東三条邸趾 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

東三条院趾(ひがしさんじょうし)




看板によると


東三条院の趾は、この辺りを中心として

二条通、御池通、新町通り、西洞院通に

囲まれた東西約130m、南北約280mに及ぶ

細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた

藤原氏の邸があったところある。

醍醐天皇皇子重明親王の邸であったが、

に藤原良房兼家が譲り受けた後は

藤原氏出身の女子で皇妃・母后となった人が

居住する慣わしとなっていたところである。

藤原良房から基経、忠平→重明親王)

※重明親王は忠平娘寛子→師輔娘登子が後宮)

登子は守平親王(円融天皇)の乳母の1人


藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉天皇

の女御となって三条天皇を、妹娘詮子は円融天皇の女御

となって一条天皇をそれぞれっこで産んでいる。

殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、

出家して東三条院と称した。

その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、

庭内池には龍頭線を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、

公家の遊宴が盛んに行われた。

その華やかな様は、「本朝文粋」にも記されているが、

邸は安元3年(1177年)には火災で焼失した。


とありました。





はじめは醍醐天皇皇子重明親王の邸であったのですが

平安時代初期に摂政・藤原良房が譲り受けた後は、

藤原氏の邸として引き継がれたいき、兼家の時代に

最も大きくなったそうです。

一部は内裏の清涼殿を模して建て替えたとも

言われています。

(兼家は東三条殿と称しました)

また、「源氏物語」の六条院のモデルも

ここだと言われています。

なぜここを知ることができたかというと

紫式部が一条天皇の女御となる彰子に従って

御所に入った頃は御所が焼失してしまって

いて一条天皇は一時的にこの東三条殿を仮寓所

として言われていたので、初出仕は

この邸だったのではないかとも。


兼家の姉娘「超子」は冷泉天皇の女御となって

三条天皇を、妹娘「詮子」は円融天皇の女御となって

一条天皇をそれぞれここで産んでいます

詮子は一条天皇の即位後、皇太后となって出家し

「東三条院」と称しました

兼家の死後は道隆に継承され、道隆の長女

定子はここから一条天皇に入内していたり

道隆の死後は道長が相伝し、一条天皇が退位すると

三条天皇は東三条殿から内裏に入っています。


その後「東三条院」は保元元年(1156年)に起こった

「保元の乱」では、後白河天皇側が接種して

立て篭もったところであったり、

源頼政の鵺退治の場所が「東三条の森」とも

言われているので伝説であるとはいえ

ここがその場所の一つだとも言われています。





この石碑の先を見ると、

現在の二条城がみえます。