皆さま、今日も一日お元気でしたか?
今日はこちらはほぼ一日中大雨 私は知らなかったけど夕方くらいに福岡県、佐賀県、長崎県に大雨特別警報(警戒レベル5「命の危険」)が出たらしいですね。 こちらはテレビでずうっとこの話題のニュースが放送されています。私が住んでいる福岡市は警戒レベルはまだ3ですが(うちは無事です!)、福岡の南部、久留米や大牟田、そして前も大きな被害に遭った朝倉などは大変な状況のようです。 明日も一日前線が停滞する予想みたいで、福岡の南部、そして他県、明日どうなってるんだろう・・・
近年はもう毎年九州地方、あるいは日本のどこかで豪雨による大きな被害が出ます。
避難施設、医療体制、インフラ設備などを全国にわたってもっと整える必要があると思います。
「今日はなんの日」のコーナーです。
出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。
今日、7月6日は・・・スペインを代表する作曲家 「ホアキン・ロドリーゴが他界した日」 です。(写真はすべてwikipediaなどwebからお借りしました)
Joaquín Rodrigo Vidre: 1901.11.22-1999.7.6; スペインの作曲家
今日は、「アランフェス協奏曲」でもおなじみ、20世紀のスペインを代表する作曲家のホアキン・ロドリーゴの命日です。
私は「アランフェス協奏曲」は今まで3回聴いたことがあります(2回は九響、1回は学生オケで)が、そのときブログで感想を書くためにこの曲のことを調べて、初めて作曲者のロドリーゴが盲目の方だった、ということを知りました。 今日はあらためて彼の人生を振り返ってみたいと思います。
ホアキン・ロドリーゴは1901年11月22日にスペイン東部バレンシア州サグントで生まれました。3歳のときに悪性ジフテリアに罹患し、その後遺症で失明しました。 8歳からピアノとヴァイオリンを習い始め、16歳からバレンシアで作曲や和声を学びました。
1927年(26歳)にパリへ留学。エコール・ノルマル音楽院でポール・デュカス(←あの「魔法使いの弟子」の作曲者ですね)に5年間師事、作曲を学びました。ロドリーゴはピアニスト、作曲家として次第に頭角をあらわし、ファリャやオネゲル、ミヨー、ラヴェルらと知り合い、親交を結びました。
1933年(32歳)にトルコ人のピアニストのビクトリア・カムヒ(Victoria Kamhi)とバレンシアで結婚、夫人は結婚後は自らのピアニストとしての活動を捨てて、ロドリーゴの作曲の助手を務めました。ふたりは生涯にわたって仕事上でもよきパートナーでした。
その後ロドリーゴは奨学金を得てパリへ戻り、パリ音楽院やソルボンヌ大学で学びました。
ロドリーゴと妻のビクトリア・カムヒ
1936年(35歳)7月にスペイン内戦が勃発、ロドリーゴは戦乱を避けてフランス、ドイツをはじめ、オーストリアやスイスと欧州を転々としました。
1939年(38歳)に3年に及んだ内戦が終結するとロドリーゴはマドリードに帰還、以後1999年にその生涯を終えるまで60年間マドリードのテトゥアン地区に住みました。
同年(1939年)彼は、代表作「アランフェス協奏曲」を作曲しました。
彼はマドリード南部の古都アランフェスがスペイン内戦で被害を受けたことに胸を痛め、スペインの国民楽器であるギターに光を当て、祖国とアランフェスの平和への想いを込めて、ギターと管弦楽のための「アランフェス協奏曲」を作曲しました。
音量の小さなギターとオーケストラとの組み合わせは非常に珍しく、当時の聴衆を驚かせたといいます。
「アランフェス協奏曲」が生まれたきっかけについてはロドリーゴいわく、
『1938年の時だ。(ある晩友人たちと集まって夕食をとっていたときに)みんなが私にギターとオーケストラのための曲を作らないかと勧めたんだ。私はすぐにその案が気に入ってね、そこである朝、ふっとテーマが湧いてきてすぐ作曲したんだ。』
第2楽章アダージョは、イングリッシュ・ホルンからギターに引き継がれる哀愁を帯びた冒頭の旋律が特に有名です。 一般的な協奏曲は第1楽章が最も長いものが多いですが、この曲はこの第2楽章が最も長くなっています。
この楽章については、亡くなった息子さんへの追悼や当時病気で重体となった妻に対する神への祈りが込められているといわれています。
彼自身はピアニストであり、ギターは演奏しなかったそうです。
ピアノを弾くロドリーゴ
この曲は1940年11月9日にレジーノ・サインス・デ・ラ・マサのギター、バルセロナ・フィルの演奏でバルセロナで初演されました。 レジーノ・サインス・デ・ラ・マサはロドリーゴの親友でもあり、ギターの知識がなかったロドリーゴは、彼からの助言を得て作曲したそうです。そして完成したこの曲は彼に捧げられました。
ロドリーゴ一家とレジーノ・サインス・デ・ラ・マサ(右)
「アランフェス協奏曲」が初演されたときの公演パンフレット
この曲が初演されると、作曲家プーランクは『一音の無駄もない』と絶賛、ロドリーゴはすぐにスペインを代表する作曲家として広く知られるようになりました。
その後も作曲活動を続け数々の作品を生み出し、1947年(46歳)にはマドリード・コンプルテンセ大学で、彼のために新設された「チェア・マニュエル・デ・ファラ」と称する教授職に就任し、音楽史を教えました。
ロドリーゴは妻とともに、(海外旅行がまだ一部の人の特権だったころから)スペイン国内のみならず、欧州、アメリカ、南米など世界中をとびまわり、教育やピアノリサイタルといった多様な活動を行いました。当地での「アランフェス協奏曲」を聴くことも大きな目的だったそうです。
日本にも一度だけ、1973年に来日しています。
1973年の来日時のポスター
ギターはクリストファー・パークニング(1947~)、オケは新日本フィル(指揮は手塚幸紀氏)で「アランフェス協奏曲」を演奏した以外、ロドリーゴご本人のトークや演奏もあったみたいですね。
ロドリーゴ夫妻 (1958年(51歳))
1991年(90歳)にはスペイン国王より貴族に列せられ、アランフェス庭園候の爵位を授かり、1996年(95歳)にはスペイン国民にとって最高の名誉となるアストゥリアス王太子賞を授与、1998年(97歳)にはフランス文化勲章を受章などなど、褒章を受けた数はめちゃ多いです。
1999年の今日、7月6日にマドリードの自宅で家族に看取られながら息をひきとりました。97歳という長寿でした。 彼はスペインの古都アランフェスに夫人とともに眠っています。
ロドリーゴのお墓
(スペインのアランフェスのCementerio Municipal Santa Isabel)
ギターの形をした墓石には「アランフェス協奏曲」の第2楽章が彫られています
「ネオ・カスティシスモ」(新生粋主義)ともいわれるロドリーゴの作風は保守的で、本人いわく、「伝統に忠実」なものでした。初期は近代フランス作曲家やストラヴィンスキーなどの影響が濃かったが、次第にスペイン情緒と古典派的な楽想が一体となった独自の作風を貫きました。ローマ時代の歴史から現代史まで幅広い分野のスペイン文化の豊富な知識と相まった彼の作風は唯一無二のものとされます。
それでは今日の曲、「アランフェス協奏曲」の第2楽章です。
前にこのコーナーの5月3日の記事でとりあげた、ナルシソ・イエペスの演奏のものです。
10弦ギターの響き(特に8分30秒すぎくらい)がすごいです~。
ホアキン・ロドリーゴ:「アランフェス協奏曲」より 第2楽章 Adagio (10分51秒)
/ ナルシソ・イエペス (ギター) (オケはフランクフルト放送響??)
ロドリーゴ自身がピアノで演奏したものもありました。
ホアキン・ロドリーゴ:「アランフェス協奏曲」より 第2楽章 Adagio (2分35秒)
/ ホアキン・ロドリーゴ(ピアノ)
盲目の彼はどのようにして作曲していたのでしょうか。
ロドリーゴが実際に使っていた作曲用タイプライター
このタイプライターは、ロドリーゴが開発した世界初の楽譜浄書用のタイプライターです。
音符や音楽記号をすべて、彼が開発した点字によって記譜し、それを専門のコピーライターが通常の五線譜に「翻訳」していたそうです。
このタイプライターを使って作曲しているロドリーゴ
彼は「アランフェス協奏曲」以外にもたくさんの作品を遺しましたが、旋律がとても美しいです。
盲目の演奏家というと、私は辻井伸行さんを思い浮かべますが、彼の弾く音色もとても美しいです。おふたりとも目が見えないからこそ心の美しさが反映されているのかな、と思います。