアッハの修道院教会(シュティフト・キルヘ)の再建記念コンサートが生涯最後のリサイタルとなりました。
26日のコンサートは無事終了しましたが、28日のコンサートでベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番の第3楽章を弾いているときに心臓発作が起きて中断、彼は「気分が悪いので少し休ませてください」と言い残して、第4楽章を弾かずに舞台から控室へ戻りました。後半の曲目をシューマンの「幻想小曲集」から「夕べに」と「なぜに」に変更して再び休憩へ。控室では医師から演奏を止めるように強く勧められましたが、バックハウスはこれを退け、「今夜の演奏会はシューベルトを弾いて終わりにしたい。」と。そして再び舞台へと戻りました。シューベルトの即興曲 D935-2を弾き終えてステージを去ると、そのまま病院へ搬送されましたが意識を失い、1週間後の7月5日にオーストリア南部のフィラッハで亡くなりました。85歳でした。
この両日の最後のコンサートは「バックハウス:最後の演奏会」(Wilhelm Backhaus: Sein Letztes Konzert)としてCDが発売されています(最後の肉声も収められているそうです)。
最後のコンサートが開かれたオシアッハの修道院教会
「ヴィルヘルム・バックハウス 最後の演奏会」
(UCCD9185)(1969年6月26日・28日オシアッハでの演奏会)
バックハウスは生涯で4000回以上のコンサートを行い、ピアノはベーゼンドルファーに固執しました。 彼は技巧派としてデビューし、リストの孫弟子でもあったにもかかわらず、その卓越した技巧をひけらかすことなく、重心が低い安定感のある大きなスケールの演奏で聴く者を魅了しました。 弟子をとることもなく、作曲や指揮にも手を出しませんでした。
自分のことも多くを語らなかったそうです。例えば、インタビューで休日の行動を尋ねられ、
「ピアノを弾いています」とだけ答えたというエピソードもあるそうです。
もともとインタビューもほとんど受けなかったそうで、「インタビューを受ける時間があったら、少しでも練習したい」 「私のインタビューなど聴いてもつまらないよ」 「言いたいことは鍵盤で言っているから」 などと語っていたそうです。
また、彼は演奏前に鍵盤を弾き、時には分散和音を奏でてから作品を弾き始める癖もあったそうで、いくつかのライブ音源や映像作品にはその部分も収録されてあるそうで、とても興味深いです。
バックハウスはドイツのケルンのMelaten墓地に眠っています。
バックハウスのお墓
(夫人の実家のヘルツベルク家のお墓に入っています)
墓石の中央にはバックハウス自筆のサインが入っています。
それでは今日の曲です。バックハウスが最後の演奏会で、最後に弾いたというシューベルトの即興曲変イ長調 D935-2です。これが彼の生涯最後の演奏となりました。
シューベルト:4つの即興曲 D935より 第2曲 Allegretto (5分27秒)
/ ヴィルヘルム・バックハウス (Pf) (1969年6月28日 オシアッハでの演奏会)
最初にドイツ語で(司会の人?)ナレーションが入って、バックハウスが登場したときの拍手から入っています(演奏は4分30秒くらいまで)。私は彼のこのときの演奏を今回初めて聴きましたが、とても感動しました。4分過ぎからの最後の方の弱音のなんと美しいことか・・・
余談ですが、バックハウスって池田理代子さんの漫画「オルフェウスの窓」にも登場してるらしいですね!(この漫画私は読んでません)
池田理代子 「オルフェウスの窓」 (集英社)
この第5巻で、音楽表現に行き詰った主人公イザーク(ピアニスト)はバックハウスに会いに行きますが、その際バックハウスはイザークにこう言います。
「みんなはそれぞれが違う手を持ち、違うピアノを弾く・・・ けれども確かなことは、きっと君も僕もともに美しい音楽に満ちて生涯を送れるということです」
イザークはベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」を弾くことをお願いします。バックハウスは、
「すべての基本はスケール(音階)の練習とそしてバッハです。」
と言って弾き始める・・・
というようなシーンがあるそうです!バックハウスを登場された池田理代子さんもすごいですが、日本の漫画に登場したバックハウスもすごいです!
この漫画読んでみようかな~