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emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。



鬼室神社(きしつじんじゃ)

귀실신사(クぃシるシんサ)







韓国の歴史ドラマはみたことがありますか?


私は、日本のドラマも大好きですけれど、

ある時から、韓国の歴史ドラマを

見てきました。


その中でも

高句麗→「朱蒙」

百済→「近肖古王」「薯童謠(ソドンヨ)」「階伯(けべく)」

新羅→「善徳女王」


他にもたくさんありますが、


今回はこの「百済」に関係する


「鬼室集斯」(きしつしゅうし)

の神社によってきました



滋賀県蒲生郡日野にあり、



「音羽城」に行く途中でした






今から約1300年前、近江朝廷が大津に都を定めて

いた頃、、百済(現在の大韓民国)から

日本へ多くの人が渡来(亡命)しました。

渡来人の中でも優れた文化人であった

鬼室集斯という高官の墓碑が、

神社の本殿裏の石祠に祀られていたこと

から、この神社が鬼室神社と

名付けられました。


鬼室集斯

鬼室集斯は、百済滅亡後に渡来した百済人です

「日本書紀」によると天智天皇4年(665年)2月

父である佐平鬼室福信の功によって小錦下の位階が

授けられ、同8年に佐平余自信をはじめとする700人

余りとともに近江国蒲生郡に移住したと

されています。


※佐平…百済の最高官位

※小錦下…664年から685年まで日本で用いられた

     冠位で26階中12位
















天智天皇10年に学職頭に任じられた

鬼室集斯は、渡来人として近隣地域の

発展に貢献したとされています


※学職頭…ふみのつかさのかみ




鬼室集斯墓碑は、

高さ48.8cmの黒雲母花崗岩(日野町小野にある石子山

で取れる石)で作られてたほぼ八角柱状のもので

銘文は、八角の一面おきに陰刻されており

正面に「鬼室集斯墓」、右面に

「朱鳥三年戊子十一月八日□」

左側面に「庶孫美成造」とあるそうです



鬼室神社のパンフレットより








日野城趾のブログの続き


蒲生氏郷は「日野城(中野城)」で

誕生したと言われていて👇




日野城趾入り口の近くに

「蒲生氏郷公産湯の井戸」があります




蒲生家は👆のブログで書いたように

氏郷の頃には日野城(中野城)でしたが、

それ以前には「音羽城」を居城としていました



このブログを🆙した後に、

音羽山城趾にも行ってみたく

先週行ってきました。








音羽城は、現在の日野町東部、音羽地区にあり、

蒲生郡の南端を領していた

蒲生惣領家の本拠地とされていました。


日野川を眼下に望む、急峻な自然地形を活かした

堅牢な山城を

応仁の乱(1467〜77)頃に蒲生貞秀により

築かれたと伝えられています

👆今回は音羽城でいただいた資料をもとに書いています


音羽城を築く以前は

室町時代の末、現在の日野町小谷にその居を

構えていたそうです





蒲生貞秀は蒲生家中興の祖とされていて


戦国大名蒲生氏郷の高祖父にあたります。

色々調べていると氏郷を語るには

貞秀なくしてはならない

1人のように思えたので、

ちょっと調べてみました。


「日野菜」を道の駅で知ってから

また違う視点で

歴史を楽しめることになって

嬉しいなぁ。


音羽は、近江と伊勢とを結ぶ山越の伊勢路の

一つ「仁正寺越え」(大河原越えともいう)が

通る交通の要塞だったそうです。













音羽城跡は

👆現在、

公園として整備されていて

一部の土塁・曲輪・

  堀切などがわかるようになっています


(以下👇は自分で勝手に調べてみたことなので

 まとまりがありませんので、悪しからず)


系譜


蒲生秀綱→貞秀


貞秀の実父は和田政秀(秀憲)


貞秀は

蒲生氏の支流の和田氏からきていますが、

秀綱の娘を娶って蒲生氏の家督を

相続しました。

その時わずか11歳か12歳だったとか


実のところ

蒲生秀綱と和田政秀(和田氏)は

実兄弟になっているので

秀綱と貞秀は叔父と甥の関係

でもあるんですね。

(面白いことに歴史は繰り返される)




蒲生貞秀①




蒲生貞秀②



戦国の世が始まる引き金となった

「応仁の乱」は応仁元年(1467年)

貞秀23歳の時に始まったこともあり、

いつ誰が襲ってくるかわからない世に

なって、より堅固な城が必要となったために

それまで小谷城(日野町小谷)から

宝殿ケ岳を背後に控え、防御に適した

音羽の地に新しい山城を築いたのだと

ありました。


山の上に本丸・二の丸・南丸などの

広大な中心部の四方に出曲輪・帯曲輪を

設け、南側に空堀を配して防備する

山岳城となっている(👆②の看板)




蒲生貞秀③


蒲生貞秀の看板③👆は

地面に落ちていたので文字が薄くなって

いました…


蒲生貞秀は応仁の乱では東軍に❗️

応仁の乱では貞秀は幕府が支持する東軍、

西軍に属した六角氏と各地で戦った


乱のあとも領地の押領問題で幕府から追討を

受けた六角氏は甲賀に逃げていた

将軍足利義材は六角高頼を攻めるために


将軍足利義材=室町幕府第10代将軍




蒲生貞秀④




蒲生貞秀⑤





蒲生秀綱→貞秀 ①秀行→③秀紀

        ②高郷→④定秀

        


貞秀の相続は①秀行と②高郷となりますが、

貞秀は52歳で出家して家督を①秀行に譲り

智閑(知閑)と号しました

(蒲生貞秀⑤には50歳)



その後、蒲生貞秀(智閑)が死去する前に

①秀行が死去してしまっていたので

秀行の弟の②高郷が

家督相続を望んでいましたが、

貞秀の意向で

①秀行の長男である③秀紀が後継者に指名されて

音羽城主になったとされています


この時に③秀紀は②高郷の娘を娶り表向きは

友好関係を維持していたものの

所領の配分などで不満を持ち、

高郷は六角定頼の支援を受けて挙兵



秀紀は頑強に守ったが、8ヶ月に及ぶ籠城戦の末、

大永3年(1523)に降伏し・開城あせる







素掘りの井戸があり、籠城の際にも使われたであろう

井戸ですが、8ヶ月の籠城後落城する前夜、城主秀紀の

奥方が投身自決したという伝説もあって、

「お方の井戸」とも呼ばれています


また南側に発見された抜け穴に通じるとも

言われているそうです





家督は②高郷の息子④定秀へと移され、


秀紀は支城の一つの鎌掛城へ移り、

その後、忙殺(毒殺とも言われています)



こうして音羽城は廃城となって


「日野・中野城」へと居城を

移したとされています






















現在は「松阪城」と表記されて

いますが城跡は「松坂城跡」として

国の史跡に指定されています















松阪開府の祖とありました
(2022年12月撮影)

前回の「日野城と蒲生氏郷」で話したように
六角氏(六角承禎=義賢)の重臣、
蒲生賢秀の嫡男として
※三男だけれど嫡男ともありますね
日野城に産まれた氏郷です
※幼名は鶴千代
その六角氏が織田信長に敗れたことにより、
賢秀は信長へ氏郷を岐阜へ
人質に差し出し臣従したとされています
穂宇
信長は娘と結婚させ
自ら烏帽子親となり氏郷を
元服させ、
名前も信長の官職
弾正忠から「忠三郎賦秀(やすひで)」と
改めさせました。
※賦秀の読み方は諸説あり

本能寺の変で信長が自刃すると
安土城にいた父と日野城にいた氏郷とで
織田信長の家族(一族)を日野城へと移し
匿ったとされています。
そのことが高く評価されて清洲会議のあとには
秀吉に臣従したとされています。

その後には数多の戦に参加していくが
小牧・長久手の戦いで南伊勢を攻略に回って
いて戦後、伊勢・松ヶ島12万石に加増・転封
となり、天正13年頃より
名前を賦秀から氏郷と改名したとされています

最初は松ヶ島城に入城したが伊勢湾に面していて
手狭とか発展性がないという考えて
現在の城地である四五百森(よいほのもり)に築城。




日野から伊勢へ移った氏郷は
城下町を作り、日野の若松にちなんで「松坂」と
名付けました



早朝に松坂城へ









日野からも商人が移ってゆき

賑わったそうです。














石垣がすごい
近江から穴太衆をも









四五百森(よいほのもり)と呼ばれる標高38mの
独立した丘陵上に、総石垣で築かれているので
とても長めが良いです













松坂の町を発展させるために

様々なことを行い、伊勢街道が城下町を

通るようにしたり、「楽市楽座」、誰でも自由に

商売ができるようにしたりしたと言われています










2026年は「豊臣兄弟」





2027年は「逆賊の幕臣」という

小栗上野介忠順を主人公として描く

大河ドラマになると発表されました。



小栗上野介忠順

(おぐりこうずけのすけただまさ)



2027年大河ドラマ




主人公役には「松坂桃李」さんですね。




実は今「日野城址」で蒲生氏郷繋がりで

「松坂城」についてブログを書いていたところですが

それを中断してニュースになっていたので

急遽書いています。




仕事の関係で2019年3月から2020年の3月まで

久しぶりに関東に転勤で地元に帰っていた時に

関東・東北を満喫していたのですが、

2019年の6月に

「榛名神社」(榛名山)に行った帰りに

たまたま

看板を見つけて、いつもの如く

主人に「行ってみたい」と

お願いして途中寄ってみたのを思い出しました







東善寺

群馬県高崎市倉渕町権田

(2019年6月撮影)


もう

























小栗上野介忠順


文政10年6月23日(1827年7月16日生まれ〜

慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)歿


令和9年2027年は小栗上野介忠順の生誕

200年ということもあったのですね



昨年には2003年のドラマ

「またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行」


が再放送されて、


英雄たちの選択でも再放送?されていたり

したので、なんとなく候補にあったのかな。












「日野菜」は昼間に漬けて

夕刻には




こんなに綺麗に漬かりました💞

👇前回の続きです




「日野菜」、今度見つけたらまた買おう❣️






氏郷街道307


こんな道路標識に落ち合ってしまった時に、


    (2022年3月の画像)






国道307号線のことのようです






蒲生氏郷は織田信長の次女冬姫と結婚とありますね


織田信長は蒲生氏郷の父親の賢秀が当時六角氏の

家臣だった頃に六角氏が信長によって滅ぼされ

賢秀は幼い息子(氏郷)を人質として

差し出しました。


信長は何人もの小姓や人質としてきいる

子どもたちがいたであろう中でも

「蒲生の息子の目つきは普通のものとは違う、

あれはただものではない、

良い武将になるであろう」と、そして

「娘を与えて我が婿に迎えよう」とまで

言わしめた逸材だったとのことです


小姓たちの教育係出会った

稲葉一鉄も氏郷も

「この子の行く末は百万の将たるべし」

と賞賛したと伝られています


信長はそんな氏郷を気に入って

氏郷が元服する際には

自ら烏帽子親を務め、

その後信長の次女「冬姫」を嫁がせ

ました。






地元では「中野城」(址)と呼ばれていて、

これ以前の「音羽城」とは区別しているようです。








中野城を築く前には

ここより東方の音羽の山に

音羽城を築いていましたが

1501年〜1523年頃に、この中野の地に

砦が造ったのが始まりであり、

その後、蒲生定秀が城主だった頃

天文2年(1533年)から3年にかけて本格的に

築城され、同時にこの城の西側一帯の荒野に町割りを

して、日野の城下町をつくったそうです


音羽城→中野城(日野城)



琵琶湖周辺のお城







私の後から知ったことですが、

日野川ダムの建設時に大部分が破壊されてしまって

一部石垣が堀が残るだけとなっているとのことです


車を止めて、上の写真のこの一帯はなんだろうと

思ってみていました。
























蒲生氏郷公👆


















天正10年(1582年)におきた「本能寺の変」の時には

安土城にいた賢秀と内応して信長の妻子や女房衆を

日野城へ退避させたともあります。


信長が本能寺の変で亡くなったあとは

秀吉の配下として活躍し、



松坂城(松阪)へと転封され、










その後に会津へ




江戸時代になると中野城の一部に陣屋を構え、

「仁正寺藩」の陣屋として明治維新まで

続いたとのことで、

その碑などもありました。






「藩主市橋家邸址」👆




「従是東仁正寺領」👆






「蒲生氏郷」は


30代後半から体調を崩していて

辞世の句を読んでいます


「限りあれば 吹かねど花は 散るものを

           心短き 春の山風」


風が吹かなくっても花は時間が経てば

散ってしまうものなのに、

春の山風はなぜ短期にも花を散らして

しまうのか



結局40歳という若さで亡くなってしまいすが、


〜たら?

〜れば?

ですが、蒲生氏郷が長いきしていたら?

どんなだったのでしょうか?










「鯰尾兜」の蒲生氏郷