日野城と蒲生氏郷 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

「日野菜」は昼間に漬けて

夕刻には




こんなに綺麗に漬かりました💞

👇前回の続きです




「日野菜」、今度見つけたらまた買おう❣️






氏郷街道307


こんな道路標識に落ち合ってしまった時に、


    (2022年3月の画像)






国道307号線のことのようです






蒲生氏郷は織田信長の次女冬姫と結婚とありますね


織田信長は蒲生氏郷の父親の賢秀が当時六角氏の

家臣だった頃に六角氏が信長によって滅ぼされ

賢秀は幼い息子(氏郷)を人質として

差し出しました。


信長は何人もの小姓や人質としてきいる

子どもたちがいたであろう中でも

「蒲生の息子の目つきは普通のものとは違う、

あれはただものではない、

良い武将になるであろう」と、そして

「娘を与えて我が婿に迎えよう」とまで

言わしめた逸材だったとのことです


小姓たちの教育係出会った

稲葉一鉄も氏郷も

「この子の行く末は百万の将たるべし」

と賞賛したと伝られています


信長はそんな氏郷を気に入って

氏郷が元服する際には

自ら烏帽子親を務め、

その後信長の次女「冬姫」を嫁がせ

ました。






地元では「中野城」(址)と呼ばれていて、

これ以前の「音羽城」とは区別しているようです。








中野城を築く前には

ここより東方の音羽の山に

音羽城を築いていましたが

1501年〜1523年頃に、この中野の地に

砦が造ったのが始まりであり、

その後、蒲生定秀が城主だった頃

天文2年(1533年)から3年にかけて本格的に

築城され、同時にこの城の西側一帯の荒野に町割りを

して、日野の城下町をつくったそうです


音羽城→中野城(日野城)



琵琶湖周辺のお城







私の後から知ったことですが、

日野川ダムの建設時に大部分が破壊されてしまって

一部石垣が堀が残るだけとなっているとのことです


車を止めて、上の写真のこの一帯はなんだろうと

思ってみていました。
























蒲生氏郷公👆


















天正10年(1582年)におきた「本能寺の変」の時には

安土城にいた賢秀と内応して信長の妻子や女房衆を

日野城へ退避させたともあります。


信長が本能寺の変で亡くなったあとは

秀吉の配下として活躍し、



松坂城(松阪)へと転封され、










その後に会津へ




江戸時代になると中野城の一部に陣屋を構え、

「仁正寺藩」の陣屋として明治維新まで

続いたとのことで、

その碑などもありました。






「藩主市橋家邸址」👆




「従是東仁正寺領」👆






「蒲生氏郷」は


30代後半から体調を崩していて

辞世の句を読んでいます


「限りあれば 吹かねど花は 散るものを

           心短き 春の山風」


風が吹かなくっても花は時間が経てば

散ってしまうものなのに、

春の山風はなぜ短期にも花を散らして

しまうのか



結局40歳という若さで亡くなってしまいすが、


〜たら?

〜れば?

ですが、蒲生氏郷が長いきしていたら?

どんなだったのでしょうか?










「鯰尾兜」の蒲生氏郷