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emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

やはり知ったからには…






12年に一度(辰年)の秘仏が

ご開帳と聞いて

9日(土)は午前中仕事でしたが、

終わり次第

主人と行って来ました。 








12年前といえば、

群馬から関西へ転勤してきて2年目で、

まだ自分のことで手一杯。

覚えるのに

必死だったな。


さて、車を止めて

中へ入ると本堂には長い列があって

観るのにも時間がかかるかな?

と思いましたが、

御朱印待ちだそうです💦

書き置きも一緒です。






本堂の中へ入ると
中央の厨子の扉が
開いていて、お姿をお出しになられて
いました。

目の前まで行く間
座って順番を待つように誘導されて
目の前まで行って拝ませていただき
ました。



西国三十三所の第17番目



平成30年(2018年)3月にきていますね。






今年は2024年なので6年ぶりです。










平清盛公の塚













12月5日までの33日間だそうです。


時間があって行けて、お会いできて

良かったです。









乙子城


別名 音湖城


岡山県岡山市東区乙子にあった城で


宇喜多直家出世の城と伝えられています


天文3年(1544年)宇喜多直家により築城され、

当時浦上宗景に仕えていた宇喜多直家が初陣で

戦功をあげ、


三百貫の所領と

30人の足軽を与えられた


とも伝えれています。











当時は工事現場になっていて、これ以上先にはいけなかった

のです。


現状としては小さな古墳?というような丘陵がるだけで、

工事現場だったり、畑だったりしますが、

1980年代までは本丸が背後に土塁が存在していたようです。


城郭構造としては連郭式山城となっているので

一画を残して整備で破壊されてしまったか

地すべりで失われたかは不明のようです。










石には


「宇喜多直家 

  国とりはじまりの地」


と彫ってあります。


乙子城跡の記念碑

「赤さび石の自然石」←の紹介文がありました。


紹介文には…


砥石城の城主であった

(近くにあるのでこの城の後に行ってみました)

直家の祖父能家は

隣の長沼荘、高取山の城主島村氏に襲撃され

宇喜多氏は没落しました。

(宇喜多能家は岡山城内でも説明がありました)


直家の父興家は幼い八郎(直家)を連れ流浪の

旅に出て備後の鞆に隠れ住んでいましたが、

祖父能家のゆかりの福岡(瀬戸市内長船町)に帰り、

阿部善定という豪商に助けられ養われます。


天文12年(1543年)八郎は14歳で元服して

宇喜多直家と名乗って、佐伯町の天神山城主の

浦上宗景に仕えました。

そして自ら志願して瀬戸内海の犬島周辺に

出没する海賊衆を取り締まるため、

吉井川の河口にある乙子に城を築き

16歳の若き城主が誕生しました。


この地が国とりの始まりとされ

岡山城400年を記念して平成8年に

モニュメントを作りました。

(とあります👆)


犬島産の花崗岩を使って

『宇喜多直家 国とりはじまりの地』

の文字を刻み設置しております。


乙子城北側の平地に高さ約3.5mの三角

おむすびのような形の赤さび石の自然石が

基礎石の上にどっかと座っています。


その周りには家来の足軽30人を

イメージして直家を守るように丸い石が30個

ぐるりと囲んでいます。


(初陣で戦功を上げた時にもらったものですね)


現在は瀬戸内海が見渡せませんが、

当時は海賊船がたむろしていた犬島も

良く見えたのでしょう。




👆の文を見て


豊臣秀吉の養女・豪姫の夫である

宇喜多秀家(直家の息子)に話が

いきがちですけれど、

宇喜多直家を通して「岡山」を見てみるのも

良いですね。


再来年の大河ドラマでは

宇喜多氏が出るのかな?


続く…












久しぶりに運転しました!


運転は主人にお任せなんですけれど、

なぜか今回は運転したかったのです💦


自宅から鈴鹿までの150kmくらいかな?


それだけでちょっと満足しちゃって、

ドライビングハイなのか、

すごく好調な感じで

一気に行ってしまって💦


その後は主人にお任せ💦


途中、昼食は


「岡崎」で降りて





「大正庵釜春 本店」さんで

八丁味噌を使った

「味噌煮込みうどん」を食べてきました。


このお店の創業は明治中期の老舗で、

「釜揚げうどん」の元祖らしいのですけれど、

まだ、食べてないんですよね。

完全専用粉から手打ちのうどんに

こだわるお店です。



お腹がいっぱい🈵〜



そのまま車に乗って🚗行って行こうかな?

とか思いましたが、



やはり



「岡崎城」のお膝元にいるならば

  行かねばなりませんね😆


昨年の大河ドラマ「どうする家康」でも

数回行っていますが、

今回はのんびり、見てこようかな。





ありゃ、

明日(11月2日)からイベントがあるらしいです。



久しぶりの岡崎城


あら、このオブジェは何だろう?






☝️で岡崎城のことは書いているので省略



天守(最上階)は雨模様なこともあるのかな?

昨年よりもやはり人は少なかったです。



最上階では、アンケートをして

入口にもっていくと




お礼に気持ちばかりと書いてありますが、

コースターがもらえました。












「大河ドラマ館」ではなく


「三河武士の館 家康館」にまた、

もどっていました。



























ドラマの、お陰で誰の兜か

わかるようになっているものですね。










城がデザインのマンホールカード

大好き❤

岡崎もお城でした!







ここ最近で

何回「岡山城」に行ったかな?


とても好きなお城の一つなので

何回行っても感動しています。






















☝️の写真は主人に立ってもらって

鏡石の大きさを比較してもらっているので、

消してません。







今回は iPhoneを「16」にして

画像の加工・クリーンアップができるようになったので

人を消してみました。



今まで顔をハートで消していたりしていたので

大変だったけれど、すごく便利になりましたよ。

やっとiPhoneでもできるようになったのですね。

ちなみに今までは「13」でした。


因みに👇





リニューアルする前の岡山城は


こんな感じだったのを思い出して


写真を探してみました。





今回の岡山城でのミッションは「宇喜多家」についての

話しなので4階の「岡山 戦国の表舞台へ」

〜宇喜多直家と秀家〜









宇喜多能家


「備前軍期」では宇喜多直家の祖父・能家が

智勇兼備の武将であったこと、

宇喜多氏が百済の王族で、児島に渡来し、三宅を

名乗ったとの伝承を配しています。

宇喜多の旗印の「兒」は、児島に由来するが

宇喜多秀家のの時代には旗印に使われず、

唐太鼓の紋様が使われています。







宇喜多秀家の母


円融院

生没年ははっきりしていないらしいけれど、

没年の方がまだよくわからないものの、

生年は天文18年(1549年)頃ではないかということです。


ドラマで「愛に燃える戦国の女」というのを

再放送した時にみたのですが、

三田佳子さんがこの円融院(おふく)の役をして

初めて知りました。


ストーリーとしては

永禄12年秋、三浦貞勝に嫁いでいたんだけれど、

尼子勢に城を攻められて、侍女と息子の

桃寿丸を連れて城を脱出して、放浪していると

宇喜多直家に救われるんですよね。

直家は結局おふくを側室にしてしまうし、

八郎(後の宇喜多秀家を出産)

三浦貞勝の子ども桃寿丸や侍女をも

殺害されてしまうけれど、

直家との子ども八郎(宇喜多秀家)のために

強く生き抜いていくという話しなんですよね、


三浦貞勝は役所広司さん、

宇喜多直家は山城新伍さんだったりして

そんな女性がいるんだなぁと

思ったのを楽しんでみていました。







宇喜多の旗印の一つで上☝️の「兒」がありますが、

「睨」と間違えていて宇喜多直家は「マムシ」

とも、いわれているから「にらみ」だと

思っていたんですよね。


これは「兒島」「児島」「児」だったのですね💦








👇これは








ソテツの花だそうです、

蕾なのかな?

ソテツの花言葉
「雄々しい」

宇喜多秀家は関ヶ原の合戦で敗れたあとに
八丈島にながされ、
そこで秀家が植えたとされている
ソテツが岡山に株分されたと言わらていますが、
これもその一つなのでしょうか?

八丈島ではソテツの花が咲くと赦免の沙汰が
あると言われていたそうです。
しかし秀家が亡くなるまで、それからもずっと
幾度も咲いても赦免の沙汰はなかったのですね、
結局、子孫が赦されたのは明治維新後で、
その際にはソテツの花が咲いていたと
言い伝えがあるそうです。








「なぜ、こんなところにも…」という疑問は


「なぜここにも…」ということで、

静岡に帰省したので、行ってきました。




延命山関川庵(曹洞宗)


島田博物館の裏手にあることは

地図で大体はわかって行ってみましたが、

住宅街でして探すのに苦労しました。







イベントをしているんですね。





入ってすぐのところにありました。



関川庵の伝承によると、
お七の菩提を弔うために
江戸から西国に向けて旅立ち、吉三郎は大井川を前にして
亡くなり、この地に葬られたそうです。
さらに幾年か後に「廓慶」という名の僧が江戸からやって来て
この層はお七と吉三郎の息子だと言い
関川庵で終生、2人の菩提を弔ったとのこと。
この庵の本尊の隣に祀られている吉三郎蔵は、
吉三郎が背負ってきたものとも
「廓慶」がこの地で刻んとものとも言われている
地蔵尊があるそうです。

色々と石塔や位牌などもあるそうですが、
位牌の後ろにはお七の命日が記されているようですが、
史実とは合っていないそうで、
ことの真相はわからなくなっているそうです。


岡山で出会った吉三郎さん、島田で出会った吉三郎さんと
色々とわからないことが多いのですが、
思いがけずに出会えたので、
手を合わせて来ました。


追記…

コメントを残してくださりありがとうございます


八百屋於七・妙栄禅定尼霊位

天和三年(1683年)旧暦3月29日没


八百屋於七の火事の話は瓦版が北は蝦夷、松前
西は京、大阪、南は薩摩や琉球と全国津々浦々に
いち早く伝わったとありますね。

知らない人はいないくらいの話だったのですね。