ビー玉をはじく指は雪を纏った枝のように細く白く滑らかで、しかしその内に潜めた美しい骨の形を隠しきってはしまわなかった。
それはそれ自体では動かない。筋と肉と僅かな意思に依って動かされるマリオネットだ。ただ、一度動くことを許されたそれは、我々の内でごつごつと不気味に蠢く。
力を与えられたビー玉は、その力が衰えきる前になんとか意味を見いだそうと愚進する。それを見送る彼女の双眸は憂鬱に陰っている。淡い唇から漏れる吐息は細く長く、ベッドにもたれた背中が時折上下する。
午後六時を回ろうとするところだが、秋口に入った最近では既にそこは宵の口であった。夜霧が立ち込め始める街に最早喧騒は無く、心寒い静けさが漂う。
とめどない不安感が音も光も飲み込んで、街を包んでしまったようだ。だだ良く見れば、低いところで月が隠れるようにいる。
最早力も気力も無くし志半ばで止まったビー玉は、薄く青い蛍光灯の光をただ反射するのみで、しかしそれでもまだましだと思わせるのは、彼女の瞳がただ漆黒を湛えているだけだからだろう。彼女もまた、得体の知れない闇に呑まれてしまった一人なのだ。
長い髪を重力のまま垂らし、力無く横たわる彼女の肢体を美しいと感じるのは、普段の彼女からは想像出来ない薄弱さのせいか、はたまた単に乱れた部屋着がそう思わせるのか。
「香奈、入るよ」
呼び掛けたが返事は無い。寝た振りを決め込むことにしたらしい。長い睫を下ろし、寝返りついでに毛布を頭までかぶってみせた。部屋にはムッとするほどの強いアロマが香る。
「香奈、起きて。行くって言ったのは君だろう。確かに天気は良くないけれど、雲はもうじき晴れるそうだし、霧は低いところだけみたいだ」
「佐多君、見て分からないかしら。私は今とても具合が悪いの。だから機嫌も悪いの。あなたからのデートのお誘いなら、嬉しくもなんともないけれど、今すぐ部屋から出ていってくれるのなら口約束くらいしてあげるのもやぶさかではないわ」
「香奈、誘ったのは君で、僕は約束の場所でもう二時間も待ったんだぞ。電話も出ない……のはいつものことだとしても、その格好はなんだ。家から出るつもりもないじゃないか」
「あら、女の子の部屋に勝手に入ってきて、あげくあられもない部屋着姿をしげしげと眺めてくれるなんて、佐多君はまったく紳士的で呆れるわ」
そう言って起き上がり毛布を剥ぐと、ホットパンツの長い素足を投げ出してみせる。
瞬間、ぐきりと心臓が跳ねた。
しかしそうやすやすと彼女の思惑に乗るわけにはいかない。
「行くのか行かないのか、はっきりしてくれ。行かないなら、僕は家で暖かいコーヒーを飲みながら読書の時間にするよ。でもさっきのニュースでは、チャンスは今日だけだって言ってた。明日から暫く天気が崩れるらしい。どうするんだ?」
「そんな風に簡単に人の言うことを信じられるなんて、聖人か何かなのかしら?それともただの馬鹿?天気予報なんて当てにはならないのよ。今日はどこへも行かない。体調が悪いって言ったでしょう?それに、明日なら大丈夫よ。でも今日はダメ。絶対にダメ」
最後の方は自分に言い聞かすようだった。表情は陰り、その瞳からはすっと光が失せたように見えた。僕の視線に気づくと、香奈はさっと毛布に隠れた。やれやれだ。誘った本人がそう言うなら、今日はもう帰ろう。とは言え、香奈の我が儘に慣れてしまっている自分も恐ろしい。
「佐多君」
だから、これも想定の範囲内だ。
「佐多君、帰るの?私が外出しないからといって、何も佐多君を追い出そうって訳じゃないのよ。ほら、せっかく来てくれたのだから、コーヒーでも飲んでいって」
「……」
「…………」
「まったく。飲みたいなら他の頼み方があるだろう」
そうは言いながらも、台所に向かいコーヒーを入れる。
「ありがと。佐多君のそういうところ、好きよ」
笑ってもいるし、口の悪さもいつも通りだが、今日の香奈はどこかおかしいように感じる。もともと感じやすいところのある子だし、今日の夜は僕だって何か不気味なものを感じるくらいだから、そういうところで本格的に体調が悪いのかれない。
そう思うと、まぁコーヒーの一杯くらいは入れてやるかと思ってしまう。それでも、二時間待ちぼうけした分はまだ怒っているのだ。
「うんと甘くしてちょうだい」
わかってる、と香奈にコーヒーを差し出す。口をつけた香奈の顔がくしゃっと潰れる。
「にがっ。にがい……」
「ああ、間違えた。香奈のはこっち」
「わざとでしょ。待たされた仕返しのつもりなのかしら。まったく、陰湿な男は嫌われるわよ」
そう文句は言っても、甘く温かなコーヒーは香奈の気分を幾ばくか解してくれたようだ。皺の寄りっぱなしだった眉間や、強張った肩から力が抜けた。
隣に腰かけ、僕もコーヒーをすする。
「なぜ明日は大丈夫で、今日はダメなんだい?そりゃ今日だっていい天気ではないし、僕だって何か気味の悪い日だとはおもうけど。けど明日は雨……」
「カンよ、カン。女のカン。天気と恋愛に関しては良く当たるのよ」
それにね、と彼女は言った。
「こんな夜は……こんな暗い夜は、多分流れ星なんて見れない。分かるの。何か嫌なものが覆ってる。膜じゃなくて、靄じゃなくて、そう、水流のような。鉄砲水みたいな大きくて太い流れが、街を飲み込んでいる。酷く強い力だから、誰も逃れられないの。その中ではいくら足掻いても決して抜け出せないの。できることと言えば、飲まれてしまわないように必死にここにしがみついていることだけ」
「水流」
「そう、水流。だから……」
顔を伏せたまま、僕の腕に腕を絡めてくる。毛布がはだけ、素足が露わになる。胸元のボタンは既にいくつか外されている。
「香奈っ。ちょっと待って」
月は相変わらず低く細い。はじめて香奈と寝た日もこんな月だったなと、ふと思い出した。
「怖いの。あなたは笑うかも知れないけど、怖いのよ。こんな夜ははじめて。体の芯が氷つくみたいな不快感」
「だから…」とようやく顔を上げた香奈の懇願する表情は、僕が初めて見るものだった。
僕が黙っていると、香奈の瞳からまた光が失せていく。両足を抱きしめ、華奢な体を小さく固くする。
ついさっきまで心地よい熱を与えてくれたコーヒーも、既に冷めきっている。目を凝らせば、既にこの部屋のあちこちにあの得体の知れない闇が染み入っているように見える。
青いカーテンとベッドカバー、白い壁紙とテーブルの部屋。床に転がるビー玉。お気に入りのアロマをこんなに焚いて、大好きな甘いコーヒーを口にして、神聖な儀式みたいに作ったこの最後の砦ですら、水流に軋みをあげている。
香奈は凍えたみたいに体を抱き、それきり黙ってしまった。
沈黙はまずい。みるみる間に闇は押し寄せてくる。息苦しいほどに空気が冷たい。時刻は八時を回り、夜が更ける程に闇の水流は力を増していくようだ。沈黙はまずい。このままではまずい。
「香奈、行こう」
「勇気を出して女の子から誘ったのに、どこへ行くって言うのよ」
「ここに居ちゃいけない。星ひとつない夜の闇なんて、あんまりに救いが無い。そんなのは人を殺す病みたいなものだ。だからここから逃げよう。探しに行こう。僕達が見つけよう」
「嫌」
「行こう」
嫌がる香奈の手をつかみ、立ち上がらせる。寝間着の上にコートをかけただけだが、一刻も早くここから抜け出さなければならない。
開いたドアから、息苦しいくらい冷たい空気が吹き込んでくる。蛍光灯の光はすぐに闇に霧散し、照らされた通路は薄暗い。
内心に「これが闇か」と呟く。香奈と一緒だからか、それとも水流の勢いが強まったか、いやその両方か。僕にもこの街の異常がまじまじと感じ取れる。
重苦しくまとわりついてくるそれは汚い雪に体を埋められたみたいで、身動きが取れず、息苦しいく、嫌悪感を拭えない。じっとしていれば冷えと汚れで体は固まり、意識は崩れてやがて死に至るのだ。
低いところにあった三日月が、ニヤついた口のように鈍く光った。