大塩八幡宮 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

パンフレットをもらって

  行って見たくなりましたキューン




パンフレット





場所は

福井県越前市国兼町22-2


「大塩八幡宮」








一之鳥居あたりから見た様子。
残念なことに二之鳥居は工事中でした。

一之鳥居は
下記の由来でも出てきますが
朝倉貞景が建立

ニ之鳥居は朝倉義景が建立したと
されています。


現在は当時のものではないでしょうが、
氏子さんによる修繕中とのことでした。







残念二之鳥居は工事中でした。








御祭神

たらしなかつひこのすめらみこと

帯中津日子天皇(第14代仲哀天皇)

ほむだわけのすめらみこと

品陀和気天皇(第15代応神天皇)

おきながたらしひめのみこと

神功皇后(仲哀天皇の皇后)


御由緒

第58代光孝天皇の御代、平安初期にあたる

仁和3年(887年)8月3日、

朝廷にあった紀中納言友仲朝臣(後に紀長谷雄と云い

菅原道真公の門弟、文章博士、遣唐使副使となる)

21才(一説には43歳)にして仲間の妬みにより

越前国府中の南(日野川の中洲?)へ流罪となった。

そこで無実の罪を晴らさんとして、この社を祈願の地

と定めて榊を桜井峯(背後の峯)に植え、

麓に参籠所を設けて、岩清水八幡宮(都の守護神)の

新明の加護を願い日夜、帰洛のことを祈る内に

間も無く祈祷の甲斐あって、神勅を蒙り程なく

許されたのである。

時に宇田天皇の寛平元年(889年)三月、無事朝廷に

復帰することができたのを喜んで、早速神勅の趣を

密奏するに、天皇の御霊夢に不思議やぴたりと符号

されたことをことの外驚かれ、この不思議な霊験に

より、早速現在地に紀友仲朝臣に当宮建立の棟梁を

仰せ給い、朝廷より木工寮、内匠寮に仰せて

造営費と技術、資材の援助により造営されたのである。

寛平3年(891年)8月20日、京都石清水八幡宮を勧進して

勅使三条大納言公季卿下向し、

神主清原真人元政(瓜生神主の祖)他禰宜、社人同行した。

同5年8月15日を祭礼日と定め神事放生会等石清水祭祀の

如く行われたという。

神領は従都部郷(南条郡内)封戸三百戸、約5千石を

賜った。

当国は日本海を距てて異国に近く、北夷降伏状と越前国府

(武生)鎮護の為、社殿をあえて北面鎮座したという。

無実の罪や疑いを受けたものは、

この御祭神に祈れば速やかに災難をのがるる霊験があります。

その後、鎌倉幕府の朔幣田、足利幕府の社殿修復、朝倉家の

社殿並びに大鳥居の寄進等、領主、国司の崇敬厚く荘厳を

極めたが、天正年間一揆の際、社殿の一部を破壊、神領の没収

があったが、慶長8年松平秀康公社領三十石、元和9年松平忠直

公ニ十石加増以来順次造営補修が続けられて、

松平家(福井藩)本多家(府中藩)代々の崇敬、

厚いものがあり今日に及ぶ。


            (パンフレットより)


由緒をみるとこの八幡宮を厚遇して

いたことがわかりますが、





木曽義仲ゆかりの社



階段は178段とも言われていますが、

数えきれませんでした💦








倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲はその後も重ね

北国街道を西上し大塩八幡宮の境内に本陣を構え

戦勝祈願をしたと伝えられています。

その際に、兵士の失火によって社殿が消した為、

日吉山王社の拝殿を移築した拝殿があります。



















木曽義仲は倶利伽羅峠、篠原の戦いにおいて

大勝し平家追討のため大塩八幡宮に陣を構え

配置し戦勝祈願をしたものの

平家はこの地で戦わずして後退しました。





その際に従った者は五万(三万とも)の兵が

従ったとも言われています。


兵火により消失したのを申し訳家なしとして

杣山山麓の日吉山王社の拝殿を引きとり

3日三晩で移築したとも云われています。

平家を滅ぼし成就したのち本殿を再建する

として柱を逆木に建て縁起を担ぐものの

寿永3年近江粟津の戦いで敗れ、

再建する夢は叶わなかったんですね




いきなりまさかここで木曽義仲の縁の

場所に出会えるとは思わなかったので

びっくりしてしまいましたが、






















寿翁神社(疱瘡神社)


疱瘡・疫病の守護神を祀る。

延喜元年(901年)2月11日醍醐天皇の

勅命により勧進された。

大永の頃(1521年)越前領主朝倉孝景の息女

11才の時疱瘡に罹り、悩みあるをこの社の祈祷した

お守りを持参したところ、

開放に向かい効験あったので

以後お参りが盛んになったそうです。









源嫡神社(東照宮)


徳川家康を祀り、寛永年間に東照宮を模して創祀され、

明治維新後に現社殿の建て替えられるまで

極彩色の社殿だったそうです。




あめのやおろずひめ

天八百萬比咩神社




高良神社



清務霊社


御祭神 舎人親王(神職清原家の祖)

    三原王・貞代王・清原夏野公・房則卿


由緒 当宮・宮司家の先祖・清原一族を祀る

平安初期、当宮創立後に鎮座。

破損移転の後昭和60年6月再建


とあります。



この先に木曽義仲の本陣後があり、


またその先にも



展望台まで300m

如意輪観音まで870mという

まだ先があったのですが断念。


お腹がすいた〜



と言うことでした。



「大塩八幡宮」は創建する際にあったっても

由緒を読んでみると興味深くブログをupする際に

調べていたら時間があっという間に立ってしまいました。




話はこの後にお腹がすいたのでどうしよう?

と言うことになって

予定では

お昼は福井へ行ったなら

「ヨーロッパ軒」のソースカツ丼?

なんて思っていましたが、

まだまだ見て周りたいところがあったので


昼は「越前そばの里」で「越前そば」を

食べようということになリました。


長蛇の列!


なので




☝️ここまでもどってきて、

道の駅で食べました。




辛味大根とおかか。


やはり⤵︎抑えられずに






💦ミニ丼付きにしちゃいました

         食べ過ぎでしょう💦💦😅