Proof of... -6ページ目

Proof of...

祈る神を持たない僕は、ただ言葉の力を信じている。全ての言葉に僕の意味を。

「行きたいの?」ってそう聞かれて
足りない距離はどう埋めるの

「生きたいの?」ってそう聞かれて
足りないものはどうしてるの

「行きたいの」そう答えて
足りない距離は駆け抜けるの

「生きたいの」そう答えて
足りないものはもう棄てるの






前向きな言葉はまるで借り物のようだ。
そして驚くほどに自分が何を考えているかわからない。よってブログも更新されない。
言いたいことはたくさんあるような気がするが、返ってくる言葉は予想できるしそれならいう必要も無いのだろう。
日に日に無口になる。死人に口無しとはよく言ったもので、これで僕は死人の仲間入りだ。
黙々と本を読み漁り世界を理解して行くような錯覚に有頂天になっていたら、友人はその世界を直に歩いて渡っていた。僕はいまだ飛行機にすら乗ったことがない。どうやらそういうことのようだ。
憧れはいつまでも憧れであって、僕は目が覚めると芋虫になっている夢を見る。大好きな友人もひとりまたひとりと僕から離れ、いっそ全てを失ってしまえばいいと自暴自棄になるにはそれくらい必要だ。僕にはまだ大切なものがいくつかあって、泣かせたくはない人もいる。それがどれだけ幸せなことかを僕は知っているから、僕はいつでも死ぬことができる。


 ビー玉をはじく指は雪を纏った枝のように細く白く滑らかで、しかしその内に潜めた美しい骨の形を隠しきってはしまわなかった。
 それはそれ自体では動かない。筋と肉と僅かな意思に依って動かされるマリオネットだ。ただ、一度動くことを許されたそれは、我々の内でごつごつと不気味に蠢く。
 力を与えられたビー玉は、その力が衰えきる前になんとか意味を見いだそうと愚進する。それを見送る彼女の双眸は憂鬱に陰っている。淡い唇から漏れる吐息は細く長く、ベッドにもたれた背中が時折上下する。
 午後六時を回ろうとするところだが、秋口に入った最近では既にそこは宵の口であった。夜霧が立ち込め始める街に最早喧騒は無く、心寒い静けさが漂う。
 とめどない不安感が音も光も飲み込んで、街を包んでしまったようだ。だだ良く見れば、低いところで月が隠れるようにいる。
最早力も気力も無くし志半ばで止まったビー玉は、薄く青い蛍光灯の光をただ反射するのみで、しかしそれでもまだましだと思わせるのは、彼女の瞳がただ漆黒を湛えているだけだからだろう。彼女もまた、得体の知れない闇に呑まれてしまった一人なのだ。
長い髪を重力のまま垂らし、力無く横たわる彼女の肢体を美しいと感じるのは、普段の彼女からは想像出来ない薄弱さのせいか、はたまた単に乱れた部屋着がそう思わせるのか。

「香奈、入るよ」

呼び掛けたが返事は無い。寝た振りを決め込むことにしたらしい。長い睫を下ろし、寝返りついでに毛布を頭までかぶってみせた。部屋にはムッとするほどの強いアロマが香る。

「香奈、起きて。行くって言ったのは君だろう。確かに天気は良くないけれど、雲はもうじき晴れるそうだし、霧は低いところだけみたいだ」
「佐多君、見て分からないかしら。私は今とても具合が悪いの。だから機嫌も悪いの。あなたからのデートのお誘いなら、嬉しくもなんともないけれど、今すぐ部屋から出ていってくれるのなら口約束くらいしてあげるのもやぶさかではないわ」
「香奈、誘ったのは君で、僕は約束の場所でもう二時間も待ったんだぞ。電話も出ない……のはいつものことだとしても、その格好はなんだ。家から出るつもりもないじゃないか」
「あら、女の子の部屋に勝手に入ってきて、あげくあられもない部屋着姿をしげしげと眺めてくれるなんて、佐多君はまったく紳士的で呆れるわ」

そう言って起き上がり毛布を剥ぐと、ホットパンツの長い素足を投げ出してみせる。
 瞬間、ぐきりと心臓が跳ねた。
 しかしそうやすやすと彼女の思惑に乗るわけにはいかない。

「行くのか行かないのか、はっきりしてくれ。行かないなら、僕は家で暖かいコーヒーを飲みながら読書の時間にするよ。でもさっきのニュースでは、チャンスは今日だけだって言ってた。明日から暫く天気が崩れるらしい。どうするんだ?」
「そんな風に簡単に人の言うことを信じられるなんて、聖人か何かなのかしら?それともただの馬鹿?天気予報なんて当てにはならないのよ。今日はどこへも行かない。体調が悪いって言ったでしょう?それに、明日なら大丈夫よ。でも今日はダメ。絶対にダメ」

 最後の方は自分に言い聞かすようだった。表情は陰り、その瞳からはすっと光が失せたように見えた。僕の視線に気づくと、香奈はさっと毛布に隠れた。やれやれだ。誘った本人がそう言うなら、今日はもう帰ろう。とは言え、香奈の我が儘に慣れてしまっている自分も恐ろしい。

「佐多君」

 だから、これも想定の範囲内だ。

「佐多君、帰るの?私が外出しないからといって、何も佐多君を追い出そうって訳じゃないのよ。ほら、せっかく来てくれたのだから、コーヒーでも飲んでいって」
「……」
「…………」
「まったく。飲みたいなら他の頼み方があるだろう」

 そうは言いながらも、台所に向かいコーヒーを入れる。

「ありがと。佐多君のそういうところ、好きよ」

 笑ってもいるし、口の悪さもいつも通りだが、今日の香奈はどこかおかしいように感じる。もともと感じやすいところのある子だし、今日の夜は僕だって何か不気味なものを感じるくらいだから、そういうところで本格的に体調が悪いのかれない。
 そう思うと、まぁコーヒーの一杯くらいは入れてやるかと思ってしまう。それでも、二時間待ちぼうけした分はまだ怒っているのだ。

「うんと甘くしてちょうだい」

 わかってる、と香奈にコーヒーを差し出す。口をつけた香奈の顔がくしゃっと潰れる。

「にがっ。にがい……」
「ああ、間違えた。香奈のはこっち」
「わざとでしょ。待たされた仕返しのつもりなのかしら。まったく、陰湿な男は嫌われるわよ」

 そう文句は言っても、甘く温かなコーヒーは香奈の気分を幾ばくか解してくれたようだ。皺の寄りっぱなしだった眉間や、強張った肩から力が抜けた。
隣に腰かけ、僕もコーヒーをすする。

「なぜ明日は大丈夫で、今日はダメなんだい?そりゃ今日だっていい天気ではないし、僕だって何か気味の悪い日だとはおもうけど。けど明日は雨……」
「カンよ、カン。女のカン。天気と恋愛に関しては良く当たるのよ」

 それにね、と彼女は言った。

「こんな夜は……こんな暗い夜は、多分流れ星なんて見れない。分かるの。何か嫌なものが覆ってる。膜じゃなくて、靄じゃなくて、そう、水流のような。鉄砲水みたいな大きくて太い流れが、街を飲み込んでいる。酷く強い力だから、誰も逃れられないの。その中ではいくら足掻いても決して抜け出せないの。できることと言えば、飲まれてしまわないように必死にここにしがみついていることだけ」
「水流」
「そう、水流。だから……」
 顔を伏せたまま、僕の腕に腕を絡めてくる。毛布がはだけ、素足が露わになる。胸元のボタンは既にいくつか外されている。

「香奈っ。ちょっと待って」

 月は相変わらず低く細い。はじめて香奈と寝た日もこんな月だったなと、ふと思い出した。

「怖いの。あなたは笑うかも知れないけど、怖いのよ。こんな夜ははじめて。体の芯が氷つくみたいな不快感」

「だから…」とようやく顔を上げた香奈の懇願する表情は、僕が初めて見るものだった。
 僕が黙っていると、香奈の瞳からまた光が失せていく。両足を抱きしめ、華奢な体を小さく固くする。
 ついさっきまで心地よい熱を与えてくれたコーヒーも、既に冷めきっている。目を凝らせば、既にこの部屋のあちこちにあの得体の知れない闇が染み入っているように見える。
 青いカーテンとベッドカバー、白い壁紙とテーブルの部屋。床に転がるビー玉。お気に入りのアロマをこんなに焚いて、大好きな甘いコーヒーを口にして、神聖な儀式みたいに作ったこの最後の砦ですら、水流に軋みをあげている。
 香奈は凍えたみたいに体を抱き、それきり黙ってしまった。
沈黙はまずい。みるみる間に闇は押し寄せてくる。息苦しいほどに空気が冷たい。時刻は八時を回り、夜が更ける程に闇の水流は力を増していくようだ。沈黙はまずい。このままではまずい。

「香奈、行こう」
「勇気を出して女の子から誘ったのに、どこへ行くって言うのよ」
「ここに居ちゃいけない。星ひとつない夜の闇なんて、あんまりに救いが無い。そんなのは人を殺す病みたいなものだ。だからここから逃げよう。探しに行こう。僕達が見つけよう」
「嫌」
「行こう」

嫌がる香奈の手をつかみ、立ち上がらせる。寝間着の上にコートをかけただけだが、一刻も早くここから抜け出さなければならない。
開いたドアから、息苦しいくらい冷たい空気が吹き込んでくる。蛍光灯の光はすぐに闇に霧散し、照らされた通路は薄暗い。
内心に「これが闇か」と呟く。香奈と一緒だからか、それとも水流の勢いが強まったか、いやその両方か。僕にもこの街の異常がまじまじと感じ取れる。
 重苦しくまとわりついてくるそれは汚い雪に体を埋められたみたいで、身動きが取れず、息苦しいく、嫌悪感を拭えない。じっとしていれば冷えと汚れで体は固まり、意識は崩れてやがて死に至るのだ。
低いところにあった三日月が、ニヤついた口のように鈍く光った。
 
全部。自分を取り巻くもの全部が過去が。過去とか自分を縛るもの全部。壊してしまいたいような。
それはそれはたいそう骨の折れる
知と痴の血の値
振り回されると同じくらい
ぶり返してくる。痛い痛い
記憶に結び付かない嗅覚が世界を映さない左目が単純な愛が
壊してしまいたいような。激しくない感情。息を吐く。息を吸う。それはたいそう骨の折れる
言葉にはならない
いや言葉にしてはならない
リセット。
帰納したことを忘れて鏡の遊び
何度も言うけどわけはなく
引き金は五つ鳴って。

やがて来る冬は厳しく
凍える指の感覚とともに
私の気配もうすらぐ日に
思い出さるるは
夏の力強い日差しではなく
あの日のあなたの熱である

やがて来る冬は厳しく
降る雪に耳をすませ
静寂に恐れを抱き眠る今宵
思い出さるるは
春の舞う桜吹雪ではなく
あの日のあなたの綴である

幾夜と朝を恨みしか
さてもと己を呪いしか

しかし世界は美しく

秋の日の夕暮れに金色の埃が舞い
喧騒は時に音楽であって
涼やかに吹き抜ける風と
たおやかなあなたの笑顔がある

その日世界は美しい

 その子は八重歯の似合うたいそう可愛い乙女であった。しかし、彼女は自分のその八重歯が大嫌いだった。周りの人間が(主に私が)どれだけその八重歯の可愛さについてとくとくと語っても、彼女は頑なに「いつか抜く」と言い続けた。

 小学校三年生のとき、彼女は男子顔負けの俊足の持ち主であった。活発で溌溂とした少女であった彼女は、とにかくいつも走り回っていた。右のひざ小僧を擦り剥いて帰り、母親に女の子らしくしなさいと諭された翌日には、左のひざを擦り剥いて帰ってきた。陸上大会に出れば優勝は勿論の事、そのタイムは大会記録を塗り替え続け、「白三小にその人あり」と謳われたほどであった。

しかしある日、雪の降ったグラウンドで友達と追いかけっこしていたとき、それは偶然に、しかし生来のおっちょこちょいも手伝って、彼女は派手に転んだのである。前のめりに。顔から。綺麗なバラには棘があるらしいが、そのとき彼女の可愛らしい八重歯はバラの棘よりも怖い凶器になった。ぐさりと唇の裏に突き刺さったその痛みは、彼女の其れまでの生涯のイタイ大会記録を塗り替えた。口からどくどくと血を流し泣き叫びながら、彼女はそのとき初めて自分の八重歯に敵意を覚えたのである。

それ以来、彼女はめったなことでは走らなくなった。陸上も追いかけっこもやめた。「転ぶと痛いから」だそうだ。その代わりに、彼女は休み時間を図書室で過ごすようになった。

中学三年のとき、彼女は日常会話レベルの英語を苦無く操れる才女であった。小学校の図書室で見つけた英会話レッスンのテープを聴き始めたのをきっかけに、ほとんど独学で、しかし訛りや癖の無い美しいブリティッシュ・イングリッシュを身につけたのである。

そこで、彼女はこの度開かれる県内の英語スピーチコンテストに学校の代表として出場することとなった。前評判でも彼女の優勝は間違いないだろうと言われていた。しかし本番中、もう残りはあと数行というところで、不運にも、また生来あがり症であったことも手伝って、彼女はしたたかに噛んだのである。舌を。彼女の愛らしい八重歯は、またしても凶器となった。千切れんばかりに思い切り噛んだ舌の痛みは、彼女のイタイ大会記録首位タイをマークし、唇と舌、どちらがイタイかはプレーオフに持ち越しとなった。

 会場中が身に覚えのあるその痛みを想像し顔を歪めるなか、彼女は顔と口内を真っ赤に染めながら、痛みを堪えた小さな声でそそくさと残りのスピーチを終え、ステージを駆け下りた。その時、自分の八重歯に対する敵意が憎悪に昇格されたことは言うまでもない。

 それ以来、彼女は寡黙になった。大きな声を出すことは決して無く、必要最小限の言葉を、とても静かにゆっくりと話すだけだった。「噛むと痛いから」だと彼女の目が語っていた。その代わりに、彼女は『無口でクールなかっこいい女の子』という評価を周囲から受けるようになった。

高校二年のとき、彼女は学校で、いや他校でも噂になるほどの美少女であった。しかし無口でクールなかっこいい女の子という評価とは裏腹に、同性の友人は少なく無く、決して人を寄せ付けないというわけではなかった。生来彼女は明るく御人好しであった。

今回その可愛らしい八重歯が牙を剥いたのは、男子生徒に対してだった。無口でクールなかっこいい彼女が笑うと、ちょこっと控えめに現れる、しかしはっと目を奪われるその八重歯に、男は皆「はむっ」と胸を噛まれてしまったのである。いや、噛まれるところをニヤニヤと想像してしまったのである。無論私はそんなことはしなかったが。

なれば当然のことながら、その八重歯を独り占めせんとする青い性欲の塊どもは後を絶たず、その数は百に達するかというほどに昇った。連日図書室は彼女目当ての有象無象で溢れ、ちょっと抜け駆けでもしよう輩がいれば一斉に団結し駆逐に当たり、しかし誰もがいつか自分が出し抜いてやろうと虎視眈々の構えであった。そして時たま見せる彼女の八重歯にあらぬ妄想を沸かせ、やいのやいのと一喜一憂していたのである。

だが、我等が乙女はもちろん穢れのケの字も知らぬ純真無垢であって、所謂ガールズトークなるものが男子の思うよりえげつないものであったりする中で、きょとんと目を丸くして頭の上にはてなを浮かべてみたりするような按配であるからして、そんな男共の薄汚くも実直で、でもちょっと黄色い靄が見えるような、しかし一向に実際の行動が見られない必死の努力と青春は、往々にしてそうであるように、虚しくも浪費されていくばかりであった。

しかしそんな彼女も思春期真っ盛りの普通の少女であって、青春という人生の花を謳歌したいと望んでいたし、夜には人知れず淡い想いを焦がし、慕う相手がいたのである。その憎たらしくも羨ましい相手は、この年頃の女子の憧れの対象が大概にしてそうであるように、先輩、三年の空手部部長であった。

この男、全国大会でも名の知れる実力者でありながら、学業成績も申し分無く、しかも生徒会長まで勤めるという、絵に描いたような嫌味な男であった。私としては、そして多くの男子諸君が共感してくれるだろうが、このような面白みの無い男のどこがいいのか甚だ疑問ではあった。しかし校内、校外問わず女子からの人気は圧倒的であり、真に遺憾ながら彼女もまたその一人であった。先述の男子達の戦いが如何に哀れなものかご理解いただけるであろう。

それぞれ異性から圧倒的な人気を誇る学校一のアイドル同士、ともすれば似合いのカップルの誕生かとの噂で持ちきりであったとある日、圧倒的団結力を獲得しつつあった図書館戦士諸君が見守る中、彼女は図書室のいつもの席で一通の手紙をしたためた。それがなんであるかを偵察部隊が報告すると、ひとり、またひとりと顔を青ざめさせ、天を仰ぐ者、神に祈る者、懺悔し始める者、各々精一杯の表現で世界の理不尽さと己の平凡さを嘆いたのだった。しばらくして手紙を書き上げた彼女は、意を決した表情で立ち上がると、兵共の夢の跡を踏み越え、図書室を飛び出した。滅多に走らない彼女の揺れるスカートの中身に彼らがどれほど救われたかについては、筆舌に尽くし難い。

さっそく彼女は件の空手部部長を捕まえ、体育館裏に呼び出すと、決死の覚悟で手紙を差し出した。学校一のアイドルが、純真無垢な乙女が、頬を染め、古風なれど愛らしい精一杯の好意を向けてくる。これで落ちない男などいるわけが無い。

しかしその時、今回ばかりは彼女に非はまったく無いのだが、もしかしたら生来の男運の無さも手伝ったのか、彼女は振られたのである。初恋であった。そして空手部部長は言った。

「歯並びの悪い子は好みじゃないんだ」

あの美しい八重歯は、ついに彼女にとどめの一撃を加えてきた。今回の痛みは、唇よりも舌よりもずっとずっと痛かった。プレーオフなんか中止して、胸の痛みが表彰台を独占した。というか、痛いなんてものじゃなかった。毎日寝ても覚めても思い続け、わけもなく悩み、眠れない夜だってあって、ようやく勇気を振りしぼって告白までしたのに、彼女の青春が、彼女自身が、八重歯ひとつで否定されたのだ。

それ以来、彼女は恋をしない。何故かと問うほど私も馬鹿ではない。

 しかし、私はそれからずっと、必死になって彼女を説得し、そんなことで彼女が自分の魅力を損なってしまうことを何とか阻止しようとした。時に散々に怒鳴りあい、時に罵り合い、時にお互い半狂乱になりながら、それでもなんとか彼女を止めたかった。だって、その八重歯はそれほどに美しく、愛らしく、魅力的で、それ以上に彼女の笑顔は素敵だったのだ。嫌いな八重歯を見せないように、ちょっとはにかんだみたいになるあの笑顔こそが私の愛した彼女なのだ。その笑顔からひとつでも何かが欠けるのが私には耐えられない。おっちょこちょいで走れば転ぶし、あがり症で喋れば噛むし、男を見る目が無いが、彼女はこれが彼女であって、これで完璧なのだ。――というようなことを、勢いで言ってしまった……ような気がする。

大学一回生になった彼女は、頑なに「いつか抜く」と言い続けている。走ることもしないし、必要以上に喋りもしない。しかし、まあ、恋については多く語ることはしないでおこう。


「この間聞いた話なんだけど、君が片思いしてた空手部部長、実はマザコンだったんだってさ」

「あら、じゃあ振られて良かったのね。私の八重歯もたまには役に立つんだ」


 そう言って笑った彼女の笑顔も、ちらりと覗いた八重歯も、相変わらず素敵だったことだけは記しておく。