今年も新年祝賀の儀は、参賀の参列する人数を
減らし縮小して行われ、
2日に行うのが恒例となっていた
新年一般参賀は中止でした。
今年は一般参賀は中止となりましたが、
この日には
「元明天皇千三百年式年祭の儀」
という宮中祭祀が行われたそうです。
亡くなられた天皇は、3年、5年に続いて10年ごと、50年の後は100年ごとの節目で宮中三殿の「皇霊殿」と「山稜」で式年祭が行われ、今年は亡くなって1300年の節目を迎えた元明天皇の式年祭が行われたそうです。
1月2日午前天皇陛下は宮中三殿「皇霊殿」では入り拝礼され、続いて秋篠宮様も拝礼。
葬られた奈良の「山稜」で行われたお祭りには寛仁親王妃信子様が参列されたそうです。
※寛仁親王妃信子様は大正天皇の第四皇子三笠宮崇仁親王の長子、寛仁親王のお妃である。寛仁親王は将来三笠宮を継ぐとして宮号を賜らなかったので、「寛仁親王家」としていた。しかし薨去にあたり「寛仁親王家」は「三笠宮家」に合流。現在、三笠家は崇仁親王妃百合子様(大正12年生まれ)が当主である。
元明天皇は父を天智天皇、母は蘇我倉山田石川姪娘であり、持統天皇とは父を同じ(異母姉妹)で、母方からすると姪娘と持統天皇の母の遠智娘とは姉妹と云われているので従姉妹という関係である。
どちらにしても血縁であるが、その異母姉妹で従従姉妹でもある元明と持統天皇の息子、草壁皇子を結ばせだから、姑嫁の関係でもあったんですよね。これは深い関係です
夫である草壁皇子も子の文武天皇も早逝してしまったので、(孫)である首皇子(後に45代聖武天皇)が7才だったために孫の成長を待つために天皇として即位したと云われているんですよね
治世は9年ですが「藤原京」から「平城京」に遷都、天武天皇の代からの勅令であった「古事記」献上させたり、「風土記」の編纂と好字令を詔勅したとされているなどされています。
また、治世の間に「和同開珎」の発行および和同銅銭の流通などもあった。
9年という治世であったが、まだ体の弱かった首皇子ではなく、子である氷高皇女に譲位して亡くなるまで太上天皇として影響力を持ったと云われています、
※天皇が亡くなられた時は「崩御」、
及び「薨去」などを使わずに書いてしまっています。
元明天皇、元正天皇については
詳しく調べたことがなかったので、
この記事を見て自分なりに
調べて、今まで関係している場所などをUPしてみました。なかなかまだ、調べ尽くせていませんが
没頭できる時間を作れました。
誤字脱字などがあると思いますがすみません。
まだ、奈良の御陵(山陵)には参拝できていないので近々いけたらと思っています。
2022年1月2日は、太陽暦での日付だそうです。
御陵印帳