写真:あぶ
 

 

「実在的なものは
   何も脅かされることはない。

   非実在的なものは
   何も存在しない。

   ここにこそ
   神の平安がある」

 

 

奇跡の道
序文

 

 

***

 

 

これは
「奇跡の道」の序文。

奇跡のコースを
学び始めた頃
しょっぱなからこれで
まったく意味わからんちんで
 

とりあえず読み飛ばした(笑)
 
 
 

奇跡のコースは

長い長い本だけど
冒頭のこの序文に
全てが集約されていると
 

えまごやで
奇跡のコースを学ぶ
インテンシブクラスを
してくださっている
やすらぎの部屋の

川上貢一さんが教えてくださった。
 
 
 
奇跡のコースは
ある意味恐ろしい(笑)
 
なぜ恐ろしいのかと言うと
もし受け入れてしまったら
それまでの自分の概念が
全て崩壊してしまうからだと
私は感じている。
 
実はその崩壊が
祝福なのだけど。
 
 
 
奇跡のコースが
伝えていることは
この世界の前提をひっくり返す。
 
前提、つまり根底が変わるのだから
それに基づく全てが
必然的にひっくり返ることになる。
 
今うまくいってて
いい感じだと思ってる人は
それがひっくり返るなんて
それはそれは恐ろしいわなー(笑)
 
ホントはもっと
そう、想像できないほど
いい感じになるんだけど。
 
人は誰しもが
自分は正しいと思いたい。
 
それが違うよと言われるのは
好きではないのだ。
 
猛烈に反発したくなるだろう。
 
 
 
奇跡のコースは
私たちは霊(spirit)であると
伝えている。
 
神の子であると。
 
スピな話が好きな人は
うんうん、そうそう、と言うだろう。
 
私もそうだった。
 
そして、私のそれに関して言えば
すげーお門違いな、うんうん、だった。
 
薄っぺらい理解であり
わかっているつもりゲームだった。
 
 
 
私たちの本当の姿が
霊(spirit)であり
なぜなら神の子であるならば
 
それが実在するものであり
(実際に存在するもの)
それ以外は非実在
(実際には存在しないもの)
というわけだ。
 
神から分離したことが
私たちの最初の変化だった。
 
そして
神から分離したことによって
見失ったものを見出すために
自分たちでこの世界を作り
肉体を作り、自我を作った。
(ざっくりすぎるほどざっくりだけど)
 
 
 
私たちが
自分だと思っているのは
自我であって
 
自我は神との分離以来
自分が作ったもの。

自我が神を認めると
自分が存続できないので
どうしても否定したい(笑)

なんせ自我の考え方すべてが
神がいない前提から生まれるもので
それによってこの世界は
構築されているから

受け入れちゃったら
この世界が変わる、って言うか
なくなる?(笑)
 
そりゃー
否定したくなるわなー(笑)
 
けれど
その自我が作った世界で
生きている限り
本当の意味で欲しいものは
きっと手に入らないんだな、って
今になり私は思う。
 
 
 
奇跡のコースを書き取った
ヘレン・シャックマン女史とも
直接親交のあった
奇跡のコースの教師である
ジョン・マンディ氏の言葉に
 
「人は何によって目覚めるのか。
 それは瞑想などではなく『絶望』である」
 
というものがある。

絶望とは
大事件があったり
ものすごく悲惨なことがあったり
そういう人だけがするものではない。

日常の中に
ひたひたと忍び寄るような
あっても当たり前になり過ぎて
考えようともしないことの中にも
ある。
 
確かに、ある。
 
そして、人はやがてそれは
「そういうもの」だと思うようになる。
 
だから
自分が絶望しているとさえ
思いもしない。
 
また、「そういうもの」を
なんとかするために
あちらこちらに
何かの思想だの
何かのノウハウだのが
転がっている。

そしてそれに取り組み
うまくいったような気になり
そして、一見うまくいき
私たちは満足するけれど

どこかに必ず
拭い去れない「何か」を
必ず持っていると
私は思っている。

私も持っている。
 
その拭い去れない「何か」は
絶望に見えない絶望なのだ。
 
 
 
絶望はいい。
 
絶望は自我の
断末魔の悲鳴ように思う。
 
私たちを扉の前まで連れてきて
言葉なく問う。
 
「このままでいいのか?
   このままでいたいのか?」
 
と。
 
答えはNOだ。
 
その時扉は開く。
 
 
 
私の使っているカードを
作ったOshoの言葉に
こんなものがある。
 
奇跡のコースが
伝えていることと
Oshoが伝えていることは
私の中でリンクし
同じものを喚起させる。

 

 

存在は裁かない。それは禅が人類になした最大の貢献のひとつだ。

 

目覚めるために、聖者になる必要はない。あなたは生のどんな角度からでも、どんな次元からでも、目覚めることができる。

 

それはちょうど、ある者が誰かを殺す夢を見ていて、ほかの誰かが貧しい人びとに仕える非常に甘い夢を見ているのと

同じようなことだ。

 

誰かは自分が非常に徳が高く、聖者である夢を見ているが、

誰かは自分が殺人者であり、最悪のたぐいの犯罪者である夢を見ている。

 

聖者の夢を見ている者が早く目覚め、罪人や犯罪者は目覚めるのに少し長い時間がかかると思うだろうか?

 

彼らは同じ方法によって、どちらもまったく同時に目覚める。ふたりにバケツ一杯の氷のように冷たい水を浴びせ掛けるだけで、彼らはベッドから跳び起きる。

 

彼らが罪の夢を見ていようと、美徳の夢を見ていようと関係ない。

 

Osho

 

 
非実在の世界は夢だ。
 
冒頭の言葉にあるように
実在(私たちの本当の姿である霊)
存在するけれど
非実在(私たちが自分だと思っている自我)
存在しないということになる。
 
神から分離して
この世界を作って
そこで生きているのは
夢を見ているようなもの。
 
夢の中にいる時は
夢を見ているとは思わない。
夢が現実なのだ。
 
どんなに恐ろしい夢を
見ていようとも
起きるとそれは終わる。
 
覚醒という言葉があるけど
それは特別なことじゃなく
ただ、単に、目が醒めること。

特別な人が
選ばられた人が
するものではない。
 
Oshoの言葉にもあるように
バケツの一杯の氷水を浴びれば
ベッドから飛び起きる。
 
そこで夢は終わる。
 
 
 
奇跡のコースは
そのバケツ一杯の氷水だ。
 
それを浴びるまでは
自分が夢を見ているなんて
絶対に思えない。
 
むしろそんなことを言う人を
おかしいと言うだろう。
 
 
 
けれど
絶望した時
私たちはたどり着く。
 
何もかも失ったように感じる時
私たちは実は神に近い。
 
これが夢ならどんなにいいか…
そんな時扉の前にいる。
 
そうだよ
それは夢なんだよ
だから何も心配ない
 
そう教えてくれる。
 
 
 
そしてそこから
それが本当であるという
証明が始まる。
 
夢の外の世界を
夢の中で体験するようになる。
 
体験が増えていくにつれて
私たちはこう思うかもしれない。
 
もしかしたら
やっぱり
あれは本当だった、と。
 
人間としてここで
生きているから
いきなり霊だの言われれも
なんだかなーだけど

悪夢が素敵な夢に変わっていく。
 
その時
心の中に起こることが起こる。

それは聖霊が行うことで
何がどうなるかなんて
どういうことが起こるかなんて
私にはさっぱりわからないけど
 
私は確かに体験した。
 
現実の現象が変化していくことを。
心の中が変化していくことを。
 
美味しいものを食べて
美味しいと言うように
 
奇跡のコースを生きて
あれは本当なんだなぁと

私は言う。
 
 
 

「実在的なものは
   何も脅かされることはない。

   非実在的なものは
   何も存在しない。

   ここにこそ
   神の平安がある」

 
 
 
これを
危険なほどざっくり
意訳してしまうと
 
イヤだと思ってることは
みんなないんだよ
だから安心して
 
そんな感じだ。
 
 
 
これからそれが人生において
証明されようとしている。
 
それが、奇跡。
 
 
 
あら。
語ってたら
こんなに書いちゃった。
 
 
 
今はもう
不思議な現象とか
そういうのには興味がない。
 
私はただ
本当のことを知り
それを人生で体験したい。

最高にいい夢を見て
そして、帰りたいだけだ。
 
ただ、どうしたらいいかわからない。
 
だから
それを見せてもらう。
教えてもらう。
 
奇跡を。
 
 
 
約束した人に
私は呼びかける。

そして、その人は私。
 
私は人を通してしか
私を見ることはできず
家に帰ることはできない。
 
 

うすぼんやりと何か違うと
何かこう行き止まりまで来たと
感じる方も多いと思う。
 
その感覚を信じてほしいなって思う。
 
 
 
奇跡のコースを学ぶ
インテンシブクラス
ぜひいらしてください。

来てよかったと
きっと思ってもらえる。

 

 

 

 

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