あっという間に2025年の1月も終わってしまいました。
ありがたいことに💦仕事も忙しく💦
頑張っています。
2025年も1月に北野天満宮へお参りして来ました。
朝早く行ったので、
寒かったけれど、ゆっくり撮影できました😆
階段に人がいない状態で撮れたのは良かった
今年は本厄なので、
右側の「本厄除」と書いてある方に
名前を書いて置いてきて、左側は自分で
持ちます。
朝食は北野天満宮近くで探していると
上七軒にある
「きぬカフェ」があるというので
そこでいただきました。
水だと思っていたら
白湯だったんです。
心も身体も温まり、
嬉しい心遣いでした
少しずつ色々なものがいただけてラッキー
ご馳走さまでした。
いつものことですが💦
この先、
どこへ行こうか決まっていなくって
食後に色々と検索していると、
「船岡山城跡」があって
そこは「建勲神社」でもあるという
情報を得たので
行ってきました!
近くの「大覚寺」や「今宮神社」には
行くのに行ってなかったのですよね。
「建勲神社」
たけいさおじんじゃ
御祭神は織田信長で
織田信長の嫡男信忠が配祀されている
織田信長を祀る神社で
通称「けんくん神社」と呼ばれる
天下統一した信長の偉勲を称え、
明治2年(1869年)に明治天皇により創建
された。
同8年(1875年)、別格官弊社に列せられ、
社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。
船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、
平安京の玄武(北の神)として造営の基準点に
されたという場所で、本能寺の変(1582年)の後、
豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、
主君である信長の廟所と定めている。
信長着用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦で信長が
戦利品として持ち帰った義元左文字と
称される太刀、太田牛一自筆本の
「信長公記」などの重要文化財のほか、
信長ゆかりの宝物を多数有する
👆と「建勲神社」について書いてある。
明治時代になってできた神社なんですね。
明治政府の思惑はなんだったのだろうと
思いをはせながら
まずは、
お参り、お参りと思って船岡山を登っていきました。
※船岡山は標高45m、周囲1300m、面積25000坪の
優美な小山であり、その東南側は建勲神社境内
豊臣秀吉の頃より信長公の霊地としていた。
お稲荷さんへの階段を登って左へ
船岡山は聖徳太子の文献では「船岡山が後に皇城の地に
なる」と予言したとも言われ、その名が出ており、
又、その後には
京都に都が定められて、北の基点となり
船岡山の真南が大極殿、朱雀大路となった。
平安朝の昔には清少納言が枕草子で
「丘は船岡、片岡、鞆岡」と讃え、
また清原元輔・藤原俊成等多くの和歌が残されて
いる。平安京の人々が若菜摘み、蕨採りに興じる
清遊の地でもあった。
織田信長公の36功臣の絵があるそうですが、
3期に分けて飾っているそうです。
私が撮った写真では右から「平手政秀」「羽柴秀吉」
「丹羽長秀」「道家尾張守」でした。
今回は1期
池田恒興・織田信長・織田広良・坂井政尚
佐久間信盛・柴田勝家・武井夕庵・道家尾張守
丹羽長秀・羽柴秀吉・平手政秀・簗田出羽守
神社創建の折に功臣36名を選び、各々の生涯において
最も著名な事績を時代考証のもとに
36功臣の1人である池田恒興の末裔、旧因州公の家臣
森本後凋によって描かれて
現在は複製画を掲示してある
※「道家(どうけ)尾張守(おわりのかみ)」
知らなかったので調べてみると
「道家」「どうけ」と読む
鎌倉時代の九条道家によって建立された
光明峯寺が美濃・尾張・三河に領した荘園の
貢租徴収を代々務めた家系といい、
それにちなんで「道家氏」を名乗ったと
伝わる
道家尾張守は尾張守山の人で、代々尾張守と
名乗っていたが、織田備後守信秀が勢力を拡大し
信秀に仕えるようになると尾張守と名乗れず、
尾張といってたとも言われている
桶狭間の戦いび勝利した後、信長は朝廷に
綸旨を求めたと言われていて、その勅使が
尾張に入った際に迎えたとされるのが
道家尾張守。
その息子清十郎、助十郎は、武田氏との
東美濃高野口における戦いの際、
兄弟で三つの頸を取る戦功をあげ、
「天下一の勇士なり」と信長自ら白い旗に
認めて与えたとされ、
後に元亀元年の越前朝倉攻めに際し、
志賀宇佐山城に布陣した
森可成とともに戦死
※九条道家は九条良経の子で
祖父は九条兼実
父の良経だが38歳の若さで亡くなったために
祖父の九条兼実に引き取られて養育される
鎌倉将軍第4代の藤原頼経は道家の3男
母は坊門姫
頼朝の甥になるのかな?
坊門姫は
頼朝の同母姉とも同母妹とも言われている
※光明峯寺
法性寺(京都東山区)の月輪殿付近、九条兼実廟に
近い地であったと推測されて、現在の東福寺の毘沙門谷
に建立されたのではないかとも
その後は応仁の乱の際に焼き払われ消滅し、
再建されずに現在に至る
建物は高野山金剛峯寺を模して建造されたと
されている
小高い丘という感じですけれど、
上り切るととても京都市内では見晴らしが
良かったです。
御朱印もいただきました。
来年の大河にもなりますね。
もともと羽柴(豊臣)秀吉は
正親町天皇からもお許しがあり「天正寺」という寺号も
決まって、
この船岡山に建立しようとしていましたが
途中で中止となってしまって完成することも
なかったんですよね。
(中止になった経緯とかも調べてみたいし)
信長公の霊地として大徳寺に
大切に管理されていたそうです。
この船岡山の「応仁の乱」で
西軍の城跡についても
書き留めておきたいので
ひとまず
続くとします