クリスマスが終わってしまった🎄
いよいよ2025年も年末、
後1週間ですね
仕事は一足先に終わっているので
日曜まではゆっくりしよう!
ブログの続き
奈良桜井市あたりから
「かえでの郷ひらら」に
行ったのですが
途中に
「舒明天皇陵」がありました。
☝️段丘が見える!
👆看板より
舒明天皇陵(段ノ塚古墳)
舒明天皇は忍阪ゆかりの押坂彦人大兄皇子の息子で
初めて遣唐使を派遣し
またわが国初の国家寺院である
百済大寺を建てた
天皇として知られています
皇后は、斉明天皇で2人の間には
後の天智天皇、天武天皇
間人皇女(孝徳天皇妃)がおられます
段ノ塚古墳は、古墳時代終末期の7世紀中頃に
造られ
現在「舒明天皇陵押坂陵」として
宮内庁で管理されています
母親の田村皇女(糠手姫皇女)との合葬墓とされ、
日本書紀には
舒明天皇は舒明13年(641)に崩御、
2年後には押坂内陵に改葬され、
田村皇女については、天智3年(664)に
亡くなられたことが記されています
田村皇女の墓については日本書紀には記載が
無く、平安時代に作られた「延喜式」にその
所在が舒明天皇陵内とされていることから
舒明天皇と合葬されている可能性が高いと
されています
その事実を裏付けるように、江戸時代末期の
文久年間(1861年〜1864年)に墳丘の
南面が崩壊し石室が露出した際、村人たちが
密かに内部を窺ったところ、
二基の石棺が見られ、手前の石棺は縦に、
奥の石棺は横に置かれていたという
話が伝わっており、研究者の間でも
被葬者は舒明天皇と母親の田村皇女の
可能性が高いと考えられています
第34代 「舒明天皇」
第33代推古天皇と
第35代皇極天皇(重祚して斉明天皇)
の間の天皇です
天智天皇の母親は「皇極・斉明天皇」と
すぐに出てきますが
父親となると
「舒明天皇」とは思い浮かばなかった
階段を降りてくると、来た道ではない
方向の先にも
進めるようになっていて
見上げてみると
「段丘」がしっかり見えました
この古墳の最大の特徴は
わが国で初めて造られた八角墳であること
とここの看板には書いてありました
この八角形をした天皇の玉座「高御座」にも流れを
みることはできてます
八角形は「国土の隅々までを治める」ことの思想の
表れであり、それはまさに八角墳の出現時期と
重なることから、
国家統一的な形にしたのではという学説に
興味をそそられます
と書いてありました(赤い文字の部分)
👇の部分は「鏡王女万葉歌碑」ありました
万葉歌碑については今回もらったパンフレットの
中にありましたが、
ここでは省略するのですが、
「鏡王女」というと
「額田王」の姉を思い出します。
色々諸説ある様なのでこの辺りは本当に難しい😓
ですが、私が最初に聞いた話を元に
諸説を読み聞きをしています
ここには「中大兄皇子」が「鏡王女」におくった
歌碑が書いてあるそうです
推古天皇も長男の竹田皇子と合葬されています
推古天皇は
「竹田皇子と合葬せよ」と遺言されたようです



























































































