第58回 「京の冬の旅」
今年のテーマは
「紫式部と源氏物語」
「京の龍めぐり」
☝️これは購入
以前、大河ドラマで「八重の桜」の関係で
この辺りを歩いたことを思い出しました。
当時はこれを目当てにして
歩いていたので
こんなところに「紫式部の邸宅趾」が
あるんだね。
と会話を主人としたのを思いだしました。
☝️ここも通り過ぎて
「慶光天皇陵」(きょうこうてんのう)が
境内にあります。
廬山寺は天台宗圓浄寺の大本山で、
正しくは廬山寺天台講寺といいます。
天慶年間(938年)、比叡山第18世座主
元三大師良源(慈恵大師)が京都の北、
船岡山南麓に、宮中に通うときの宿坊として
「與願金剛院」を開いたのが始まりで、
寛元3年(1245年)には法然上人に帰依した
住心覚瑜上人が、出雲路に「廬山寺」を開き、
そして南北朝時代に第3世の明導照源上人が
「廬山寺」と「與願金剛院」を兼務していましたが
離れていると法務に支障をきたすため
明導上人が1368年に「廬山寺」が「與願金剛院」に
統合され、この時以来寺名を「廬山寺」から
「廬山天台講寺」と改め、
円・密・戒・浄の四宗兼学道場となったそうです。
パンフレットの沿革によりますと
👇
その後、応仁の兵火の遭い、又元亀2年の信長の
比叡山焼き打ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命
を受け、天正元年(1573年)
現在地・紫式部邸宅趾に移転する。
(豊臣秀吉の寺町区画整理により)
当地は紫式部の曽祖父の
中納言藤原兼輔(877年〜933年)から
伯父の為頼、父の為時へと伝えられた
広い邸宅であった。
それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれたため
「堤邸」と呼ばれ、それに因んで兼輔は
「堤中納言」の名で知られていた。
紫式部は百年ほど前に建てた「旧い家」で
一生の大部分を過ごしたといわれ、
この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、
一人娘の賢子(かたこ・大弐三位)を育て、
源氏物語を執筆したのである。
現在の本堂は、宝永5年(1708年)、天明8年
(1788年)相つでの焼失後、寛政6年(1794年)に
光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、
閑院宮家の御下賜でもって改装されたものである。
明治維新までは御黒戸四箇院と云って、
宮中の仏事を司る寺院が四ヶ寺
(廬山寺・二尊院・般舟院・遣迎院)であり、
その中の一つであった。
明治5年9月、太政官布告を以って総本山延暦寺に
附属する。(廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預け)
昭和23年(1948年)圓浄宗として元の
四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり
今日に至る
👆とあります。
出雲路…京都加茂川の西畔、現在の北区と上京区の
区境辺り一帯
写真にすると見えないな?
紫式部
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
くもがくれにし よわのつきかげ
大弐三位(紫式部の娘)
有馬山 ゐなの笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
👆では紫式部は、越後守・藤原為時の
娘で、名は香子(たかこ)と言ったらしいとあります
(角田文衞氏の説明版)
受付を済ませると本堂の拝観口で
紫式部さんがお出迎えしてくれています。
この玄関口と中は「源氏庭」だけが撮影可能と
なっています。
平安時代の庭園をモチーフに作庭したものだ
そうです。
6月から9月の期間は桔梗の花が咲いて
いるそうです。
その期間にまた来てみたいです。
江戸時代の絵師・住吉廣尚(住吉派)が描いた
源氏物語の「若紫」の絵が飾られていたり、
していました。
御朱印帳↓
今回の特別公開エリアの
元三大師堂では秘仏である
「元三大師坐像」と御前立である
「鬼大師像」も拝見させていただきました。
御前立はだいたいにおいて似たものが
安置されていると言われていますが、
こちらは鬼の形相、角まであり口が耳まで裂け
両眼は見開き、手には独鈷をもって
邪念降伏へと導く元三大師様の姿だ
そうです。
これには逸話があり、それをこの堂内にて
説明してくださりました。
また、堂内には「明智光秀の念持仏」と伝わる
地蔵菩薩像も安置されていました。
なぜここに明智光秀?と思いましたが
「比叡山の焼き討ち」が縁でこちらに
安置される様になったそうです。
その縁についても話してくださりましたよ。
今回は御朱印もいただき、
また販売冊子において
この場所に「紫式部の邸趾」「堤邸」があった
事実を日本の考古学者の
角田文衞博士によって考証が行われて確定された
経緯などの一部が書かれているものも
購入しました。
30ページ弱のものですが、
平安期から変わりゆく京都を色々な資料から
積み重ねて特定していった経緯、
また当時の様子を推定して行く様子が
とても楽しく読んでいます。