その子は八重歯の似合うたいそう可愛い乙女であった。しかし、彼女は自分のその八重歯が大嫌いだった。周りの人間が(主に私が)どれだけその八重歯の可愛さについてとくとくと語っても、彼女は頑なに「いつか抜く」と言い続けた。
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小学校三年生のとき、彼女は男子顔負けの俊足の持ち主であった。活発で溌溂とした少女であった彼女は、とにかくいつも走り回っていた。右のひざ小僧を擦り剥いて帰り、母親に女の子らしくしなさいと諭された翌日には、左のひざを擦り剥いて帰ってきた。陸上大会に出れば優勝は勿論の事、そのタイムは大会記録を塗り替え続け、「白三小にその人あり」と謳われたほどであった。
しかしある日、雪の降ったグラウンドで友達と追いかけっこしていたとき、それは偶然に、しかし生来のおっちょこちょいも手伝って、彼女は派手に転んだのである。前のめりに。顔から。綺麗なバラには棘があるらしいが、そのとき彼女の可愛らしい八重歯はバラの棘よりも怖い凶器になった。ぐさりと唇の裏に突き刺さったその痛みは、彼女の其れまでの生涯のイタイ大会記録を塗り替えた。口からどくどくと血を流し泣き叫びながら、彼女はそのとき初めて自分の八重歯に敵意を覚えたのである。
それ以来、彼女はめったなことでは走らなくなった。陸上も追いかけっこもやめた。「転ぶと痛いから」だそうだ。その代わりに、彼女は休み時間を図書室で過ごすようになった。
中学三年のとき、彼女は日常会話レベルの英語を苦無く操れる才女であった。小学校の図書室で見つけた英会話レッスンのテープを聴き始めたのをきっかけに、ほとんど独学で、しかし訛りや癖の無い美しいブリティッシュ・イングリッシュを身につけたのである。
そこで、彼女はこの度開かれる県内の英語スピーチコンテストに学校の代表として出場することとなった。前評判でも彼女の優勝は間違いないだろうと言われていた。しかし本番中、もう残りはあと数行というところで、不運にも、また生来あがり症であったことも手伝って、彼女はしたたかに噛んだのである。舌を。彼女の愛らしい八重歯は、またしても凶器となった。千切れんばかりに思い切り噛んだ舌の痛みは、彼女のイタイ大会記録首位タイをマークし、唇と舌、どちらがイタイかはプレーオフに持ち越しとなった。
会場中が身に覚えのあるその痛みを想像し顔を歪めるなか、彼女は顔と口内を真っ赤に染めながら、痛みを堪えた小さな声でそそくさと残りのスピーチを終え、ステージを駆け下りた。その時、自分の八重歯に対する敵意が憎悪に昇格されたことは言うまでもない。
それ以来、彼女は寡黙になった。大きな声を出すことは決して無く、必要最小限の言葉を、とても静かにゆっくりと話すだけだった。「噛むと痛いから」だと彼女の目が語っていた。その代わりに、彼女は『無口でクールなかっこいい女の子』という評価を周囲から受けるようになった。
高校二年のとき、彼女は学校で、いや他校でも噂になるほどの美少女であった。しかし無口でクールなかっこいい女の子という評価とは裏腹に、同性の友人は少なく無く、決して人を寄せ付けないというわけではなかった。生来彼女は明るく御人好しであった。
今回その可愛らしい八重歯が牙を剥いたのは、男子生徒に対してだった。無口でクールなかっこいい彼女が笑うと、ちょこっと控えめに現れる、しかしはっと目を奪われるその八重歯に、男は皆「はむっ」と胸を噛まれてしまったのである。いや、噛まれるところをニヤニヤと想像してしまったのである。無論私はそんなことはしなかったが。
なれば当然のことながら、その八重歯を独り占めせんとする青い性欲の塊どもは後を絶たず、その数は百に達するかというほどに昇った。連日図書室は彼女目当ての有象無象で溢れ、ちょっと抜け駆けでもしよう輩がいれば一斉に団結し駆逐に当たり、しかし誰もがいつか自分が出し抜いてやろうと虎視眈々の構えであった。そして時たま見せる彼女の八重歯にあらぬ妄想を沸かせ、やいのやいのと一喜一憂していたのである。
だが、我等が乙女はもちろん穢れのケの字も知らぬ純真無垢であって、所謂ガールズトークなるものが男子の思うよりえげつないものであったりする中で、きょとんと目を丸くして頭の上にはてなを浮かべてみたりするような按配であるからして、そんな男共の薄汚くも実直で、でもちょっと黄色い靄が見えるような、しかし一向に実際の行動が見られない必死の努力と青春は、往々にしてそうであるように、虚しくも浪費されていくばかりであった。
しかしそんな彼女も思春期真っ盛りの普通の少女であって、青春という人生の花を謳歌したいと望んでいたし、夜には人知れず淡い想いを焦がし、慕う相手がいたのである。その憎たらしくも羨ましい相手は、この年頃の女子の憧れの対象が大概にしてそうであるように、先輩、三年の空手部部長であった。
この男、全国大会でも名の知れる実力者でありながら、学業成績も申し分無く、しかも生徒会長まで勤めるという、絵に描いたような嫌味な男であった。私としては、そして多くの男子諸君が共感してくれるだろうが、このような面白みの無い男のどこがいいのか甚だ疑問ではあった。しかし校内、校外問わず女子からの人気は圧倒的であり、真に遺憾ながら彼女もまたその一人であった。先述の男子達の戦いが如何に哀れなものかご理解いただけるであろう。
それぞれ異性から圧倒的な人気を誇る学校一のアイドル同士、ともすれば似合いのカップルの誕生かとの噂で持ちきりであったとある日、圧倒的団結力を獲得しつつあった図書館戦士諸君が見守る中、彼女は図書室のいつもの席で一通の手紙をしたためた。それがなんであるかを偵察部隊が報告すると、ひとり、またひとりと顔を青ざめさせ、天を仰ぐ者、神に祈る者、懺悔し始める者、各々精一杯の表現で世界の理不尽さと己の平凡さを嘆いたのだった。しばらくして手紙を書き上げた彼女は、意を決した表情で立ち上がると、兵共の夢の跡を踏み越え、図書室を飛び出した。滅多に走らない彼女の揺れるスカートの中身に彼らがどれほど救われたかについては、筆舌に尽くし難い。
さっそく彼女は件の空手部部長を捕まえ、体育館裏に呼び出すと、決死の覚悟で手紙を差し出した。学校一のアイドルが、純真無垢な乙女が、頬を染め、古風なれど愛らしい精一杯の好意を向けてくる。これで落ちない男などいるわけが無い。
しかしその時、今回ばかりは彼女に非はまったく無いのだが、もしかしたら生来の男運の無さも手伝ったのか、彼女は振られたのである。初恋であった。そして空手部部長は言った。
「歯並びの悪い子は好みじゃないんだ」
あの美しい八重歯は、ついに彼女にとどめの一撃を加えてきた。今回の痛みは、唇よりも舌よりもずっとずっと痛かった。プレーオフなんか中止して、胸の痛みが表彰台を独占した。というか、痛いなんてものじゃなかった。毎日寝ても覚めても思い続け、わけもなく悩み、眠れない夜だってあって、ようやく勇気を振りしぼって告白までしたのに、彼女の青春が、彼女自身が、八重歯ひとつで否定されたのだ。
それ以来、彼女は恋をしない。何故かと問うほど私も馬鹿ではない。
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しかし、私はそれからずっと、必死になって彼女を説得し、そんなことで彼女が自分の魅力を損なってしまうことを何とか阻止しようとした。時に散々に怒鳴りあい、時に罵り合い、時にお互い半狂乱になりながら、それでもなんとか彼女を止めたかった。だって、その八重歯はそれほどに美しく、愛らしく、魅力的で、それ以上に彼女の笑顔は素敵だったのだ。嫌いな八重歯を見せないように、ちょっとはにかんだみたいになるあの笑顔こそが私の愛した彼女なのだ。その笑顔からひとつでも何かが欠けるのが私には耐えられない。おっちょこちょいで走れば転ぶし、あがり症で喋れば噛むし、男を見る目が無いが、彼女はこれが彼女であって、これで完璧なのだ。――というようなことを、勢いで言ってしまった……ような気がする。
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大学一回生になった彼女は、頑なに「いつか抜く」と言い続けている。走ることもしないし、必要以上に喋りもしない。しかし、まあ、恋については多く語ることはしないでおこう。
「この間聞いた話なんだけど、君が片思いしてた空手部部長、実はマザコンだったんだってさ」
「あら、じゃあ振られて良かったのね。私の八重歯もたまには役に立つんだ」
そう言って笑った彼女の笑顔も、ちらりと覗いた八重歯も、相変わらず素敵だったことだけは記しておく。