牽牛子塚古墳 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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第35代皇極天皇、重祚され

第37代斉明天皇となりました


天皇陵は宮内庁が定めている

奈良県高取町にある「斉明天皇越智崗上陵」  

(おちのおかのえのみささぎ)

があります。


しかし、この3月で一般公開された

「牽牛子塚古墳、越塚御門古墳」は

斉明天皇陵として有力視されています。






アグリステーションの裏に駐車場があり、

そこに車を置いて歩いてきました。






雲と同じくらい白いです。


当時はこんなに白かったそうです。


私は以前発掘調査していない時は

写真でしかしらないので、

当時はこんなだったのでしょうね。













牽牛子塚古墳の内部。



パンフレットより




下にある越塚御門古墳は見えないです。

👇



左下の小さいのが越塚御門古墳です。





越塚御門古墳の内部は大きな石がかぶさって
いたとか?
なぜ、欠けているか?
現地の案内説明された方によると
高取城の石垣になっているかも?と
おっしゃられていました。



私は駅にはいっていないので

わからないのですが、

駐車場のアグリステーションのトイレ前に

パンフレットがあったので

そちらをいただいてきました。 


調査前の牽牛子塚古墳だそうです。


              パンフレットより






宮内庁が選定している👇

斉明天皇陵の「車木ケンノウ古墳」にも

2年前に行っています。



👇


















こんなに立派にされています。

宮内庁が管理する斉明天皇陵とその娘
間人皇女の合葬陵。
陵前には斉明天皇の孫娘にあたる大田皇女の
墓も造られており、更に8歳で亡くなった皇孫
の健王も自分の陵に埋葬するように
斉明天皇が遺言を残したと伝わっています
斉明天皇の陵墓については、「日本書紀」
天智天皇6年(667年)2月27日の条で
「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女
とを、小市岡(現在の越智崗)上陵に合わ
葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の
墓に葬す。」天智天皇こと中大兄皇子は、
母である斉明天皇と妹の間人皇女を一緒に
眠らせ、娘の大田皇女も寄り添う様にして
陵前に葬ったとされている。
また、斉明天皇は若くしてこの世を去った
中大兄皇子の子、健王を可愛がっていた
ことから「万事千秋の後に、要ず朕が陵に
合葬れ」、と群臣に命じ、孫を想って挽歌も
詠んでいる。
宮内庁はこれまで車木ケンノウ古墳を
斉明天皇陵として管理してきたが、
平成22年(2010年)に成果が発表された
明日香村教育委員会の調査により、
牽牛子塚古墳こそが天皇陵である可能性も
高まってきています。


同じ形態のものが、牽牛子塚古墳よりも
前にあったということなんですかね。