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emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

昨日はハロウィン🎃でしたね。


我が家は特にしていなかったけれど、


急遽、セブンイレブンでマカロン買って

食べてみました。










和紙でできている

ハロウィンのポストカードを

長浜の城下で買いました。


友達に送ろうとと思ったけれど、

なんかあげられなかった💦


大好きなポストカードになりました。

郷土資料館に入ると

このあたりにはたくさんの資料がありました。


その中に👇




というパンフレットがありました。



何でこのあたり?とか思って

いたのですよね。


文京区小石川から歩いて行ける

白山神社のあたりには

八百屋お七のお墓があります。


白山神社に行く時に

こんな案内標識をみつけて

「近いんだなぁ 」なんておもって

改めて調べたことがありました。


その「八百屋お七」さんが

どうして岡山に⁉️


ですよね。


          文京区の白山神社へ行った時の写真




パンフレットによると…


御津には、八百屋お七にまつわる祠がある

と始まって


江戸駒込の八百屋太郎兵衛夫婦には子が無く、

日夜七面尊にお祈りし、女児が生まれた。

七面尊のお陰と信じ「お七」と名付けた。

その後、火災があり太郎兵衛の家も焼け一家は

太郎兵衛の弟が住職している小石川の円乗寺に

身を寄せた。

お七は、円乗寺に出入りしていた同年代の旗本の

次男山田佐兵衛と恋仲になった。

新居が完成し家に帰ったお七は、片身を裂かれる

思いから病気になった。

その話を聞いた吉三郎という男が、佐兵衛の艶書の使い

をしてはお礼を貰っていた。

吉三郎は「佐兵衛に逢いたければ家を焼き、

また円乗寺に身を寄せれば佐兵衛に逢える」と放火を

教えた。お七は、逢いたい一心で、

吉三郎の言葉に乗って放火し、火は一帯に広がり大火と

なった。お七は市中を引回され、火あぶりの刑に

処せられた。


吉三郎は、お七の処刑後、前非を悔い、

名を志誠と改め、お七の分骨を持って

諸国を行脚、いつの頃か野々口に留まり、

後に小山村で没した。

村人たちは、お七の遺骨とともに手厚く葬った

と伝えられている。

また野々口の大村家には、

「吉三郎志誠院日真」と書いた曼荼羅がある。



と書いてありました。



この御津を離れるにあたって近くにあるというので

行ってみました。







小高い岡の上にありました。


右からは一般のお家の駐車場。

左からは、なんとなく道があるようだけれど

どうやっていけばいいのかな?と

思案していると👇の畑に来ている軽トラックの

おじいさんにお話を聞くと、

「右側の駐車場のところからも行けるよ」

「左側は刈ったばかりだからいけないことは

ないけれど?」と教えてくれました。














祠を雨を凌ぐために建てたんですね。


お参りをさせていただきました。


左の三角のものがお七さんで

右の長方形のものが吉三郎のお墓だそうです



このブログを書く際に色々調べてみましたが、

色々な諸説、文学、歌舞伎、文楽、芸能に

おいて色々な話があるようですが、


吉三郎のお墓というのも

何ヶ所かあるようで、

静岡では島田宿にもあるとか。


今度行った時にでも史跡を探してみようかと

思います。



金川城跡周辺の散策を終えて、


「続・岡山城 宇喜田家二代とその妻」の

イベントへ戻ります



続く…




「御津郷土歴史資料館

      に行ってみよう」




勢いに乗る宇喜多氏


宇喜多氏は元々備前東部の戦国大名である

浦上氏に従う武将のひとりでした。

でも宇喜多直家(宇喜多秀家の父)は、

常識にとらわれない戦略で周辺のライバルたちを

次々に倒して支配地域を広げて行きました。


浦上・宇喜多の連合軍と対立した松田元輝は

宇喜多直家からの和睦の申し入れがあり、

長男の松田元賢と宇喜多直家の娘を結婚させて

勢力の維持を模索した


しかし良好な関係は長く続かなかった



永禄11年(1568年)金川城を松田氏の家臣・伊賀久隆が

包囲して金川城を乗っ取ったそうです。


松田氏と宇喜多の娘の婚姻して和睦した時に

宇喜多直家は直家の妹を伊賀氏とも婚姻をしていました


「西備前一の堅城」と云われた金川城に立て籠った

松田氏だったけれど伊賀・宇喜多勢から攻められ

金川城は落城。

城主の松田氏は約230年に渡って続いたものの滅亡。


     (パネルを参考にさせていただきました)





永禄11年(1568年)宇喜多直家が松田氏を滅ぼすと

金川城は宇喜多氏のものとなり

直家の弟の春家を城主としたとも云われている

備前進出を目指す毛利や三村氏と対決する最前線の砦

として機能したそうです


天下分け目の戦いと言われる『関ヶ原の戦い』で

宇喜多氏は「西軍」として参戦して敗軍となり

宇喜多氏は所領を没収されることになって

備前国は小早川秀秋が治めることになり、

その後は一国一城令によって金川城は廃城に

なったとされている。



松田氏・伊賀氏や毛利・小早川氏などは

鎌倉時代の承久の変の頃に功績などから

新補地頭としてきたということがわかって

来ると不思議なものです。


かながわ(金川)→神奈川(かながわ)関係が

あるのかな?



郷土資料館では


「御津町の生い立ち」


御津には山城がいっぱいということで

「金川城」や「徳倉城」跡などの資料があったり、



👇




👇👇



「ラストサムライ〜瀧善三郎〜」


神戸事件の真相という資料もありました。


幕末慶應3年12月7日兵庫開港の後、

警備の幕府軍が薩長連合軍に大敗して逃走。

明けて慶應4年(1865年)、備前藩は西宮警備の

命令が下り、総勢2000名の軍勢を派遣することになり

その中の700余名の日置(へき)隊は1月4日、岡山を

出発した。

隊が神戸村現在の三宮神社にさしかかった時、

通訳を連れた外人2人が隊列の前を横切ろうとしたので

制止したが、外人はステッキを振りながら

大声でわめきながら横切ったのを、槍でつき、さらに

鉄砲で威嚇する外人もいて事態が大きくなって

ついに銃撃戦になってしまうという事件が

あったそうです。


イギリス公使パークスは英・米・仏などの陸戦隊を

上陸させて神戸を一時占領したという

「神戸事件」おきました。


鉄砲隊長だった責任者として切腹したという

瀧善三郎は金川東町の生まれであり、

義烈碑が立っているそうです。









あの神戸三宮の道路の真ん中にある「三宮神社」に

も「史蹟 神戸事件発生地碑」と当時の大砲が置かれて

いるそうです。


👆関東出身だからかな?

 「生麦事件」は教科書で習ったのを覚えていますが、

 この事件は知らなかったです。




「吉行あぐりさんゆかりの地」


としても紹介されていました。




「八百屋お七物語」


あの江戸駒込の八百屋お七です。



       続く…













第44代 元正天皇

奈保山西陵





日本の女帝は5人目、女帝が皇后や皇太子妃であったけれど

結婚経験がなく、独身で即位した

初めての女性天皇です。






元明天皇陵の「奈保山東陵」とは道を挟んで東陵と西陵に

わかれていますが、

同じ丘陵上い立地していると云われています。


一時は元明天皇が「ウワナベ古墳」が陵かと

云われていたように

元正天皇陵も「コナベ古墳が元正天皇陵と当てられた

事もあったそうです。


1865年にこの丘陵が元正陵と治定されました。

















正倉院展部行った帰り道に

参拝してきました。


第43代 元明天皇

奈保山東陵





元明天皇については👇で

書いています。








2年前に書いた時から
やっと天皇陵へ参拝がかないました。




※ウワナベ古墳が元明天皇陵ではないかと
思われた時もあったそうですが、
現在は江戸時代に銘文の刻まれた
「函石」が見つかったとのことで
こちらが宮内庁より制定されています。