皆さま、今週も無事に過ごせましたでしょうか
熊本や鹿児島で大雨があり、熊本の球磨川があちこちで氾濫し、大きな被害が出ています。
私は今日起床してニュースの映像を見て、言葉がありませんでした・・・
明日にかけても大雨の予想が出ていますので、その地域の皆様はどうか十分に気をつけられてください! 被害がこれ以上広がらないことを心から祈っています。
「今日はなんの日」のコーナーです。
出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。
今日、7月4日は・・・タンゴの革命児 「アストル・ピアソラが亡くなった日」 です。
Astor Pantaleón Piazzolla:1921.3.11-1992.7.4;
アルゼンチンの作曲家、バンドネオン奏者
今日は「タンゴの革命児」といわれたアストル・ピアソラの命日です。
ピアソラは、アルゼンチンの伝統的な音楽「タンゴを、単なるダンス音楽からクラシックやジャズの要素を融合させて独自の演奏形態を創り出し、別次元の芸術にまで高めました。
私がピアソラのことを知ったのは、「ベルリンフィル12人のチェリストたち」を通じてです。
彼らはピアソラの曲をたくさん録音していて、ステージでもよく披露しています。それらを聴いて、「カッコいいな~!」と思ったのがきっかけです。
ベルリン・フィル12人のチェリストたち: HORA CERO
このCDはタンゴ・アルバムで、この中にピアソラの曲がたくさん入っています。
どれもすごくクールで大好きです
アストル・ピアソラは1921年3月11日にイタリア移民三世の子としてアルゼンチンに生まれました。4歳のとき一家でニューヨークに移住し15歳まで過ごしました。8歳からバンドネオンの演奏を始め、18歳(1939年)からブエノスアイレスのタンゴ楽団で演奏していました。
バンドネオンとは・・・上の写真でピアソラが抱えている楽器がバンドネオンです。
外観はアコーディオンと似ており、「空気を送り込んで笛のように穴から音を出す蛇腹の楽器」という点では同じです。アコーディオンもバンドネオンも”携帯版オルガン”ともいえます。
ただし、バントネオンにはアコーディオンのような鍵盤はありません。鍵盤の代わりに一見バラバラに配置されたような71個のボタンがあります。
そして、このボタンは蛇腹を押したときと引いたときで違う音が出るようになっています。つまり左右押し引きで4種類のボタンの配置を操らねばならず、難易度はかなり高いといえます。 横森良造さんもまっつぁおかも(?)しれません
このように複雑なバンドネオンですが、非常に表現力豊かな楽器です。
音域が幅広く、蛇腹の使い方で音の強弱やアクセントのつけ方も自由に行え、曲に緊張感を持たせる鋭いスタッカートも特徴的です。そして、ピアノと同じように、左の方が低音域で右の方が高音域なので、通常は左手でコード(和音)を奏でながら、右手でメロディーを歌えるというのも非常に魅力的です。
バンドネオンを演奏するピアソラ
ピアソラは1940年(19歳)から5年間ヒナステラに師事して音楽理論を学び、25歳のときに自身の楽団を結成して活動しますが、ダンス音楽としてのタンゴは制限が多く、限界を感じた彼は楽団を解体しタンゴ界からいったん退きました。
(*タンゴはアルゼンチンで生まれたダンスで、そのダンスのための音楽でもありました。19世紀前半にキューバで流行した舞曲がアルゼンチンに渡り、ヨーロッパの音楽などと混ざり合ってタンゴが生まれたといわれています)
『私が30代半ばの頃、国内でタンゴの衰退が始まった。ロックが登場したからだ。若者にはタンゴがつまらなかったんだ。そして40歳を過ぎたとき、タンゴは終わった。原因はビートルズの出現だ。』
1954年(33歳)にピアソラはクラシック作曲家を目指して渡仏、パリでナディア・ブーランジェに師事します。当初は自分のタンゴ奏者歴を隠していましたが、ブーランジェ女史から「ピアソラの本分はタンゴにあり。」と言われてタンゴの革命の必要性に目覚めたそうです。
『実際、タンゴは古い曲を繰り返すだけで退屈だった。タンゴは50年近く演奏スタイルが何も変わっていなかった。革命が必要だった。』
翌1955年にブエノスアイレスに帰国した彼は、それまでのダンスの伴奏音楽だったタンゴ音楽を、独自の”聴くためのタンゴ音楽”を創り始めました。
エレキギターを入れたブエノスアイレス八重奏団を結成し活動を開始しますが、保守的なタンゴファンから猛反発を受けます。「タンゴの破壊者」「頭が狂っている」などと非難の嵐、通行人に殴られたり、タクシーは乗車拒否、息子や娘まで脅迫され、命を狙われたことすらあったそうです
四面楚歌に陥った彼は、1958年(37歳)に一家でニューヨークに移住しました。アメリカでの生活はとても苦しかったそうですが、ニューヨークのナイトクラブなどで働いたお金で1959年(38歳)に再び帰国し、翌年バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギターからなるピアソラ五重奏団を結成、以後約30年間この5人スタイルを基本に様々な編成のユニットを組んで、タンゴのジャンルを超え幅広く活躍しました。
ピアソラは1973年には心臓発作や1988年には心臓バイパス手術など休養を余儀なくされる時期もありましたがたくさんの傑作を残しました。1990年に欧州を巡業中に脳溢血で倒れ、闘病生活に入りましたが、1992年ブエノスアイレスで波乱に満ちた生涯を閉じました。71歳でした。
彼はブエノスアイレスのJardín de Pazという墓地に眠っています。
アストル・ピアソラのお墓
ピアソラは計4回来日しており(最後の来日が1988年)、来日公演のときの演奏はCDとしてもリリースされているようです。
ピアソラは「タンゴの異端児」や「タンゴの破壊者」などと呼ばれましたが、実は彼の音楽は典型的なアルゼンチンタンゴのリズムパターン(2拍子の強烈なビート)を踏襲しています。2拍子の表拍とそのバックの裏拍の4つの音「ズン・チャ・ズン・チャ」というタンゴ特有の4ビートのリズムを踏襲しながらも、メロディは古典のアルゼンチンタンゴとは全く異なり、クラシック音楽のフーガやバロックの様式を取り入れ、さらにアメリカのジャズやフィデルなどの音楽のエッセンスを取り込み、彼独自の音楽の世界が創り上げられたのです。
それでは今日の曲です。ピアソラが1959年に書いた「アディオス・ノニーノ」です。
母国でタンゴの革命のために始めた活動が成功せず、1958年(37歳)に一家でニューヨークへ移住したピアソラでしたが、生活はとても苦しく父親が亡くなっても帰国する旅費すらありませんでした。訃報を聞いた彼は何日も自室にこもって泣きながらピアノに向かっていたそうです。やがて扉を開けて出てきたときに彼の手には楽譜が握られていました。それが父への鎮魂歌であり、彼の代表作となった「アディオス・ノニーノ」(さようなら、おじいちゃん)です。本来ならおじいちゃんではなくお父さんなのですが、ピアソラの子供たちがとてもおじいちゃん子だったので、イタリア語のおじいちゃん”ノニーノ”とつけたそうです・・・
アストル・ピアソラ:「アディオス・ノニーノ」 (7分50秒)
/ アストル・ピアソラ、ケルン放送響
オーケストラと共演したものです。
彼の音楽が世界的ブームになったのは、彼の死後4年が経った1996年ころです。
ヴァイオリニストのギドン・クレーメルがピアソラの曲を盛んに演奏したり、日本でも1997年にチェリストのヨー・ヨー・マがサントリーのCMで「リベルタンゴ」を弾いてから一気にブームとなりました。(私は全く記憶にないです・・・)
ピアソラの演奏する「リベルタンゴ」も載せておきます。
アストル・ピアソラ:「リベルタンゴ」 (5分43秒:前奏が長く、2分35秒くらいからピアソラの演奏が始まります) (1977年)
4分30秒くらいの彼の左手のアップ、すごいです。タコの足みたいに指が自由自在に動いてる!
2018年12月には彼のドキュメンタリー映画も公開されました。
映画「ピアソラ 永遠のリベルタンゴ」
映画「ピアソラ 永遠のリベルタンゴ」予告編 (1分57秒)
この映画観に行くつもりでチラシももらっていたのですが、結局行けずじまいでした。
今この予告編を見て、見たくてたまらなくなりました。
レンタルしてきて見ようと思います!
ピアソラ超カッコいい~~
彼の曲には激しい情熱と、裏には哀愁のようなものを感じてしまいます。(バンドネオン独特の音色も相まってるかも) めちゃめちゃ大好きです